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『オスマン帝国 柔らかい先制』鈴木董著 読了


<概要>

これまでの西欧主観に基づくオスマン像ではなく、オスマン主観に基づくオスマン帝国の歴史、特にオスマン帝国前期のスルタン独裁の時代をメインに紹介した新書。

<コメント>

前回再読した『オスマン帝国 500年の平和』ではちょっと長すぎる、という方には本書の方がコンパクトなのでおすすめ。

『500年の平和』同様、従来の西欧からみた視点ではなくオスマンを主語にした視点なので、オスマン帝国の別の姿が理解できる内容になっています。

特に本書ではスレイマン一世までの帝国全盛期(本書では「オスマン前期」と紹介)をメインにしているので、オスマン500年の歴史(600年という紹介もある)の中の前半の部分のみにはなりますので、スレイマン一世以降の「官人支配のオスマン」(本書では「オスマン後期」と紹介)や、その後の「近代オスマン」に関しては簡単な紹介にとどまっています。

特にメフムト二世によるイスタンブル(コンスタンチノープル)の陥落とその後の再建の様子や、輝かしいスレイマン一世の治世、そしてオスマン前期の組織や各種制度に関しては、『500年の平和』よりも詳しく紹介されています。

イスタンブル&ボスポラス海峡(2010年撮影。以下同様)

以下、興味深かった内容をメモ。

▪️オスマンの「柔らかい先制」

著者は、スルタンを頂点とした中央集権的な支配の組織とイスラーム法に基づく緩やかな統合と共存のシステムの双方を併せ持ったオスマンの体制は「非常に先制的でありながら同時に非常に柔軟性を持っている」として「柔らかい先制」と称しました。

同時代のルネサンス期の西欧では、中世封建領主と異教徒に不寛容なカトリックが未だ残存する時代だったので、著者曰く

マキャベリは『君主論』においても、王が諸侯によって制約される分権的な西欧型国家の対局をなす例として君主とのその下僕によって構成された集権的な国家であるオスマン帝国をあげている。

本書23頁
イスタンブルのバザール

▪️寛容な宗教政策

コーランか、剣か」という有名な文句がありますが、正確には「コーランか、税か、剣か」。

「異教徒は全て殲滅すべし。または追い出すべし」とした当時のローマ・カトリックの考え方(今のカトリックは真逆)とは異なり、コスモポリタン的な性格を持つイスラーム教では、異教徒に対しては「コーラン=イスラーム教への改宗」「税=人頭税などの貢納」「剣=戦闘→負ければ殺戮&強奪」のどれかを選択させたのです。

この結果、税を選んだ異教徒は、人頭税などを払う代わりに「保護(ズィンマ)」され、固有の信仰と法と生活慣習を保ちながら、自治的生活を営むことができたのです(ズィンミー制度という)。

この考え方はオスマン独自ではなく、ムハンマドの時代から続いていた慣習なのでオスマンオリジナルではありません。イスラーム法に基づく考え方がオスマンでも適応されたのです(正確にはズィンミー制は当初はユダヤ教・キリスト教に限定)。

イスタンブル ガラタ塔

▪️徹底した実力主義「羊飼いも大臣に」

16世紀中葉、オスマン帝国に赴いたハプスブルク大使オギュエル・ド・ビュズベク曰く

(オスマン帝国では)スルタンの下で最高の地位を占める者も、非常にしばしば、羊飼いや牧人の子だったりする。・・・彼らが祖先や偶然の生まれによるところが少ければ少ないほど、いっそう誇らしく感じるのである。

本書204頁

オスマン帝国の強みは、イスラーム法による寛容な統治に加えて、支配層が徹底した実力主義によって選ばれた者たちだったことです。そして彼らが、このことを誇りに感じていたことです。今の自分の地位が意味するところは、血縁・地縁からではなく、自分の実力とその実績に基づく報酬だという誇りです。

歴史的にはどの政治体制でも血縁・地縁に基づく支配層が固定化された権力維持が一般的ですが、長期間続く政治体制、というか企業含む多くの組織が健全に長期間維持されるためには、実力に基づいた支配と被支配の関係が流動的な組織であることが重要です(だから民主主義が最もよい政治体制だと言われる)。

オスマン帝国の政治体制、つまり支配層(=エリート)はトップのスルタンから下っ端の役人まで実力主義が徹底されていました。

スルタンに関しては、さすがに血縁前提ですが、最も優秀な皇子が次代のスルタンに任命され、残った皇子の兄弟は全て処刑されます(時にはその部下たちも)。

スルタンを補佐する役人たちは、トップの大宰相はもちろん、地方のトップであっても、全て実力でのし上がったスルタンの奴隷たち。

これらの奴隷官人は、ますます巨大化する帝国の支配組織に対してスルタンが先制的コントロールを行うための、もっとも重要な手段であった。

本書158頁

皇子を産む妃たちも、当初は近隣権力者の娘だったものの、大帝国になってからは異教徒・異民族出身の奴隷をハーレムに囲って、優秀な奴隷を選別しつつスルタン自身に好みに従って皇子を産ませたのです。

ただし、ガチガチの実力主義だったわけではなく、血縁地縁からの支配層輩出がなかったかといえば、そうでもないらしく、アスケリーという支配組織構成員の身分(免税・帯刀・騎乗等の諸特権保有者)もあって、彼ら独自の出世の道もあったようです。

加えてイスラーム法学者の世界もある程度血縁は重視されていたとのこと。

ボスポラス海峡

また『500年の平和』で紹介したイェニチェリ軍の採用活動、デヴシルメ制(本書では「デウシルメ」と表現)も、徹底した実力主義といえば実力主義の一環だと思います。

ルメール・ヒサリ(メフムト二世がコンスタンチノープル攻略のために建造した砦)

著者は「宗教の時代から民族の時代」に変容する19世紀以降、宗教の時代の最先端を担ったオスマン帝国のありようも時代の流れには抗えなかったとして、その崩壊の過程を簡単に紹介していますが、今の分断の時代において、オスマンの「柔らかな先制」は、今の私たちに何らかの示唆を与えてくれるかもしれない、と最後に語っています。

*写真:イスタンブル オルキョタイモスク


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