見出し画像

『選択と集中』を擁護する:日本の研究力低下は選択と集中をして"いない"からかもしれない

 先日、日本の研究力が過去最低となり、韓国やスペインに抜かれたという記事が出てそこそこ話題となっていた。

 こうした日本の研究力低下について、巷では政府による"選択と集中"が原因であるという主張が人気を博している。
 そこから派生して一部の研究者や院生たちが財務省や文科省や政府に対して感情的な批判を繰り広げている様は、もはやお馴染みの光景だと思う。

 しかし、こうした大衆化された批判というものは常に特有の雑さが伴う。
 なので、批判されている選択と集中の定義とは何か、原義や一般的な定義から離れる場合この言葉は何をさしているのか、その批判は正当なのか、本当に選択と集中は悪い影響をもたらすのか、そもそも選択と集中は実際に行われているのかなど、まずは主張を紐解き、論点を把握する必要があるだろう。

選択と集中とは何か?

 選択と集中の原義から見てみよう。選択と集中は経営用語に由来し、その定義は

ある企業が現在得意とする、あるいは将来的に得意となるべきと考えている事業・分野へとリソースを集中させることで競争を有利に進めるための戦略

であり、対義語は多角化とされている。多角化の定義は

リソースを新たな製品・市場に展開することで、成長を実現する戦略

である。

 企業が選択と集中を必要としたのには相応の理由がある。
 高度経済成長期からバブル期にかけて、よく肯定的に扱われる終身雇用制度は多くの余剰人員を抱え込んでしまうという深刻な問題を生み、これに悩まされた日本企業は多角化戦略を採用し、余剰人員を新規事業に回すことで問題の解決を目論んだ。
 多角化戦略は「長期的には単一事業に依存する経営状況は高いリスクが伴うので、様々な事業分野を保有することでリスクを分散させて継続的な成長を達成するべきだ」という正当化によって広く受け入れられたのだが、やがて致命的な問題点が露わとなってくる。

 考えてみれば至極当然なのだが、競争に勝つためには充分なリソースの投入と技術力やノウハウの蓄積が必要となる
 なので、扱う事業が増えるほど1つの事業に投入できるリソースが減り、結果的にはどの事業も中途半端なものとなるため、やがて競争から脱落してしまう
 つまり、1つの事業に依存することだけでなく、多くの事業を抱え込むことにもまた大きなリスクが孕んでいたと言えるだろう。

 日本に先んじてこのような多角化戦略の問題に行き詰まった米国では、新たな解決策として選択と集中戦略が考案された。
 北米の総合電機メーカーとして有名なGEも当初は多角化戦略を採用していたが、80年代に選択と集中戦略へと方針を変えて事業整理を行うことで、その後更なる高成長を達成している。

 GEが選択と集中で経営状況を大幅に改善できたのに対して、日本の総合電機メーカーは、終身雇用が前提としてあるせいで事業撤退による人員整理や事業売却に否定的な見方が強かったため、長期間に渡り多角化戦略を放棄できず泥沼から抜け出せずにいた。
 選択と集中を避けて多くの事業を抱え続けてきた日本企業は、その後に起きた半導体事業などの先端技術への投資競争で他国に敗北したり、事業不振による再編や身売りの必要に迫られたりと、経営戦略に失敗したツケを支払わされている。

 つまり、日本企業衰退の背景の一つとして、終身雇用制度を放棄できないがために多角化戦略に執着し、選択と集中戦略を拒絶したことが挙げられる

選択と集中は本当に悪い影響を及ぼしているのか?

 日本では選択と集中が悪名高いにも関わらず、海を越えると以下のように肯定的な文脈で語られることの方がずっと多い。

 少なくとも各報道や研究力に関する調査を見る限りでは、ドイツや韓国といった国々では選択と集中を国が指導していて、一定の良い結果が出ているのがわかる。

 上の論文シェアの比較を見ると、日独仏韓のように非英語話者の研究者が中心となる(現地語で研究ができる)国ほどTop10%補正のシェアで不利に働くが、それでも全ての分野においてTop10%補正のシェアが論文シェアを大きく下回っているのは日本のみである。
 つまり、言語のせいで極端に低い評価がなされているのではなく、なんらかの理由で日本の研究の質が他国よりも著しく落ちている可能性について考えるべきだろう。

 また、もしも"選択と集中"が国際的な研究競争に勝つために、自身が得意とする、あるいは将来的な優位性を確保するために注力すべき分野へと投資することを指す場合、独仏韓では成功しているが、日本では全く成功していないのが分かるだろう。
 つまり、独仏韓と日本との間には"選択と集中"の認識について大きな齟齬がある可能性が高い。

 そこで、学術投資の集中と分散に関する議論を見てみよう。

 実証研究によると、助成金の規模がある閾値を超えると、投資に対するリターンが停滞、または減少することが示されているが、この閾値は分野や国特有の特性によって異なる
 ただし、これはあくまでも個人やラボのような小集団間での集中・分散の話であり、より大きなスケールの集団を対象としていない点に注意して欲しい。
 つまり、「優秀な個人やラボに対して閾値以上の研究費を投じても返ってパフォーマンスが落ちるので、より多種多様な研究グループに分散投資をした方が良い」という話であって、よりスケールの大きい国や大学、学部、学科といった単位でも全くそのまま当てはめられるような話ではない。
 例えばAという研究への選択と集中を行いたい場合は、有力なa1a2という研究グループに資金を集中的に投入するのではなく、より多くのAを研究する中小グループへの投資が必要となる。

 このことは、ドイツと日本の比較でも確認できる。

 グラフから分るように、日本はTop10%論文の生産が一部の大学や研究機関に集まっているが、ドイツはTop10%論文の生産がより多くの大学や研究機関に分散されている。つまり、

⚫︎日本にとっての『選択と集中』→上位の大学や研究機関のみが高水準の研究を行う。小集団への集中投資を目的としているため、他国とは異なり特定の分野へのリソースの集中を意味していない。
⚫︎ドイツにとっての『選択と集中』→国が重点的な目標を掲げていたり、大学ごとに集中的に研究すべき分野を決めているので、小集団への投資では分散的となり、より多くの大学が高水準の研究を行うことができる。

 助成金の額が大きくなると、それだけプロジェクトの規模や研究員数が増すため、それによって様々な弊害が生じるようになる。
 例えば、大規模な研究チームでは、リーダーが助成金の執筆や科学管理、組織的な問題にほぼすべての時間を費やすため、実際の研究や学生・若手の指導にほとんど時間を割くことができないという問題が存在する。
 また、小集団への資金の集中が起きると、数学科や人文系の研究科でたまにあるように、すでに充分な資金を確保している研究者が(業績基準などのインセンティブが働いて)生産的に費やせる以上のリソースを申請し予算を獲得してしまい、資金と報酬制度における配分的・経済的非効率が発生するという問題もある。

 実際にこれらの問題は日本でも確認されているため、資金の分配制度を見直さない限りは、どれだけ予算を増やしたところで日本の研究環境が抱える問題が改善されることはないだろう。
 そして、皮肉にもその解決策となり得る小集団への分配投資は、諸外国が成功した"選択と集中"戦略の基本骨格に組み込まれているのである。

日本で選択と集中は本当に行われているのか?

 選択と集中についてよく考えてみると、「そもそも日本で批判が広まっている『選択と集中』は本当に選択と集中と呼べるのだろうか?」という疑念を抱くようになるだろう。
 結論から言えば答えはNOであるが、大元の批判者の想定にあったと考えられる、「小集団のスケールにおける資金の集中は間違いである可能性が高い」という認識は、選択と集中の支持者との間で共有できていると思う。

 しかし、新自由主義への批判と同様に、言説が大衆化するにつれて批判者たちが想定する『選択と集中』は実態から離れてデモナイゼーションされ、無関係な別件での不満の原因となったり、省庁に向けられた陰謀論じみた恨みの原因となるなど、雑な言説の根拠として扱われている。
 新自由主義を批判しておけば何かしら社会問題を語れた気になれるように、選択と集中を批判しておけば学術政策について何かを語れた気になるので、思考が苦手な人たちの間で愛されているのだろう。

 そこで、批判者の『選択と集中』観や面白い言説を幾つか見ていきたい。

⚫︎「選択と集中は、最小の投資で最大の利益を得ようとしている」

 実際には、日本の研究費は諸外国と比較して少ない訳ではなく、むしろ多い方である。

 例えば日本の総合的な研究開発費は世界3位であり、大学や公的機関に限定してもどちらも第4位に位置している。
 そのため、日本は「最小の投資額で最大の利益を得ようとしている」のではなく、「世界トップクラスの資金を投入しているにもかかわらず、それよりもずっと少ない資金で(選択と集中をして)研究している国々に研究力で負けている」、「日本の研究費の順位は変わらず高水準を維持しているが、何らかの理由で調査のたびに研究力が落ち続けている」というのが正しい。
 なので、上記したような予算分配における非効率性を批判するのではなく、単に研究費の少なさを批判する場合は、事実に反しているため的確な批判とはなり得ない
 また、図からもわかるように、もし現在の日本に更なる埋蔵金があるとすれば企業の資金力なので、政府や官僚が産学連携や大学ファンドを推進しようとするのは真っ当な方針であるのだが、なぜかこれすら批判する人が出てくるのだから救いようがない。

⚫︎「選択と集中のせいで研究者が減って他国よりも少ない」

 実際は日本の研究者数は世界3位であり、世界水準でみればかなり多い。

 また、「90年代から選択と集中が言われ始めて大学院進学者が減った」という主張も根強いが、むしろ90年代と比較すると、少子化にも関わらず博士課程の入学者数は大きく増加している。

 つまり、彼らが主張するような選択と集中のせいで90年代以降研究者数や博士課程進学者数が減ったという事実はなく、また、個々の研究者・ラボへの研究費削減についても、選択と集中のせいではなくむしろ選択と集中を行わなかったためにリソースの欠乏が深刻化したことが原因の一つとして考えられるかもしれない。

⚫︎ 「(選択と集中関連の話は)自然科学分野ばかりが中心となるが、社会科学や人文系の研究力も底上げしないと、自然科学だけ回復するのは難しい」

 あまりに論拠が不明瞭であるが、たまに見かけるのと、何でも文系研究の必要性に繋げようとする強引さがほんの少しだけ面白いので気に入っている。
 当然ながらこの支離滅裂な主張も正しいとは言えず、実際には文系に対する風当たりが強い国でも研究力を大きく飛躍させている例が存在する
 その一例がオーストラリアである。オーストラリアでは国内トップクラスの国立大学が文系分野の学部を廃止したり縮小させる方針を打ち出している。

 西オーストラリア大学とシドニー大学は、日本の大学で例えるならば、それぞれ九州大学と京都大学のような立ち位置であり、九大や京大で文系学部の一部廃止を決めたならば、日本でどれほどの騒ぎになるのか検討もつかない。
 そう考えると、文系の学問や研究者への風当たりは、日本のそれよりも遥かに厳しいものであろうことは想像に難くない。
 しかし、一方でオーストラリアは、日本の研究力が落ちていく中、それに取って代わる形で研究力ランキングの上位に入りこんで来ている

 なので「文系研究の底上げをしなければ自然科学の研究力は上がらない」は事実に反するし、むしろオーストラリアの例を挙げて「文系研究を蔑ろにして他の研究に"選択と集中"をすれば研究力が上がり、予算の少ない小国でも上位に入り込めるようになる」と主張する方が、事実に即した尤もらしい見解と言えてしまうかもしれない。
 後者よりも弱い主張をしている以上は、安易な言及を避けるべきだろう。
 オーストラリアの研究資金事情については以下を参考にしている。

http://www.uq.edu.au/economics/abstract/578.pdf

⚫︎選択と集中は当たり万馬券のみを狙うようなもの

 恐らく最も人気のある主張で、研究者だけでなく一般人の間にも広がっているようだ。
 何せこんな画像まであるのだから。

 似たような主張として、株式投資に例えたものも存在する。

 これらの主張がなぜ面白いのかというと、①選択と集中の手法について勘違いをしており、②投資によって利益を得るための手法を理解していない、という2重の間違いを犯しているからである。
 というのも、全ての投資は選択と集中によって利益を得ているのだ。

 バフェットの例が出ているので、まずは彼の話から考えてみよう。
 彼の有名な言葉として次のようなものがある。

分散とは無知に対するリスク回避である。…広範囲な分散投資が必要となるのは、その投資家が投資に疎い場合のみだ。…私は数銘柄を大量に持つのが好きだ。

 引用者の意図している手法とは全く違うのがわかるのではないだろうか?
 恐らく損切りをして投資先を替える、という作業を繰り返した結果400-500銘柄になったという話を一度にそれくらい投資していたと勘違いしたのだろう(元ネタを読んでいないので著者と引用者のどちらが誤解したのかはわからない)。
 そして、400-500銘柄であっても市場規模で見れば雀の涙ほどでしかない。大学資金のイメージでいえば、幾つかの学科や大学発ベンチャーに投資しましたくらいのスケールだろう。どちらにせよ、かなりの集中投資を行っている。

あらゆる投資という営為は、最終的にアップサイド(潜在的利得)がダウンサイド(潜在的損失)よりも大きく上回るように設定、管理して行われる。
 例えば、バーベル戦略と呼ばれる手法ではとても安全な資産への投資と非常に投機的な投資という両極端な手法を組み合わせて利益を生む。
 リスクを両極端にすることで平均的には中くらいのリスクになるように調節(専門的に言えば凸結合)しており、こうすることで間違ったリスク管理を回避し、ダウンサイドを抑制しつつアップサイドを享受できるようになる。

 また、アウトオブザマネーの先物取引では、無価値に近い先物プットを大量に積み上げて、金利の振れ幅が大きくなった時に利益を出す。
 この場合、ダウンサイドは限定的だが、アップサイドは膨大になるため、基本的には損失しか出ないが長期的にはプラスになるように計画されている。

 こうして見ると、プロの投資家たちは選択と集中によって利益を出しているのがわかるだろう。
 少なくとも、素人が考えているような意味での"分散投資"だの全てに賭けるだのは絶対に行わない。

 限られたリソースの中で、どのような手法を用いるか、どの分野を対象とするかなど、投資家や企業、機関が個々に独自の戦略や技術を模索し、より良いパフォーマンスを得られるように選択と集中を行い、また、状況に応じてそのポートフォリオを変化させていく。そうすることで市場に多様性が生まれているのだ。

「万馬券のみに投資するようなもの」という主張も同様に、選択と集中を理解していないことで生まれている
 万馬券で利益が発生するような投資計画を立てることはあるかもしれないが、それはハズレ券を買わないだとか当たり券しか買わないといった戦略ではないため、このような批判自体が支離滅裂となっている。
 また、批判者が想定している戦略が「全ての馬券を買う」というものでない限り、それは彼らが批判する意味での"選択と集中"を行っているのと同じでありもしも全ての馬券を買うべきと主張する(学術研究費の話であればこのような意図で"選択と集中"を批判している人が圧倒的に多い)のであれば、必ず損失の方が上回るので、当たり券だけを買えば良いと主張する人よりも遥かに愚かである。

 投資のリスクと同じで、学術研究においても安定したリターンが見込める分野と、投機的になる分野が存在し、また利得を生む研究もあれば損失を生む研究も存在する。
 特に損失を生む研究の存在を、意図的か無意識的かは分からないが、多くの論者が無視しているのは興味深い。
 公的資金で研究がなされている場合、ある学術研究の出した社会的経済的損失の補填は、別の公的資金でなされるため、多くの学問とは無関係な国民に二重の負担をかけることになる。
 つまり、アップサイドや名声はアカデミアが独占するがダウンサイドを国民に押し付けている形となるため、ここに倫理的に問題となる非対称性が生じる。
 ロボトミーにしろ、マルクス主義にしろ、経済危機の原因となった経済理論にしろ、人類史に多大な損害を与えた学術研究が存在するのは事実であり、将来的には、特定の学術分野を対象とした倫理学があるように、学術分野を対象としたリスク測定の研究が生まれるかもしれない。

 選択と集中批判者の誤解している点をまとめると

⚫︎選択と集中は事前に全てを予想できると考えている、成功できるものだけに投資しようとしている
(実際はある程度成果があがる目星がつく分野を複数探し、その範囲内で幅広く投資する)

⚫︎あたりの万馬券だけを買おうとするよりもとにかく数多く買った方が賢い
(実際は無計画な分散投資をしても損失の方が大きくなるため、利益を出そうとしているだけまだあたりの万馬券だけを買おうとしている人の方がマシである。
また、計画的に対象を絞って投資しようとすると、自分たちが批判している意味での"選択と集中"そのものとなるため、主張が破綻する)

 バフェットを引用して選択と集中を批判しようとしたら、返って選択と集中を擁護してしまった方が言うには、「バフェットの発言を引用した方が「選択と集中」言いそうなひとたちには響くのではないか」と思ったかららしい。
 恐らく彼らには選択と集中批判者の投資認識の面白さの方が目に付いて、失笑を買うだけだろう。
 少なくとも、無知と偏見に基づいて何かを(特に批判的な文脈で)語るというのはやめた方がよい。

まとめ

 私見を交えつつ選択と集中関連の話をまとめると、

⚫︎リーソスは常に有限なので、選択と集中は無作為なバラマキや多角的戦略よりも高い競争力とパフォーマンスを発揮し、企業経営だけでなく大学研究資金でも効果的なのが確認されている。
また、母数が多いほど多角的戦略よりも競争が活発化するため、分野内に多様性が生まれやすい。

⚫︎小集団への集中投資はむしろマイナスとなるので分散型投資の方がいい。つまり、国や大学単位で行われる「どの分野・学部に力をいれるか」といった指針での集中は効果的だが、研究者個人やラボ単位では助成金の額がある閾値を超えるとパフォーマンスが低下するので、出来るだけ幅広く資金が渡るようにするのが効果的である。
このタイプの選択と集中政策の成功例としてドイツなどが挙げられる。

⚫︎日本と諸外国とでは"選択と集中"という言葉で意味しているものが違う。
日本にとっての"選択と集中"とは、上位の個人や大学、研究機関のみが高水準の研究を行うシステムである。
小集団への集中投資を目的としているため、他国のように特定の分野へのリソースの集中を意味していない。また、この方式は実証研究で悪いパフォーマンスに陥ると指摘されているものである。
原義や諸外国で共通している「得意な分野、あるいは将来的に優位に立つために必要な分野への集中」をしていない、あるいは、少なくとも上手く機能していないという点で、「日本は選択と集中政策をしているせいで研究力が落ちた」と主張することはできない。

⚫︎日本の学術政策は大学や研究機関単位での資金の集中が見られるが、分野単位では殆ど見られない。そのため、選択と集中ではなく、資金が豊富な一部の大学だけでのみ機能する多角化戦略に似た方針を採用しているといえる。
しかし、企業の多角化戦略がそうであったように、この戦略では適切な規模以上に多分野へ投資することでリソース不足を引き起こし、長期的には競争力の低下や競争からの脱落に繋がるため、これが現在の日本の研究力低下の一因となっているかもしれない。

⚫︎いわゆる選択と集中への批判の中には明らかな事実誤認が多く含まれる。
選択と集中によって高い研究力を保持しているドイツ・韓国・オーストラリアという国々がある中で、研究費・研究者数・論文総数でトップクラスにも関わらず日本だけが研究力が落ち続けている現実を、まずは正確に受け止める必要がある。
その第一歩は、日本が実際に行っているとは言い難い"選択と集中"をやめさえすれば全ての学術的衰退の問題を解決できるはずだという、批判者たちの知的怠慢から脱却するところから始まるだろう。

⚫︎結局のところ、日本の研究力低下の一因は、選択と集中について、批判者も(恐らくは)行政側も正しく理解できていないこと、そのせいで選択と集中政策ができていないことかもしれない。
これは、選択と集中を嫌がって結局は衰退し悲惨な末路を迎えた日本の家電メーカーのように、日本で根強い文化や価値観が強く足を引っ張っている可能性がある。

⚫︎選択と集中批判者が理想としている政策が分かりにくい。よく見られるのは無尽蔵な財源を前提としている荒唐無稽なものだが、論者によってバラバラであり一貫性がほとんどない。
年配教員であれば雇用の継続、若手や院生であれば安定した職の要求、一般人であれば知性や良識の誇示が背景にあると思われるが、具体的にどのような政策が良いか、何を目的とするのかという基盤が存在しないため、出来の悪い大衆的なアンチ思想に留まっている。

 日本の学術政策や研究環境に問題があるのは確かなので、もう少し建設的な議論が増えて欲しいと願うばかりだ。


おまけ:今後日本の研究力が回復する日は来ないかもしれない

 …さて、今まで長々と書いてきたものの、そもそも

「日本の総合的な研究費は世界3位、大学だけでも4位な上に研究者数と論文数でもトップクラスだが、研究力では12位で韓国やスペインにも劣ります」

と言われたときに、恐らくまともな人々が真っ先に考えるのは「日本の研究者はそれだけ質が低いか、国際競争から逃げているだけ」ではないだろうか?

 本音を言えば、指摘されず、それ故に改善されないだろうという意味で、最も深刻な問題はここにあると考えている。
 仮に予算分配の非効率が解消されて充分な資金を獲得したり煩わしい事務仕事から解放されても、日本の研究力はさほど上がらないか、結局はこのまま下がり続ける可能性が高いと思っている。

 また、どれだけ研究力の低さが疑われているからといって、「日本語で書かれたものはお遊び」という主張に憤って「大学図書館の書庫に入って、数十万冊の日本語の学術書や何十年と編まれてきた学術雑誌、その背後にある無数の先人の努力を前に、同じことが言えるのだろうか」などと言ったところで、何ら反論になっていないし、批判者の中であれば、むしろ同じことを言える人の方がずっと多いだろう。
 重要だった論文や著作の大半は外国人によって書かれたものばかりであり、日本語著作に限定しても、教科書的な指定図書や学部レベルの数学書などを除けば、読んだのはほとんど著者が外国人のものばかりだった、それどころか、ある分野で必読書とされている著作が未邦訳なままだから研究するにはそもそも原語で読めないと話にならないし、高度になればなるほど日本語で得られるものはほとんど何もなくなる、そんな経験をしている人は世の中多いのではないだろうか。
 それに、先人の努力の有無や著作・論文数と研究力、お遊びかどうか、価値がある論文かどうかの間に明白な関連があるように思えず、それをもって何を論証した気になっているのかも不明だ。
 そもそも日本人研究者は、論文数は多いが質が低いというのが問題になっているのではなかったか?

 こういうのを見ていると、お役人が日本人研究者のパフォーマンスの悪さに苛立っているのも、あながち間違った反応ではないのかもしれないと思えてくる。

 90年代に流入した選択と集中戦略は、日本の雇用制度のために強い反発を招き頓挫した。しかし、そのせいで日本企業は長い停滞の時代を迎え、その間に諸外国の企業との競争に負け出すと、結局は事業の縮小や再編、身売りをする必要に迫られた。

 大学改革が始まった頃に、終身雇用が壊されてしまうという、日本人が抱いた選択と集中"への嫌悪感やトラウマを、大学改革批判のために利用するのを思い付いた人物がいたのだろう。
 この手の主張は深い考えもなく、ある種のレッテルに過ぎない。最初に言い出した人たちは、単に反対者を増やすことだけが目的だったので、本当に"選択と集中"と言えるのかすら考慮しなかっただろう。
 政治的言論というのは元来そういうものなので仕方がないのかもしれないが。

 しかし、だからこそこの批判は瞬く間に広がっていたのかもしれない。
 「お前は〇〇差別主義者だ」「それはミソジニー(ミサンドリー)だ」「〇〇フォビアだ」「新自由主義的だ」「社会主義的だ」など、ある政策や思想、主張を、ただ拒絶したい多くの人達にとって、これらのタームはあまりに魅力的だ。
 だが、それが本当に差別なのか、何かへの嫌悪なのか、その思想に基づくものなのかを精査する人は少ないし、大半の人には動機すら存在しない。
 なので学者や研究者という職業が存在するのだが、彼ら自身の食い扶持に関わるせいか、学術政策の話になると途端に知性が劣化して、素人による雑な政治談義と変わらない言説で溢れ返ってしまっている。
 それでも、国内外にこの問題を扱っている研究者は幾らでもいるのだから、彼らの成果を頼るくらいしても良いはずなのだが。

 こうした"選択と集中"批判による行政とアカデミアの政治的対立は、身内に反対者を増やすことができたのもあってか、(本人たちはそうは思っていないだろうが)ある程度アカデミア側に有利な形で終わったようだ。
 今現在世界中で起きている大規模な研究者のリストラも、テニュア教員の解雇も、全国的な学部の大幅縮小も今のところ起きていない。
 現在テニュアになって逃げ切ることができるであろう日本の研究者たちは、自分たちの雇用を守るために改革の完遂を拒絶するという目的を見事達成できたのである。
 日本政府がやろうとしていた改革が上手くいったかは疑わしいので、これ自体は良かったかもしれない。

 しかし、ほぼ同時期からある問題が生じてくる。世界中で大学改革と予算分配の見直しがなされるようになり、多くの国や大学が選択と集中や産学連携を始め、日本以外の国々では年々研究力が高まっているのだ。

 アメリカでは中国との競争を見越してSTEMへ重点的に投資する方針を打ち出し、徹底した大学改革によって多くの研究者が解雇され、テニュア教員であっても容赦なく学部単位での廃止により放逐された。
 それどころか、テニュア制度自体の廃止が州や大学規模で実施されてすらいる。
 テニュアの廃止には文化戦争が背後にあるものの、そうすることで予算分配を効率化し、間違った分野に投資して失敗してもすぐに再編してリカバリーできるという柔軟な研究環境が作れるので、共和党系州の公立大学だけでなく、有名私大でもテニュアを雇わなかったり、学部廃止後に研究者たちを解雇しやすい別の契約で再雇用するようになってきている。

 独仏ではそれぞれの大学が選択と集中を行なって幾つかの得意分野を作ることで競争力を高めた一方で、英国では国が重点化方針を決めた分野以外は廃止や助成金の打ち切りを断行し、日本ではあり得ないほど多くの学部が今なお廃止され続け、そのたびに解雇された研究者たちが路頭を彷徨っている。

 オーストラリアや韓国では、自力で確保可能な予算が少ないため、早くから選択と集中による効率的なリソース分配や産学連携に取り組んでいた。
 両国の成長は特に目を見張るものがあり、大学事情に詳しくなくとも、韓国が幾つかの先端技術でトップクラスなのを知っている人は多いのではないだろうか?
 オーストラリアも90年代は研究力で10位代でありながら、今ではトップ5に入るほど質が高い研究が可能となっている。

 欧州諸国も、韓国やオーストラリアも、日本よりも研究費が少なく(ドイツだけ大学と研究機関でやや勝るが、それでも総合した研究費では日本に負けている)、また研究者の数も少ない。
 これは、日本のやり方が選択と集中に負けたということで間違いないだろう。
 にも関わらず、批判すべき現行の大学政策を政治的理由から"選択と集中"と呼称してしまったせいで、なぜこれらの国の政策が成功しているのか、つまり、選択と集中の良い側面の話が出来なくなってしまっている。
代わりに、諸外国の成功の背景が伏せられたまま、「日本は選択と集中のせいで失敗した」という都合の良い嘘の主張ばかりが人気となり広まっていく。

 解決策として、選択と集中政策を"選択と集中"という言葉を使わずに推し進める、などが考えられるが、現在流行りの言説は無際限の支出拡大を前提としている荒唐無稽なものばかりな以上、話が通じず論争では常に数の暴力に晒されて不利に立たされるだろう。そして、「それは選択と集中だ」という、彼らにしては珍しく正確なレッテル貼りによって拒絶される。
 ならば、そうした「反選択と集中」言説の問題点や誤認、彼らが理想としている政策の荒唐無稽さ(論者間の一貫性の欠如や実現不可能性)を批判して弱らせることで選択と集中への忌避感を削ぎ落とし、他国で成功している政策を受け入れられる土壌を作る必要があるだろう。
 また、選択と集中戦略のうち、少なくとも「僅かな大学や研究機関ではなくより幅広い大学やラボに対して分散投資をした方が良い」という部分に限定するならば、すぐにでも批判者たちに受け入れさせることが可能ではないだろうか。
 それでも結局は財源が無尽蔵ではない以上、「どの分野を重点的に研究するか」の議論からは逃れられず、国際的な学術競争で生き残るためには選択と集中政策を採用することになるのだが、そこまで頭が回る人ならば最初から"選択と集中"という言葉を使った空虚な批判に興じてなどいないだろう。

 とは言え、今の日本のアカデミア相手にそこまでやる必要があるかは分からない。そこまでやって改善しても、そもそもいわゆる上位論文や質の高い論文を書けない人材ばかりなら研究力は上がらないのだから意味がない。
 そもそも今の大学の中で、そこまでして苛烈な国際的研究競争に踏み込もうという気概があるところも少ないだろう。彼らからしたら、和文誌に誰にも読まれないと知りながらもノルマ的に投稿し続ける方がまだマシなのだから。
 しかし、日本の官僚たちはとても頭が良いので、もしかしたら「予算も人員も諸外国より多いのに結果が悪いのならば、問題があるのは研究者たちの能力の方だ」と既に結論を下しているかもしれない。
 そして、この結論が全くの的外れだと充分な論証により反駁できる人も、残念ながら少ないだろう。

 テニュアを獲得し逃げ切れば良いだけだから無責任に放言と省庁叩きができる上の世代の人ならともかく、若手や院生なのに喜んで雑な選択と集中批判に乗っかっているようだと、想像しているよりもずっと暗い未来が待っていそうだ。
 なにせ、選択と集中を拒否して没落していった日本の総合電機メーカーたちと全く同じ道を、周回遅れで歩いているようなものなのだから。

 日本の研究がどれだけ落ちぶれたところで、どこかの誰かが別の国で良い研究をし続けてくれているのだから、学問全体での損失は全く生じない。
 消えていった学問や研究、かつては中心的な役割を果たしていたが時の流れで学術的に落ちぶれていった国や機関なんてのはこの世界に幾らでも存在する。
 それでも学問は発展し続けているし、それによって致命的な損失や後退が起きたことさえない。
 学問は負け犬に配慮などしないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?