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「政治学」 アリストテレス著 読了

<概要>

古代ギリシア時代のあらゆる国制(外国含む)を調査し、分類し、強みと弱みを明確にしたうえで、現実的な「善い国制とは何か」を探ったアリストテレスの代表的古典。

<コメント>

いくつかある翻訳書のうち「本書が一番読みやすい」とどこかで聞きつつ残念ながら図書館にもないし電子版もないので、紀伊國屋ウェブストアで4,620円払って購入→読了。

読み終わった最初の感想は、先に読んだ『二コマコス倫理学』同様、アリストテレスの律義な性格がよく出ていて面白いなということ。芸術家肌の師匠プラトンとは真逆で、まるで科学者のように真面目に丁寧に政治のあるべき姿を探求。あらゆる地域をフィールドワークし、多分いろんな人にヒアリングし、様々な文献を調べ上げ整理して、そのうえで自分の考えを構築し、網羅的に展開していく、そういう手法。

まさに社会心理学者ニスベットのいう西洋人特有の思考方法

何よりも対象そのものの属性に注意を向け、カテゴリーに分類することによって、対象を理解しようとする考え方

木を見る西洋人 森を見る東洋人

の典型的なパターン。

■アリストテレスの考える国家の目的

「すべての事象には目的があり、その目的を全うすることこそ、あるべき姿」というアリストテレスの理想(=目的論)が見事に体現されています。これを国家にそのまま当てはめれば「国家には目的があり、その目的を全うすることこそ、国家のあるべき姿」となるわけです。そして国家の目的とは「人間が善く生きるため」。アリストテレスにとって人間の究極の目的は幸福になることで、幸福になるためには「善く生きること」。整理すると

「国家の目的は人間が幸福になるためであり、人間を幸福にすることこそ国家のあるべき姿」

となります。

そしてアリストテレスは「人間は、善く生きるためには中庸でなければならず、極端な状態は良くない」といいます。というのもあらゆる考えは「実現してこそ意味がある」と彼が思っていたから(→理想家の師匠プラトンを反面教師としたから)。

何事もほどほどがよいとして、現実をよくみて過剰に理想主義に走らず「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の精神で、「やり過ぎ」「行き過ぎ」「使い過ぎ」な状況に陥らないよう「節度を持って、余裕をもって考え行動してちゃんと実現しよう」という考えが現実主義者アリストテレスの姿勢。

■国家の分類とその評価

「人間は自然によって国家的(ポリス的)動物である(本書9頁)という言葉で有名な『政治学』ですが、アリストテレスは、あらゆる国家を調査・分析したうえで、以下二つの評価軸で国家形態を整理・評価しました。

【二つの評価軸】

⑴支配者が多数であればあるほど多様な意見が反映され、善き国家への精度が上がる
⑵支配者が私利私欲に走らずもっぱら公益のために運営されてこそ、幸福な国家は実現する

この結果、下表の通り最適な国家形態は「国制」。「国制」は市民の大半を占める、適度な余暇と資産を持った中間層の自由市民が、交代交代で指導者はじめとした公職を担う国家形態。

著書や専門家・翻訳家によっては「国制」を「共和政」と訳しているものもあります。そしてここでも「中庸」の精神が息づいています。

現代でも先進国では「中間層の没落」が政治課題になっていますが、「中庸」を理想とするアリストテレスの視点からみても中間層こそ「国家」を成り立たせるキモであり、分厚い中間層の存在こそ、国家安泰への道なのかもしれません。

■アリストテレスの考える人間の概念

アリストテレスのイメージする「人間」とは今のホモ・サピエンス全部ではなく、成人男子のギリシャ人のうち、自由市民だけ

同じギリシア人でも農民・商人・職人・賃金労働者は対象外。居留外国人・奴隷(ほとんどが実質外国人)・女性・子供も全部対象外です。

特に商人や金融業者は「物を生産せずに儲けている」として批判的。商業や金融は「交換」によって価値を生み出す生業ですが、一般に古代から中世を通じて過去のどの文化でも「生産」のみが価値であって「交換」が価値として認められることはほとんどなく、常に批判の対象ではありました。

一部今でもこの考え方は残存しており『人新世の資本論』の斉藤幸平や思想家の内田樹などの著作を読むと、おおよそ「交換」が生み出す価値に否定的です。一方でこの価値観は、土地を持てなかったノマド民族「ユダヤ人差別の要因」でもあります。ユダヤ人は土地を持てなかったので商業や金融などの生業でしか生き残れなかったのですが、このことがまさに差別を生む要因となったのです。

今は、生産が生み出す価値よりも、交換が生み出す価値の方が大きい時代になっていますが、きっとアリストテレスが今に生きていれば、彼の考え方も違っていたことでしょう。

■ギリシアの自由市民

ギリシアの自由市民は「自由」の代償として、全員兵役に就く義務(彼らにとっては名誉)があり、公職につく義務(彼らにとっては権利)があり、現代人の視点かからみれば自由市民だからといって快適なわけではありません。

彼らはいわゆる「国家エリート」なのでエリート教育(読み書き、体育、音楽、図画)を受けつつ国家を運営し守る責任と権限があるのです(侵略も)。

そして常に能動的で、意志が強くなければならず、ただの受け身の人間(アリストテレスのいう追従者)では自由市民としての資格はありません。

家事と労働は女性と奴隷に任せ、十分な資産と余暇時間をもとに、芸術に親しみ、身体を鍛錬し、哲学し、時に公益に従事し、有事には重装歩兵となって戦場に赴くのがアリストテレスの考えた自由市民のあるべき姿。

今からみればアリストテレスは典型的な差別主義者で、これをもって批判的にいう人もいますが、彼の生きる世界の価値観を今の価値観で評価しても意味がありません。大切なのはアリストテレスのその思考方法であり、今に生きるその思考方法のルーツ探訪への知的興奮を味わうこと。

「奴隷には奴隷の目的があり、奴隷としての目的を全うすることこそ奴隷の幸福である」というそのロジックであり、その思考プロセス。

そして、われわれ現代人が仕事や研究などで当たり前のように行っている営みのロジック(=調査→分析→課題→方策→実行)が、既にこの時代(2400年前)に完成している、という驚きへの知的興奮。

これこそ、古典を学ぶ意味ではないかと思います。

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