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豪華絢爛安土城 

まっすぐな石畳の安土城
 初めて安土城跡を訪れたときは18歳、自転車で関西を放浪しているときだった。夕暮れ時に安土につき、そのまま城跡で野宿をした。翌朝早く城跡を散策したのだが、当時はまだ「城郭リテラシー」がさほど高くなかったのか、小6のころから憧れてきた人物の墓参りを済ませたことぐらいしか覚えていない。
 それから四半世紀ほど過ぎ、旅友たちと連れだってこの城を再訪した。その間、標高200m弱の山全体が特別史跡公園として整備され、生まれ変わっていた。城としての建造物が皆無であるにもかかわらず、入場料は確か700円だった。このような例は寡聞にしてしらない。歴史の教科書やドラマによる知名度の高さで「ブランド化」されている気もしたが、改めて入城すると驚いた。目の前にずーっとまっすぐの石畳の道が伸びていくではないか。城郭というのは曲がりくねった道にすることで見通しを悪くし、守りやすくするという機能があるのだが、その常識を覆しているではないか。このような例は尾張の小牧山城くらいだろうか。
 そしてその両側に家臣団の屋敷がその位に応じて下から上に連なる。どこかに似ていると思ったら国会議事堂の丘のふもとに関係省庁がずらりと並ぶ、あの姿そっくりだ。そういえば司馬さんも言っていた。
「家来たちを城下に常住させ、その知行地の行政や徴税は織田家の奉行が執行する。(中略)すべての土地と人民は、信長の直接支配におかれていた。いわば封建体制というより、中央集権制であった。」
 これを視覚的に最も分かりやすくしたのがここからの眺めなのだろう。

信長×秀吉=取引関係>主従関係
 18歳のころはこんなところを軽々と登ったのだと、自らの老いを感じながら胸突き八丁の石畳をハアハアいいながら登る。この石畳は南蛮渡来のものだろうか。正面上に「事実上」日本初の本格的な大天守をあげていたはずだが、上階は赤、青、金、黒、白と豪華絢爛な見栄えだったはずだ。さらに信長はここをたまに一般人に有料で開放していた。軍事基地であるはずの城郭、特に天守を権威の象徴としたのが信長や秀吉であるというのが通説だろうが、信長に至ってはそれを観光地化までしたのだ。そしてそれを見た人はその素晴らしさを吹聴したはずで、いわば信長の権力の大きさをタダで拡散してくれる、今でいうとSNSのような働きを期待していたに違いない。
 途中、秀吉の屋敷とされる表示があった。パワハラ上司とも思われがちな信長だが、実は秀吉とは親戚の間柄だ。信長の四番目の息子、於次丸を養子に迎えたいという秀吉の願いを聞き入れたときの司馬さんの心理描写が面白い。
「猿という世にもえがたい家来をよろこばせ、鼓舞させ、今後いよいよ働かせてゆくのに、これほど廉(やす)いほうびはないであろう。廉いだけでなく、よくよくおもえば信長にとってはとほうもなく利益をよぶ取引であった。信長の発想点は、つねに取引きである。(猿もそうだが)」
 つまり少なくともこの二人にあっては、表面上主従関係を取り繕いながら、実は取引きだったのだと司馬さんは考える。

アフリカから来た家来
 天守台についた。不等辺七角形という、ありえない形のこの天守台にあったはずのものは「天主」と表記される。例えば「天主教」といえばカトリックを表すので、南蛮趣味の秀吉が後に「日本史」を執筆したイエズス会のルイスフロイスや天正遣欧使節をローマに派遣したヴァリニャーノ、あるいは安土城下に日本初の神学校「セミナリヨ」を開いたオルガンティーノあたりに西洋の天主堂について聞いた、吹き抜けの空間をイメージしたものなのだろう。
 ところで南蛮好きの信長が宣教師から受け取った「プレゼント」があった。彼らがはるばる日本まで連れてきた黒人奴隷だった。司馬さんはこの「弥助」と名付けられ、正式に信長の家来として加えられた六尺の大男に対する信長の好奇心をこう記している。
 「信長はそれを珍重し、武士に仕立てて身辺で使ったが、その黒人が献上された早々、信長は本当に黒いかどうかを試すために人に命じて洗わせ、それでも黒いとわかってはじめてよろこんだというほどに実証的な性格の持ち主であった。」
 プラグマティスト信長の意識を支えるのは、自分が納得するまで実験し続ける点なのかもしれないが、彼の好奇心の強さとグローバルな考えも同時に感じられるエピソードだ。

豪華絢爛な桃山文化を再現した信長の館
 坂を下って城跡を去り、田んぼの中にある「信長の館」という施設に立ち寄った。ここは安土城天主の上層部(五、六階)が推定復元されており、間近で見ることができる。なんだ、上層部だけか、とはじめは思ったのだが、よく考えると他の城の場合、天守の上層部は見上げることしかできず、間近で見る経験はできない。ユニークな見方を提供してくれる施設だ。朝倉館もそうだが、詳細が定かでない城郭建造物をコンクリートで作るのが昭和型なら、少し離れたところに、あくまで推定であることを前提に体験施設を作るのが21世紀型なのだろう。
 ところで一向宗門徒を大虐殺し、比叡山を焼討したことから反佛教的に思われがちの信長だが、八角堂のような下層(五階部分)には極楽浄土とはかくもあらんと思わせる黄金の空間に如来をはじめとする諸仏が描かれている。そして上階には外壁のすべてに金箔が張られている。つまり法隆寺夢殿の上に金閣寺が乗せられたかのような格好である。バランスのとり方が不格好かどうかはさておき、これ以上ないほどの豪華絢爛さではある。これぞ家康が「尾張者の気風に染まるな。」と戒めた桃山文化の極致であろう。

生涯ただ一度の物見遊山
 信長がこの安土を拠点として東奔西走した期間は実は1年に満たない。ただこの城が何者かに燃やされる直前、宿敵武田氏を家康とともに破った信長は、1582年5月に生涯ただ一回の「物見遊山」をしたと司馬さんはいう。
「信長のこの凱旋旅行の期間は、わずか十一日間でしかない。四月二十一日、ぶじ近江安土城に帰ったが、かれの多忙をきわめたその生涯のなかでこの十一日間は唯一の遊覧旅行であった。」
 その行き先は富士見物であった。そしてそれを導いたのが家康だった。司馬さん曰く、 
「富士は東海道の駿河路から見るのがもっともうつくしいであろう。それが古来の定評でもあった。(中略)『ぜひ、この機会に駿河路にて富士をご覧あそばしますように』と、家康が信長の陣屋へゆき、かれのほうから乞うた。駿河はかれの新領土なのである。」
 と、家康が招待したことになっている。三河までは足を延ばしたことはあっても、尾張人の信長は意外にも富士山を拝んだことはなかったのだ。初めて見る霊峰富士に感動した信長は接待してくれた家康に心から感謝したという。
「信長が、家康の居城浜松城にとまったときはもはや感謝の言葉も尽き、『徳川どのにどういう返礼をしてよいか、これは思いまどう』と言い、とりあえず黄金五十枚を謝礼として置き、さらにかつて信長が武田勢との対戦の用意のためにこの地に貯蔵してあった兵糧米八千余俵を、接待のために奔走した徳川家の家来への礼として送った。」
 この男がここまで喜びを表すこともない。そして形式上信長から駿河を「拝領」したため、お礼参りに来たのがこの安土だった。城が焼け落ちるわずか半月ほど前だった。
 そして家康の接待を命じられたのが明智光秀である。今は一面の田園地帯ではあるが、この安土の町が最も輝いた年は、この1582年だったことに間違いはあるまい。(続)


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