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古代ローマ帝国とユダヤ人

古代ローマ帝国時代に関しては、宗教的にはキリスト教国教化を境界線として整理する必要があるように感じますが、ここでは、キリスト教国教化以前、特にカエサル(BC100ー44)の時代から主にユダヤ人の強制的な「ディアスポラ」となったハドリアヌス(AD76ー138)までのユダヤ人社会を対象にします。

ユダヤ人(とその社会)に関しては、塩野七生著『ローマ人の物語ⅦーⅨ』の巻でその詳細が展開されています。『ローマ人の物語』は著者曰く「歴史エッセイ」で、正式な歴史学の著書ではありませんが、おおよその内容については、フィクションではないと思いますので、歴史学としての『物語ユダヤ人の歴史』も参照しながら、整理したいと思います。


⒈唯一ローマ人に抗った民族=ユダヤ人

古代ローマ帝国の征服民に対するスタンスは寛容な同化政策であって戦前の大日本帝国が日本語を強制したような中国人や韓国・朝鮮人に対しておこなった完全な同化政策ではありません。

ローマ人が被征服者に求めたのはローマ法の順守のみ。しかしユダヤ人のみはユダヤ教徒としての守るべき教義があり、その教義(ルール)に基づいた生活を固守すると、ローマ法とはアンマッチになってしまう。

コンスタンティヌスの凱旋門(2007年撮影)

したがってローマ人は、イスラエルの属州含め、主に帝国東方に点在していた大規模なユダヤ人社会に対してはローマ法適用外とし、彼ら自身の自治を認めつつ、反ローマ的な行動や秩序を破壊する行動に出た場合には規制をかける、というスタンスで臨んでいたのです。

この特別扱いは、ユダヤ人のライバルだったギリシア人はじめ、ガリア人やスペイン人、エジプト人など、多くの被征服民たちの反感をかったため、この当時からユダヤ人は「ある意味」他民族から嫌われていた民族であったのは間違いありません。

『物語ユダヤ人の歴史』72頁

⒉ユダヤ人の五つの特殊性

また、ローマ帝国がユダヤ人を特別扱いせざるをえなかったのは他にも理由があります。塩野曰く、当時のユダヤ人は他被征服民と比較すると「宗教」含め五つの特殊性を伴っていたと言います。

⑴パレススナ一帯が地政学的に不安定な地域だったこと

ユダヤ人の住むパレスチナは、伝統的に強大国が治めるシリアとエジプトを結ぶ線上に位置するために、シリア側からもエジプト側からも常に狙われることになる地政学的に不安定な地域だったこと

⑵ユダヤ人は、すこぶる優秀な民族だったために、統治しにくかったこと。

⑶ユダヤ人は、ギリシア人にも比肩しうるディアスポラ(離散)傾向にあったこと。

シリアのアンティオキアやエジプトのアレクサンドリアの一大ユダヤ人社会をはじめとして、ありとあらゆる都市にはユダヤ人の共同体(コミュニティ)が存在。しかもギリシア人と違うところは、これら海外居住のユダヤ人と本国との関係が、実に強い。

(ギリシア人は)コリントを滅亡させてもコリントからの移住民を祖先にもつシラクサの住民は起たないが、イェルサレムを滅亡させようものなら、アレクサンドリア在住のユダヤ人が起つ危険はあったのである。

文庫版『ローマ人の物語22』86頁

この辺りも今のイスラエルの「こだわり」を象徴しているような気がします。

またユダヤ人は当時から「ずる賢い」というか「狡い(こすい)」ところがあります。ギリシャ人のディアスポラは自分たちで開拓して街を造って手工業や通商業を生業にし、交易ルートを造って、というようにゼロから自分たちのインフラを整え移民社会を構築します。

ところがユダヤ人は自分たちではインフラを作らずに、こうやってギリシア人が努力して造ったインフラにそのまま乗っかってギリシャ人の造った都市の周りに固まってディアスポラして、ギリシア人のインフラを流用して商売したり、金融業を営んだりしていたのです。

利益になるとみれば、どこにでも移り住み、そこでは自分たちだけのコミュニティを作る」それがユダヤ人だったのです。

某金融業者の方に聞いた話では「ユダヤ人と商売するとよくわかる。ユダヤ人ほど狡い民族はいない」といっていましたから、古代も現代もユダヤ人には同じような傾向があるのかもしれません。

⑷ユダヤ人は支配者側になったことがないこと

ユダヤ人は自分たち以外の人々を支配下においた歴史がありません。他民族に長く支配された歴史を持つ民族は現代人の考え方では虐げられた民族ということになり、自衛本能が発達せざるを得なかった人々(この辺りも今のイスラエルの国際情勢における態度が象徴的)。

それゆえに思考の柔軟性が失われて頑なになる傾向があります。また何に対してであろうと過敏に反応しやすい。そして過酷な現実を生き抜く必要からも夢に頼る。したがって救世主を待望する人々。

⑸ユダヤ人は唯一「一神教=ユダヤ教」を信仰する人々だったこと

ギリシアやローマに代表される多神教の神々は、人間を守りその行為を助ける存在でしかない。しかしユダヤ人の奉ずる一神教の神は人間にどう行為すべきかを命じ、それに反しようものなら罰を下すことも辞さない存在。

エフェソス遺跡:ケルスス図書館跡(2010年撮影)

⒊ローマ帝国におけるユダヤ人対策

唯一ユダヤ人社会には治外法権を認めたローマ帝国ですが、ユダヤ人と肩を並べる強大な民族にしてローマ以前300年界地中海世界を支配していたギリシア人への対策と合わせて、治外法権含めてローマ人が取ったのが以下の方法。

⑴ユダヤ人とギリシア人の経済環境を平等にしたこと

ユダヤ人に対して、ギリシア人と同等の経済面での環境を整えることでユダヤ人の立場を向上させました。

⑵ローマ人は調停役に徹したこと

とかく敵対関係になりがちだったユダヤ人とギリシア人ですが、双方のどちらかが優位にならないよう、それぞれの調停役としてローマがコントロール。ただしハドリアヌス帝に至ってローマ人は調停役をあきらめ排除策を強化。

⑶ユダヤ人の「特殊性」は「特殊性」として認めたこと

①社会不安の元凶にならない限りにおいての信教の完全な自由
②年に2ドラクマの奉納金の、イェルサレムの大神殿への送金の継続
ローマによる神殿破壊以降は、徴兵対象外だったユダヤ人への安全保障税=ユダヤ人税に代わる。
③東方におけるユダヤ人コミュニティ内での、死刑以外の法執行の自治。
④軍務やその他の国家の公職の免除(ただし希望者除く)。
⑤毎土曜の安息日の継続

マルクス・アウレリウス:エフェソス考古学博物館(2007年撮影

⒋強制的な「ディアスポラ」=ユダヤ戦争

以上のように現代イスラエル人が謳う悲劇の民としての「ディアスポラ」も、悲劇だけではない側面もある一方、ユダヤ人自身の反乱の結果としての代償となった「ディアスポラ」、つまり第一次ユダヤ戦争(AD68ー70)&第二次ユダヤ戦争(AD132ー135)が勃発。

第一次ユダヤ戦争では、ヴェスパシアヌス帝の息子ティトスによってエルサレムの神殿が紀元70年に破壊されるなど、神殿と祭司職に基づく旧来のユダヤ教は深刻な影響を受けた結果、新しいユダヤ教が誕生するきっかけに。

ヴェスパシアヌス&ティトス親子が建造した「コロッセオ」(2007年撮影)

イェルサレムにのみ存在していた大祭司長制度も廃止されるとともに、70人の祭司で構成されたイェルサレムの自治機関「70人会議」も廃止。

この結果ラビ(「師・教師」の意)の指導に基づくトーラー(律法)に則った宗教的生活が主体に。シナゴーグ(「集会」の意)もこの時代に誕生し、神殿破壊後は、公的宗教活動の中心となるなど現代のユダヤ教の原型が結果としてこの時に完成することに。

そして更なる困難はハドリアヌス帝の時代。ハドリアヌスはローマの神ジュピターに捧げる神殿を帝国内各地に整備。この流れの中でエルサレムにおいても同様の計画を推し進めたため、ユダヤ人は反乱を起こします(第二次ユダヤ戦争)。

ハドリアヌス帝:トルコ国立考古学博物館。2023年撮影

当然ながら強大なローマ帝国に鎮圧され50万人規模でユダヤ人が戦死するとともに、ユダヤ人がエルサレムに住むことは許されず、難民として帝国領土内に拡散されるか、奴隷として各地に連行されてしまいました。

当地の名称もシリア=パレスチナという名に変わり、イェルサレムの隣に「アエリア・カトピリーナ」という街を建設され、この地域からユダヤ人の国家と宗教を窺わせるようなものは一切排除されました。そしてユダヤ人にとっての重要な習慣「割礼(包茎手術のこと)」も禁止されます(後に解禁)。

ただし、ハドリアヌス帝は、ナチスのようにユダヤ人を完全抹殺しようとか、ユダヤ教を撲滅させようとしたわけではありません。第二次ユダヤ戦争の目的は、反ローマ的な動きを排除すること。

したがってハドリアヌス帝の禁令は、イェルサレム以外のユダヤ、今やパレスチナと名を変えた旧ユダヤに住むユダヤ教徒は対象にしていなかったし、帝国の首都ローマも含めた海外の諸都市に住むユダヤ教徒も、対象の外とされていました。

最後に塩野七生曰く

ハドリアヌスは、真実は自分たちだけが保有しており、それは唯一無二の自分たちの神のみであるとする彼らの生き方を、多様な人間社会もわきまえない傲慢であるとして嫌ったのだ。・・・ドグマに安住するのではなく、常に疑いを持つことがギリシア哲学の基本であったのだから、もしもこの時期のキリスト教徒が、ユダヤ教徒同様にローマに抗って反乱を起こしていたとしたら、迷うことなくハドリアヌスは、弾圧を強行していたと思う。

文庫版『ローマ人の物語26』102〜103頁


現代の普遍的価値観にも通じるハドリアヌスの価値観は、現代の原理主義者にも通じるユダヤ人たちをいかに統治するか、そのノウハウを現代の私たちに提示しているのかもしれません。

*写真:トルコ国立考古学博物館にて(2023年撮影)

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