後ろ姿

子育てで気にしたこと

それは『肯定文』で話をすることでした

どこで聞いたか忘れたけれど、
例えば、子どもが飲みものを運ぶ時なんかに、親はついつい「落とさないでね!」ってキツく言ってしまう。そうすると子どもは「コップを落として怒られる」というイメージを連想してしまい、それを実現させてしまうんだそうです
逆に「上手に運んでね~」と言ってあげると、「上手く運んで褒められる」自分を想像して失敗することはないのだそうです

それを踏まえて考えると、なるほど!子どもはなにをするにも「褒められたい」一心で行動している
だから、「肯定文」で会話をしてあげると、失敗を恐れない前向きな子が育つというわけなのです(…と、そんな感じ)

が、

親も人間なので、気分も変われば機嫌もあり、そうそう「肯定文」ばかりを意識してもいられないのですわ、現実問題

完璧な母はいない、だけど、別に完璧な母でなくてよい。自分の子どもにとって良い母親であればいいんではないかと思うのです
我が子にとってのいい母…それは、話を聞いて、寄り添って、見守るってことだけで充分かと思ってます。偉そうなことは言えませんが、余計なことを言って子どもらの言いたいことを言えなくしてしまえば会話が減る。会話が減れば「なにを考えてるか解らない」という言葉で処理することになる。でも、それは子どもばかりが悪いわけではない。いざというとき「大丈夫」って言ってあげられる「あぁ、お母さんがお母さんでよかった」と我が子が思える母であればいいのかな、と思うのです

さらに、これを踏まえて踏まえれば、(表現おかしいな…)
例えば誰か落ち込んでいる人がいたり、相談を受けたりした時に「肯定文」で答えてあげるとこちらも失敗がないのですわ。でも、いろんな「否定的」な言葉を知っている落ち込んだ人はそうそう「肯定文」ごときで這い上がってはくれないので、結構頭を使います。落ち込んだ人は「肯定文」に対して揚げ足が取れるんです。だけど、どうにか自分を励ましてくれようとしている…ことだけは伝わっているようです

それから悪口とか、陰口なんかも減ります
「あの人嫌い」と言ってしまうと、一見悪口に取られがちですが、「あの人苦手」というとそこまでじゃなくなる
人の好みに対しても「え~どこがいいの?」というより、知らないことを伝え、「へ~そんなのもあるんだね」というと、話の腰を折らずに気分を害するほどではなくなる

よって、
子どもにたいして「それ嫌い」というと冷たく突き放してしまいがちなことも、「それ好きじゃないかも」とか「それ苦手かな」というとそこまで遠い言葉ではなくなりますね。要は、子どもの次の言葉を遮らないというのがポイントになるわけです
だから「勉強嫌いだもんね」って言ってしまうと、暗示にかかって「嫌いだからやらない」になりがちだけど、やらなきゃいけないことは子どもも解っているので「勉強苦手なんだね、でも…」と挑戦を促してあげると、「苦手だけど頑張る」という伸びしろというか逃げ場みたいなものができ、まったく触れない域にまではいかないのではないかと思います

それと同時に、わたしは子どもに「勉強しなさい」とは言いませんでした
これもなかなか難しいことではありますが、やる気もないのに「やれ」と言われると「やりたくない」のが人の常でありまして、わたし自身やらなかった経験から、やる気のない子を焚きつけるような言葉は使わない方がいいことを知っています
(わたしの個人的な考えですが、九九を始めるまで勉強しなくていいと思ってました。九九が始まるまでは字を覚えたり、足したり引いたりしているだけなので、それは一生の中で一番基本なことで、自然に頭に入ることだからです。これはおむつが一生とれない子どもはいない…に繋がります)

自分が損したことを子どもにはさせたくない親心でつい「やらないと~」って、ガミガミしてしまいがちですが、それをされてやってこなかった自分を思えば、当然「言ったらやらない子になる」と過剰反応したわけです( ← あくまでもわたしは、です)

なので結果を出した時には「勉強頑張ったもんね」とか「練習したもんね」と受け皿的な言葉をかけると「やればできる」が自動的にインプットされ、次第にやりたくなくても「やらなきゃいけない」と刷り込まれていくわけです。刷り込むための繰り返しも必要ではありますが…
ここでさらに褒め言葉を加えると物凄く伸びる子ができるのですが、褒められたことのないわたしは「褒める」ことを忘れていたので、伸ばせませんでした

オプションとして、褒めた上で「○○ちゃんすごいね」とお友達の名前を出すと、さらに闘争心が加わり「上を目指す」子どもが出来上がるはずでしたが、「褒める」をおこたり「○○ちゃんすごいね」をやってしまったわたしは悲観的な部分を伸ばしてしまったのでした

子育ては見方を変えると「親のエゴ」だったりする…と、わたしは思ってます。こんな子になって欲しい、こんな風になって欲しくない、その押し付けが窮屈と感じるからです
とはいえ、自由にのびのび~を実践するのは解っていても言葉のように簡単ではない。だからせめて「肯定文」で会話することを心掛けるのがよいのでではないかという結論に落ち着きました

もちろん、それがすべてではないとは思います。が、ちょっと頭の隅に置いておくとなにかの時の助けになるかもしれません

いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです