見出し画像

鏡のなかのギリシア哲学 小坂国継著 書評


<概要>
ギリシア哲学をタレスなどのソクラテス以前の哲学から、プラトン、アリストテレスを経て、ストア派から新プラトン主義のプロティノスに至るギリシア哲学を西田幾太郎的・東洋的視点から俯瞰した著作。

<コメント>
西田幾太郎研究の第一人者、小坂国継先生によるギリシア哲学概観。オープンカレッジでも小坂先生の講義を受講しているのでギリシア哲学勉強の一環として読んでみました。

ギリシア哲学といえば、ソクラテス・プラトン・アリストテレスになりますが、ソクラテス除く2名に加え、ストア学派やエピクロス、特に新プラトン主義といわれるプロティノスにも多くの紙面をさき、彼らが求めた真実在に関して解説。

哲学は原理を追求する学問だから、原理の根本=真実在とは何か、という形而上学的側面がありますが、本書はこの形而上学を「実在観」と称してきれいに整理されている点で興味深い著作。

それは、タレスの「水」に始まり、プロティノス「一者」で終了するのですが、それぞれの実在観を整理すると「プラトン=イデア」「アリストテレス=第1形相」「プロティノス=一者」となります。特にプロティノスの「一者」に関しては老荘思想に近く、名もなく限定もできず、認識もできず、思惟することもできず、絶対的な超越的存在であって、これは「無」というしかない。こんな感じです。

私の理解では、元来人間には、古今東西何かピュアなものを求める性向があり、ピュアなものは(ここでは真実在)「善」であるから、これに少しでも近づき一体化することで現世の煩悩から逃れられる的なパターンを求める傾向があり、老荘思想も儒教も仏教もインド哲学も、プラトンもアリストテレスもストア派もエピクロスもプロティノスも、皆同じ。

そして真実在は個々の人間の中に内在しているものの、真実在を「穢れあるもの」にしてしまうのはこの現実界であり、我々の(欲望や感情の塊としての)肉体であり、ここからできるだけ脱却することで、あるいは浄化することで「穢れなきもの」たる「真実在」(ピュアな心)に至ることができる。これが人生の目的である、という風に受け取りました。

日蓮宗のお坊さんが寺に閉じこもって荒行に耐えるのも、荒行をやりたいからやっているのではなく、荒行によって少しでも「真実在」に触れたいから。

禅僧が、毎日厳しい修行をして瞑想にふけるのも、自分の中にある真実在(ここでは仏心)を発現させるため。

私自身は凡庸な人間なので、エピクロスのいう「肉体において苦痛がなく、霊魂(心)において煩いのない状態(piece of mind)が最高の快楽である」というのに共感しますが、真実在への憧れは、世界共通の人間の関心事だということは間違いないと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?