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未知に出会うために。あるいは、object指向創作論。或いは、Art theory of NewMaterialism.

「作品の制作に、どの様な素材がふさわしいのだろう、、、」
自分の作品作りに既成の材料は向いているのか?そこを疑うことから制作を始める人がいる。既成の材料や用具を疑問もなく使うことは、作品も既成の表象や価値観に基づいたものに収斂しかねないからだ。

コンセプトを明確に立てて、そこに向かって作業計画を作り、ふさわしい材料を集め作品を作る人もいる。この場合は、コンセプトを実現するためにデザインされた製品の製作と同じことになってしまう。
創作を志す場合は、もう少し、謎や未知の部分を抱えたまま活動を進めることになる。偶然、目の前に出会った材料や、日用品から、作品制作の発想を得ることもある。素材や材料に頼りすぎという非難もあるかもしれないが、コンセプトに基づいてその実現のために作品を作るだけでは、既知の作品(既製品)しか作れないという難点もあるのだ。なぜなら、私たちが今、明確に打ち立てることのできるコンセプトというのは、その時点で人類にとって既知のコンセプト・概念だからだ。
創作とは、未知の作品を作り、未知の概念を探る活動のことだと考える。
人間主導の既知の価値観に基づく作品づくりではなく、素材(モノ)のパースペクティブからインスピレーションを受ける作品づくりが、未知の普遍的な価値の発見につながる。謙虚な気持ちで足元を見て、素材が発する息吹に耳を傾け、オルタナティブな魅力を探るところに可能性を感じる。

生えている植物の葉を切り取ると、ある物質が維管束を通って植物の全身に行き渡るという事実が発見されたそうです。「植物も痛みを感じているのではないか?」と述べる研究者がいます。人間が感じる「痛み』とは違う感じ方、感覚かもしれないが、人間には感知できない感覚で植物なりに感じていることは十分推測できる。人間の耳には聞こえない音域というものがあるそうだ。だとすれば、生物はもちろん、鉱物も、布もプラスチックも人間と異なる感覚世界を持っていると推測することは可能になる。
人間が主体で素材(モノ)は客体、人間は常に努力と研究を重ね、主体としてその考えや技術で、客体としての素材(モノ)に一方的に働きかけ、今日の豊かな文化を作ってきたと思われている。しかし、実際は、人間が素材(モノ)から影響を受けていると感じることはよくある。主体と客体の役割が常態では無く、自由に交換されながら文化は作られてきたはずだ。人間だけが主体であれば、人間にとって既知のものしか作れないことになるからだ。素材にも主体があると考え、素材から影響を受けて制作するところに、既知から脱却し、超える可能性を想像する。
生命が尊いのは、主体を持っているからだと考えられている。植物も主体として、植物の側から人間や世界から影響を受けたり、与えたりしている。
では、鉱物にも主体はあるのだろうか?紙やアクリルには、、、?
人間は鉱物を見て美しいと感じたり、触って硬いと感じて感性や思考に影響を受けることはある。このとき鉱物が主体で、人間は客体になっている。このように、すべてのもの(素材)は、主体と客体が時と場合により交換可能なものだ。人間が客体となって、鉱物が発する既知の美や硬さ以外の何かを感じたとき、未知に近づく可能性があるのではないかと思う。

人間にとっての「用としての価値」や既知の美」から解放さてた素材(モノ)はゴミと認識され、ゴミ箱に捨てられるまでのわずかな時間に、それまで隠れていた、又は、閉ざされていた余剰としての価値や美を露呈する時がある。この時が、既知の美を更新し、未知の美が現れる機会だと考える。

                                   了


※この文章は、Gallery Retara Planning 2019として行われた、グループ展「素材から」のパンフレットに寄稿したのもを少し修正したものです。

<参考文献>

『The Universe OF Things On Speculative Realism』 Steven Shapiro
『モノたちの宇宙 思弁的実在論とは何か』スティーヴン・シャヴィロ著 上野俊哉訳 河出書房新社

『The Quadruple Obiect』 Graham Harman
『四方対象 オブジェクト指向存在論入門』グレアム・ハーマン著 岡嶋隆佑監訳
山下智弘・鈴木優花・石井雅巳訳 人文書院

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