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調査の現場⑥:グローバルスタディーズ学科

生まれてはじめて(本当?)、原稿で遅刻しました。ブログの遅延で國分先生にご迷惑をおかけしました。今回はその言い訳です。大学の先生が何をしているのか、その内情のご報告も兼ね。学期末でまだ授業中でしたが、フランスの大学から不意に博士論文審査の要請が入り、出かけることになりました。出張届けも出さねばならないのですが、補講をするにも学部新課程はクオータ制なので、同一クオータの中で日程を取らねばならず、大学院とは補講日も食い違い、また航空便などの経路もなかなか確定できず、教務担当の先生方には書類不備で何度もご迷惑をおかけした末、ようやく出発直前ぎりぎりで、渡航許可がでました。

写真1. とにかく巨大なドバイ空港 パリ・ドゴールの拡大版です。2023年1月28日 現地時間午前6:45。ブティックのブランド店にも、中国の進出が目覚ましいばかり。
写真2. グレヴァン博物館の上階に位置するロンスレー・ホテルから:パッサージュを見下ろす。ガラス天井の背景彼方に見えるのが、モンマルトルの丘のサクレ・クール寺院。

件(くだん)の博士論文は、表題のとおりですが、論文提出者のイラム・サバンさんは、モロッコはカサブランカ出身の女性、日本には京都に2度ほど長期滞在して、神道の建築の研究をされた方でした。参与観察では京都の町内を皮切りに、伊勢や春日大社、さらには出雲の神有月の祭礼まで実地見学をされ、それを基礎に博士論文を執筆した方です。

写真3. ホテル・ロンスレーの自室で、博士論文審査報告の準備中:審査前日の状況。
写真4. パッサージュのなかの古書店 出光美術館蔵品パリ展覧会(1981)の図録を発見。

早々に大部の博士論文を送付いただいていたのですが、学期中は時間の余裕がなく、論文を読み始めたのは、ドバイ経由パリ行の機内。大学が宛ってくれたホテルは、ミュゼ・グレヴァンの上階という、劇場が密集する右岸の繁華街の真っ只中でしたが、ここに籠もって半日、遮二無二で論文講評を10 枚ほどでっちあげ、これで完成!ワープロの確定ボタンを押し、ホテルのフロントにUSB持参で降りて、印刷を頼んだところ、作ったはずの作文は白紙。半日の苦労の結果が、どうしたわけか水泡に帰し、真っ青になりました。しかたなく、また数時間を費やし、もうフランス語で再度作文する暇はないので、要点だけ、紙に万年筆でメモを作る羽目となりました。(紛失ワープロ文面の復旧は、無能老耄人には無理でした)。

写真5. カフェの街路にせり出した席・お客はまばら 1月30日昼下がり 左岸サン・タンドレ・デザール街。【お客たちの無断撮影は、トラブルのもとですので、要注意。】
写真6. 火災後に改築中のノートルダム大聖堂 1月30日夕刻 プティ・ポン(小橋)のほとりから。

翌日が審査当日だったのですが、今度はゼネストと衝突。パリ大学サンドニ校は北の郊外の外れで、公共機関が動かないとあっては、到達不能。しかたなく臨時措置としてズーム会議での博士論文審査となりました。審査員は全部で5名。大学側のホテル確保は二泊だけ(欧州内部での移動を前提としているもの)なので、当方は移った先の別のホテルの部屋から講評をすることとなりました。接続したけれどリヨンから参加の先生の声が入らなかったり、と若干のトラブルはありましたが、4時間ほどの審査は無事終了。通常ならば、このあとシャンパンを抜いて合格を祝うのですが、オンライン宴会というわけにも参りません。

写真7. ホテル・パルク・サン・セヴランの窓から、珍しく晴れ。2月1日朝9:00すぎ。
写真8. 友人たちと、夕食のあとで、左岸ギャランド街の夜景 2月1日夜。【肖像権許諾済!】

論文の講評にちょっとだけ触れるなら、およそことが神道となると、一般の参拝客は祝詞の意味になど通じていないし、宮司さんでも、お祭りしている神格がどうした理由でいつ頃からお住いなのか、きちんと説明できる場合は、多くない。縁起などはあっても、中世の神仏習合なども混線した神宮寺の実態は、明治の神仏分離令の影響で、これまた復元はむつかしい。ましてや古事記や日本書紀に痕跡を留める神話との関係は不分明。明治時代に来日したお雇い外人たちが一生懸命に勉強したものの、絶対一神教のような啓示も聖典も存在しない神道は、未熟な原始信仰と見做され、伊勢神宮もその「無意味な空虚さ」と「掘っ立て小屋同然」の質素な設え、それに極端な「禁忌」の秘密主義が、欧米来訪者の失望を買った。

写真9. 国立美術史研究所、パッサージュ・ヴィヴィエンヌのロトンド ここでアントワーヌ・グルネー教授に招かれ、飛び入りの講義をひとつ︙話題は香道とフランスの関連収集品。2月2日午前中。
写真10. アラブ世界研究所での展示:「サマルカンドの栄光」 2月3日夕刻・会場にて。

今日でも状況はあまり変わらず、サバンさんも「質問すればするほどわからなくなる」と正直な感想を述べておられましたが、だからこそ、非日本語での神道研究には期待が持てる。皆さんも近所のお社や八幡様が、どのような歴史を背負い、どんな行事を行っているのか、調べてご覧になることをお勧めします。お祭りも京都ではまだ多く残っていて参加も可能。とりわけ外国からのお客さんがあれば、ご一緒して宮司さんに質問するのも、日本研究の第一歩になります。サバンさんは、建築史研究で京都工繊大学に受け入れられたのを足がかりとしたご研究でしたが、奥宮や本殿、拝殿の空間構造や、祭礼の日のハレとケとの交錯、お神輿の運行の経路や意味――そのあたりから全国の社殿の系譜や系列へと研究が進みました。

写真11. パリ日本文化会館では、映画上演は「寅さん特集」でした。「寅さんとの一年」。文化会館まえの掲示板。

彼女とは論文審査の翌々日に初対面で夕食をともにし、その折に論文審査では言及できなかった多くの話題について、詳しく説明しました。対馬の各所にのこるアジルや、伊勢湾の神島のベーダー祭、それに諏訪大社の祭礼など、現場を踏むと、縄文から弥生、稲作の導入に伴う神格の変質、その後の三輪山や伊勢の政治的な状況が見えてくるはずです。出雲では八岐大蛇を素戔嗚尊が退治し、三輪山では同じく蛇の神格が酔っ払うことで、いわば人間の秩序に回収されますが、いずれも水田耕作と米を発酵させて醸造する酒が絡んでいます。明治になっても那智の本宮は洪水で流されたあと、別の場所に移築されますが、してみると八岐大蛇は大水害の記憶であり、大自然の脅威を人間が手懐けるところで、山神様が人里に接近してくる。それが海から渡来して上陸を果たした「マレビト」の政治支配とも交錯する。出雲大社、諏訪大社、奈良盆地の三輪山、さらには日枝山王神社、いずれも湖や池のほとりに位置しているのは、決して偶然ではないはず。お神輿の多くがそもそも舟型だったのも、その来歴を示唆しているようです。松尾大社のお祭りでは、なぜ神輿が桂川を渡川するのか?「国民映画」寅さんシリーズにも、伊勢を舞台にした一編がありますが、的屋のマレビトが縁日を仕切る場面があって、さすがに山田洋次監督は、この世界のことをよく心得ています。

写真12. ケ・ブランリ美術館では、日本の「キモノ」展。友人のアンナ・ジャクソンがロンドンのV&A美術館で実現した展示のフランス語版です。【稲賀は予約なく、門前払い】
写真13. 日本映画『浅田家!』が大人気の様子。監督・中野量太、原案は浅田政志の写真集。主演は二宮和也。2020年ワルシャワ国際映画祭で最優秀アジア映画賞受賞作。地下鉄構内の広告を撮った写真。

さて、学期中の海外出張はたいへんです。博士論文の合間にも、日本からヤレ放送大学の期末試験の採点とその報告を電子媒体で行う業務の締め切りが到来し、年度内納品を予算措置で義務つけられている、前任の研究所での報告書編集刊行の最終ゲラ直しが、2冊分つづけて入り、京都精華大学からも紀要のゲラの確認願いが到来し…という有様で、結局、昼夜を問わずホテルの机に齧りついて対応する日々となりました。ようやく帰国の前日に少し余裕ができて町に出てみましたが、迂闊なことに、カトリックの安息日なので、商店は軒並み閉まる日だったのを、きれいに忘れていました。博物館や美術館もコロナ期からの規則変更で事前電子予約が必要、などとはつゆ知らず、連続空振り、入口で門前払い。さらに帰国前に要請されるコロナ対応ですが、昨年まで義務付けられていたオンラインの「接種証明」や「My SOS」はデジタル庁のVisit Japan webに切り替わっており、しかしこれが老耄・電子機器対応不能老人には、まったく操作不能。説明書きの日本語がすでに意味不明でなにをしなければいけないのか、皆目見当もつかず。さらに帰国当日が、ふたたび年金受給開始年齢引き上げ反対のゼネストにぶつかって、完全交通麻痺。唯一の救いは、用心して航空便にEmiratesを選んでいたこと。お陰で最近リニューアル再開した、ドゴール空港最初期のAerogare1が発着場だったため、便利快適、おまけに最新設備の待合室を堪能できたことでした。時差との関係もあって、直行便よりドバイ経由のほうが夜間飛行でよく眠れ、地球の裏側で仕事がある場合にも、時差ボケに悩まされる恐れが少ないように思います。それにしてもドバイ空港は、成田や羽田よりも遥かに巨大かつ豪華。日本は凋落の路一途です。

写真14. モンソー公園(人工の廃墟)奧のセルヌーシ美術館(建物)。近代中国絵画展開催中でした。この企画も北米在住の当方の知人の研究者たちの仕事でしたが、ここも事前予約が出来ず、入り口で門前払い。不肖稲賀はこの美術館の歴史とセルヌーシ一行の日本滞在については、おそらく現在・世界で一番詳しい人間(のひとり)なのですが…、と僻み根性を披瀝しておきます。
写真15.出発当日の朝:めずらしく快晴でした。タクシーの窓から。左がアラブ世界研究所、右側がパリ大学ジュシュー校。ここに前述のセルヌーシらの研究で34年前に博士論文を出しました。当時の指導教授や審査員の先生方も多く物故されました。感傷旅行の最後の一枚。

2023年2月13日
稲賀繁美(グローバルスタディーズ学科教員)



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