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『白い絵』 ver.1 1,349字



男は画家だった。

だが、実際には「自称」である。

絵を描くことに半生を捧げてきたが、
男の描いた絵は一枚として売れなかったからだ。

何にでも先立つものが要る。
画材は結構な値段がするし、飯も食わねばならない。
日雇い仕事で糊口を凌ぐのがやっとの日々。
一緒に暮らしていた女はとうの昔に愛想を尽かして去り、頼るべき友も親類も無い。

そんな暮らしの中で、気付けば髪には何時しか白いものが混じっていた。

季節は巡り、秋も終わる頃。

男の人生もまた、冬を迎えようとしていた。

男は焦った。
(せめて、たった1枚でも良いから絵が売れたなら……
今までみたいな中途半端がダメなんだ。もっと制作に没頭せねば。
描きたいものは未だ胸の内にある。
今が最後のチャンスだ。この炎が消えてしまわぬうちに)

男はカンバスに向かった。
いく日もいく日も。
日雇いのバイトも辞め、食べることも寝ることも忘れ、ただひたすらに……



「なんか隣から、凄げえ変な臭いがするんすけど」
アパートの住民の苦情を受け、大家は男の部屋に向かった。
(嫌な予感がする)

男には家賃の支払いを暫く待ってくれと言われ了承はしたものの、約束の期日になっても振り込みが無い。
連絡しても全く返答がなかったので、来月には退去して欲しいと告げる心算だった。

アパートに到着すると、男の部屋からは異様な臭いが漏れていた。
念のために呼び鈴を押しても、やはり応答が無い。
嫌な予感は確信に変わる。

合鍵を使って入ると、中はカーテンが閉め切られて薄暗かった。
屍臭が充満する部屋は家財道具らしきものもなく閑散としている。

その中ほどに、かつて「人であったもの」が横たわっていた。

電灯も点かないので、送電を止められたのだろう。
傍らには電灯代わりなのか、小さなランタンが転がっている。

「やれやれ、これじゃあ暫く借り手はつかんな。全くとんだ災難だ」

大家は思わず愚痴をこぼした。
決して酷薄な人間ではなかったが、損害を考えれば無理もない。


冬の日没は早い。
窓を開け放して警察を呼ぶ頃には、もう陽が傾きつつあった。

ふと部屋の片隅に目が行った。
そこにはイーゼルが置かれており、真っ白なカンバスが架かっていた。

よく見ると、何度も何度も上描きしたのだろう。
画面は幾重にも塗り固められて分厚く盛り上がっている。
まだ新しい油絵具の匂いがした。

(一体、何が描きたかったんだろう。真っ白けじゃないか。
おそらくは死ぬ直前まで描き続けたのだろうに、結局は何も描けなかったのか?
そうして何も無い部屋で独り逝って、なんという惨めな人生だろう。
そう思うと何とも哀れだ。
そういう俺も、老親を亡くした今は独り身だったな......)

大家は男を見下ろし、何やらやり切れぬ思いで溜息をついた。

その時、
陽はさらに傾いて部屋を明るく照らした。
夕陽に照らし出された男の顔は、何故か満足げに微笑んでいるように見えた。

(そうか……最後には納得がいくものが描けたんだな……)

大家は改めて暫くじっとその「白い絵」を眺めていたが、やがて物言わぬ男に声を掛けた。

「なあ、この絵は俺が買い取らせてもらっても良いかい?
お代は溜まってた家賃ってことで勘弁してくれよ?」

そう言って腰を屈めると、目を閉じ静かに手を合わせた。


穏やかに晴れたある冬の日の夕暮れ。

ついに、初めて男の絵が売れた。

<了>

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