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京都名園対決!

 私が庭の魅力に取りつかれたのはいつからだろうか。子どものころから庭を見て育ったが、特に精力的に庭園巡りを始めたのは四十代になってからだと思う。庭の勉強を始めてまず気づいたのが、結局日本の庭は「京都の庭」と「それ以外の庭」に二分化されるという事実だ。逆にいえば日本の庭の「標準」は京都にあるとされる。となると天邪鬼の私はあえて京都を避けて地方の庭を巡ってきた。しかし京都の庭はクオリティも高く、そもそも数が極めて多いということは言うまでもなく、この「物量戦」に勝てる庭園都市など他にはない。
 国内の庭を巡りながら、そろそろ「年貢の納め時」と悟ったのだろう、コロナ禍前後に集中的に京都の庭を歩きなおしてみた。もちろんそれ以前もそれ以降も京都の庭は何度も歩いてはいるが、その中でも特に興味深い庭を抜粋し、勝手に「ライバル対決」の形で対比しながら京都の庭の魅力を再発見し、そしてそもそも「日本庭園」とは何か考えていきたい。

平安浄土庭園対決 浄瑠璃寺VS三千院 
 摂関政治の時代(12世紀)に一世を風靡した思想に末法思想がある。これは釈尊入滅後千年間は「正法(しょうぼう)」、つまり正しい教えが守られるが、次の千年間は「像法(ぞうほう)」、つまり似て非なる教えとなる。そしてさらに次の時代は「末法」、すなわち仏法も伝わらなくなり「世も末」となるというものだ。当時、末法の時代に入るのは1051年とされており、そうなると天災や人災、疫病などあらゆる災難が降りかかると神じられていた。
 そしてそれから逃れたい王侯貴族は浄土教に走った。つまりこの世で満たされない快楽をあの世、すなわち浄土で得ることができるよう求めたのだ。さらにはその浄土をこの世に創り出し、「プチ浄土フィーリング」を楽しめるようにしたのが各地の浄土庭園である。京都で浄土式庭園というとあまりにも有名なのが宇治の平等院鳳凰堂である。しかし平等院はあまりにも無敵すぎる唯一無二の横綱的存在なので、同時代に築かれた南北二つの庭、つまり洛北の最果てにある大原三千院と、山城国南部は木津川の山里にたたずむ浄瑠璃寺の「両大関」に多決してもらうとしよう。

春雨にけぶる三千院
 子どもの頃「♪京都大原三千院」から始まる「女ひとり」というフォークソングを、京都の短大に通っていた母が時々口ずさんでいたのを覚えている。デュークエイセスが1965年にヒットさせたこの歌に連れられてか、交通の便はお世辞にも良いとは言えないが、大原三千院を訪れる人が減ることはない。とはいえコロナ禍の春雨にけぶる大原を訪れたときはさすがに参拝客は数えるほどだった。大原は何度か訪れてはいるが、その日訪れた時のことが最も印象に残っている。
 バスターミナル併設の蕎麦屋で熱い蕎麦を食べてから、三千院への道を向かう。あたりは霧かもやに包まれ、まるで中国山地でも歩いているかのような気分になってくる。そのうち城のような石垣が見えた。そういえばここを最初に寺院とした伝教大師最澄はこの比叡山の東麓、近江坂本の出身であり、そこは高い技術を持った渡来系の石工集団、穴太(あのう)衆の故郷でもあることを思い出した。ちなみに三千院から滋賀県への県境までは直線距離で1㎞もないことをその時知った。拝観券を求めて「打ち込みはぎ」の石垣の上にあげられた御殿門をくぐると、やはり近世城郭に入ったかのような錯覚を覚える。

伝教大師最澄の薬師如来と恵心僧都源信の阿弥陀如来
 靴を脱いで歩いていくと、江戸時代初期の茶人大名、金森宗和(そうわ)の作庭による聚碧園が待っていた。利休のわびさびを感じさせるとともに、大刈込の大胆さは小堀遠州好みである。そしてなによりもこの名園を独り占めできる贅沢をかみしめつつ、先に進んだ。
 順路に沿って歩くと、伝教大師最澄作という薬師如来像をまつる宸殿(しんでん)についた。ここがいわば「本堂」に当たる。薬師如来というのは正しくは「薬師瑠璃光如来」と呼び、東方浄瑠璃世界を治める仏という。ただ残念なことに秘仏のため拝観することはできない。この宸殿からは苔庭が広がり、数十メートル南に位置するのが往生極楽院である。春雨のそぼ降る中、生気を取り戻したかにみえる苔と苔の間の小径を踏みしめ踏みしめ、往生極楽院についた。ここは元々極楽に往生するための手引書「往生要集」を著した恵心僧都源信(えしんそうづげんしん)が、父母の供養のために建立したものだった。
 木造の階段を数段上って阿弥陀仏を拝む。中心に極楽浄土の主、阿弥陀如来が座り、そして向かって左に智慧の光で衆生を地獄から救う勢至(せいし)菩薩、右にこの世のあらゆる苦しみから救う観世音菩薩が脇を固める。脇仏たちは正座をして前かがみで、いつでも我々を助けてくれる準備が整っているかのようだ。建物の小ささに比べると三尊像は大きく見える。堂内は暗いが、その壁や天井にはかつて極彩色の極楽浄土の様子が描かれていたという。ここは天台宗なので宗派は異なるが、浄土教から派生した浄土真宗の「正信偈」をあげて外に出た。
 いわゆる「浄土式庭園」には池がつきものである。ここには弁天池というのがあり、水面に雨が降り注いでいたが、名称からしても山の向こうの近江琵琶湖に浮かぶ弁天島=竹生島を連想させ、この世からあの世(浄土)をつなぐためのものではなさそうだ。あるいは浄土を表現しているようで、実はそのような形式にこだわっていないのかもしれない。
 春雨に濡れる苔庭を出て、小さくかわいいお地蔵さんが手を合わせているのを横目に、極楽浄土から外に出た。改めて御殿門をくぐって外に出て振り返ると、やはりどう見ても城郭の櫓門にしか見えない。あの極楽浄土はこの鉄壁のような櫓門に守られていたことに気づかされた。櫓門を背に山を下り、バス停に向かった。

「光のどけき春の日」の浄瑠璃寺
 別の年のよく晴れた春の日の朝、京都府木津川市に向かった。浄瑠璃寺への道は京都からは遠い。しかし奈良からは十数キロ、車で20分ほどだった。のどかな山里を通って駐車場に車を停めて歩くと、参道沿いで近所の農家で採れた果物や野菜などが売っていた。まさに「光のどけき春の日」である。間もなく、浄瑠璃寺に到着した。門は簡素で厳めしさはなく、敷居もフラットである。こここそ「開かれた」浄土世界を感じさせてくれる空間だ。
 歩いていくと目の前に池が広がり、左手に三重塔、右手に横長の阿弥陀堂が見えてきた。三重塔には三千院と同じく東方浄瑠璃世界を治める薬師如来がまつられてはいるが、毎月八日の晴れた日にしか御開帳されないというので、外から中に向かって合掌礼拝をする。そしてそこから正面、つまり真西の池の向こうの阿弥陀堂には、横一列に九体佛(くたいぶつ)がずらりと並んでいるはずだ。まつられているのは三千院と同じではあるが、三千院では東方を守る薬師如来が北、西方を守る阿弥陀如来が南にあり、その間は海の代わりに苔庭となっている。
 浄土式庭園のオーソドックスな形が平等院鳳凰堂であるならば、三千院はその意味で異端かもしれないが、この目の前の浄瑠璃寺もかなりユニークだ。我々が生まれ育ったこの世(此岸)には特に何もないのがオーソドックスとするならば、ここにはわざわざ三重塔を洛中から移し、元々の本尊だった薬師如来に守らせるのだ。言ってみれば、この世の煩悩や病苦から守ってくれる薬師如来だが、いずれ死期が近づくと、「よし、極楽に行ってこい!」とばかりに私たちの肩を押し、池の向こうの極楽浄土に送り込んでくれそうな気がしてくるからだ。そして池の南側から西側に進み、本堂に入ると、お堂の濡れ縁にネコが日向ぼっこをしていた。国宝にして特別史跡の本堂にネコ?普通なら追い出されそうなものだが、呑気なものだ。我々が近づいても無視である。さすがに堂内に入るときにはネコよけの網戸があったが、そのあけっぴろげなところがうれしい。

陰影の中の金色の九体仏
 堂内に入って驚いた。外の呑気さとは打って変わって、陰影の中に金色の光を放つ座像が九体、ずらりと並び圧巻である。特に中央の阿弥陀仏の光背(こうはい)には千体もの小さな仏が彫られ、いわば三十三間堂の観音様が一体に収まり、我々衆生を確実に極楽浄土に導いてくれることを約束してくれているようで不思議な安心感とかたじけなさが湧き上がってくる。その厳かさに数珠を取り出し、浄土真宗の寺院でないのは分かっていながらいつも通り正信偈をあげ、一体一体拝んでいく。
 ちなみになぜ九体なのか。我々衆生の一人ひとりが亡くなった時点で、信心や日頃の行いによりレベル1からレベル9まで振り分けられるという。正式にはまず「上品(じょうぼん)」「中品(ちゅうぼん)」「下品(げぼん)」に分けられ、それぞれがさらに「上生(じょうしょう)」「中生(ちゅうしょう)」「下生(げしょう)」に分けられる。つまりレベル1の「下品下生」はいわゆる「極悪人」でレベル9の「上品上生」は聖人君子である。しかしこれら九体の仏はそれぞれのランクの担当者であり、たとえ極悪人であっても救ってくださるとのこと。この思想を民間にまで浸透させたのが鎌倉仏教の法然であり、親鸞だったのだ。
 時がとまったかのような空間から外に出た。春の午前の太陽がまぶしい。そして出会い頭にやはり三毛猫やブチが数匹いた。思い出した。救われるのは人間だけではない。「畜生」とされるネコでも救われるのだ。ネコも人間も阿弥陀様の視点では同じ存在であることに改めて気づかされた。

「薬師投手」と「阿弥陀捕手」のバッテリー?
 駐車場に向かう前にもう一度池の向こうの三重塔に向かって阿弥陀堂を眺めなおしてひらめいた。これはマウンドにおけるバッテリーではないか。この世で私たちを守って下さる薬師如来は私たちの魂を「球」として池の向こうの極楽浄土に送球する「ピッチャー」だ。そして阿弥陀堂の九体仏は、しっかりと極楽浄土に受け止めてくれる「キャッチャー」だ。そして「薬師投手」のピッチングがストライクでなく上下左右、四方八方に揺れたとしても九人の「阿弥陀捕手」が必ず受け止め、どんな「悪い球(魂)」でも浄土に迎えてくれるのだ。
 そう考えた次の瞬間、先ほど堂内で拝んだ九体の仏が、岩に思えてきた。仏教界における宇宙観を表す「九山八海(くせんはっかい)」をイメージした岩が、例えば鹿苑寺金閣の池や東福寺塔頭霊雲院など、数多くの庭にあり、岩を見て仏国土の存在を実感させる役割を果たすのだが、私の場合は逆に、九体佛で九山八海をイメージし、仏国土が実感できた。なぜか極楽浄土に行けることが決定したようで安心して外に出ていった。
 純粋な庭園の美でいうと、苔の三千院には圧倒された。ただ真宗門徒ではないが浄土真宗の影響を受けて育った私には、ネコでも救われ、門に敷居がないあけっぴろげなところ、さらに薬師投手と阿弥陀捕手のバッテリーが安心感を与えてくれたこと、そして九体佛の荘厳さで、庭以上の安らぎを与えてくれた浄瑠璃寺庭園に軍配を上げたいと思う。

洛西のもう二つの「裏の御所庭園」対決
 
一般的に「御所」というと京都御所を指す。しかし他にも「御所」と呼ばれるところが京都には数カ所ある。特に有名なのが洛西の「嵯峨(さが)御所」大覚寺と「御室(おむろ)御所」仁和寺である。「もう二つの裏の御所庭園」対決として両園を歩いてみよう。

花鳥風月を愛でる大覚寺
 まずは大覚寺に向かう。境内に入ると京都の他の寺院とは雰囲気が異なるのに気づく。まず、玄関に掲げられた幕に大きな菊の御紋が見えてくる。そして建築群の北側にはきれいに整えられた苔や木々の庭園が目を楽しませてくれる。そして江戸時代に修学院離宮を造るほどの庭園マニア、後水尾天皇が御所から移した宸殿(しんでん)が、和様の優美さを醸し出す。いかにも平安時代の宮廷風といった蔀戸(しとみど)や、金色を背景に、黒、茶色の顔料をあしらった桃山風の濃絵(だみえ)の障壁画などが、在りし日の御所を思わせる。
 建物内でとくにユニークなのが、随所に置かれる生け花だ。生け花は池坊専慶が15世紀半ばの戦国時代に六角堂で始めたというのが定説だが、ここでは桓武天皇の子、嵯峨天皇が9世紀初めに花を手折って飾ったことが生け花の始まりということで、生け花発祥の地となっているのだ。
 南庭は白砂を敷き詰めただけの枯山水で、向こうに豪華な唐門が見えるが、中心に高さ1mほどの石造りの基壇「石舞台」が見える。昔はここに中心となる建物があったことの証であるが、現在は夜間コンサートやファッションショーなど、特別な空間として使われているという。寺でコンサートやファッションショー?と眉をひそめる人もいるだろうが、思うに音楽も舞踊も昔は神にささげたものだったと考えると、それほど抵抗はない。
 これらの庭の中を「村雨(むらさめ)の廊下」という、稲妻のように何度も直角に曲がる回廊を進んでいくと、広々とした空間が突如として姿を現した。唐風文化に憧れた嵯峨天皇が、唐の洞庭湖をイメージして掘らせた大沢池である。池に向かって月見のための舞台が張り出している。この舞台は東向きなので、観月の際に最も感動を呼びやすい月の出を楽しむことができるようなつくりである。

都の喧騒を離れた「嵯峨御所」と大覚寺統
 「嵯峨御所」とかつて呼ばれたこの寺は、もともと嵯峨天皇が離宮として9世紀初めに造営したことに始まる。空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに唐様の書の名人、「三筆」の一人として知られるこの文人天皇は、都の喧騒を離れたこの地を愛した。当時最先端で華やかな唐風文化を身に着けていた弘法大師空海は、特に天皇の庇護を受け、紀伊山地に高野山金剛峰寺の建立を許されただけでなく、都には教王護国寺(東寺)を賜った。
 その後、13世紀半ばに兄の後深草天皇の跡を継いで即位した亀山天皇が本拠地としたのもこの大覚寺だった。そしてそのころ深刻化していた皇位継承問題に関して、後深草天皇の系統の持明院統と、亀山天皇の系統の大覚寺統が交互に継承することとなった。そしてこれは後に孫の後醍醐天皇に始まる南北朝の争乱の火種となったのだ。
 14世紀前半に鎌倉幕府を倒しつつも、建武の親政で武士の意見を軽んじたために足利尊氏らによって京都を追われ、吉野に南朝を起こした後醍醐天皇のルーツもこの大覚寺統である。後に足利尊氏らが後醍醐天皇の鎮魂のために建立した天龍寺が大覚寺から極めて近い距離にあるのも、ここが南朝発祥の地だったことに拠るのだろう。さらに14世紀末に南北朝の合一が両朝廷のあいだで合議されたのも、この大覚寺である。古代から中世にかけての皇室内における骨肉の争いをじっと見つめてきたのがこの地なのだ。そんなことを考えつつ門を出て、きぬかけの路の西端、仁和寺に向かった。

紫禁城、景福宮、首里城、そして仁和寺
 洛西の寺院にしては珍しく、仁和寺はバスが巨大な門前付近に停車し、門前に高層ホテルが建つ。この二王門をくぐって左に曲がると、宮廷風の宸殿(しんでん)を中心に南庭、北庭が広がる。南庭は枯山水になる以前の禅寺にあるような、儀式を行う際の白砂が敷かれている。砂紋はほぼ1メートルごとに東から西に直線的に流れているように見える。いわば砂紋で横断歩道のようなボーダー模様が描かれている。
 それを見ているうちに再焼失前の首里城正殿前に広がる「御庭(うなー)」を思い出した。たしか朱色と白のボーダー模様になっていたはずだが、あれは明や清からの使者が来た時に、官位の順に並んで座らせるための目安となるラインだった。ちなみにソウルの慶福宮ではラインで示す代わりに石碑に官位が彫られたものが置かれていた。北京の故宮もまたしかり。目の前の白砂の直線に流れる砂紋を見ながら、唐を中心に朝鮮、日本、そして後の時代の琉球王国にまで包括して形成された東亜の王侯貴族のあり方を思い出した。ここが最初に造られた平安時代前期とはそんな時代だったのだ。 
 そして回廊を歩いて北庭に向かった。池のほとりには宮廷風とは打って変わって鄙びた茅葺の飛濤亭(ひとうてい)が建ち、その向こうに優美な五重塔がそびえる。塔が最も美しく見えるよう計算しつくして造園されたことも見て取れる。ちなみに南庭、北庭ともに最終的に現在の庭の形にしたのは明治時代の京都を代表する庭師、「植治」こと七代目小川治兵衛である。彼はあの塔をこの庭の「主」として定め、目の前の北庭を作庭したに違いない。

昭和天皇の出家先候補?
 洛西に建つこの寺を造営したのは大覚寺建立のおよそ一世紀後、9世紀末に即位した宇多天皇である。嵯峨天皇の曽孫にあたる彼だが、当時の他の天皇とは異なり、藤原氏を母としなかったため、藤原氏の意のままにはならぬ独自路線を歩むことができた。特に彼はブレインとして博覧強記の菅原道真を配下に置き、藤原氏を牽制しようとした。しかし紆余曲折を経た結果、皇位を息子の醍醐天皇に譲り、出家して政治的責任を持たない形式の「宇多法王」として院政を敷いた際の、事実上の「御所」も仁和寺だった。
 それにしても「院政」というのは実に日本的なシステムである。表舞台に現れる天皇である限り思い通りの政務ができないのならば、退位して太子等に譲るが、政治的実権は握ったまま太子らを動かす「院政」。これは今なお表の人間よりも「裏の大御所」の動きに気をつけなければならない日本社会そのものかもしれない。 
 興味深いことに敗戦が決定的になった昭和20年、近衛文麿元首相は昭和天皇をこの寺で出家させ、「法王」とすることで敗戦時の責任追及が天皇に及ばないようにと考えた。20世紀になってもここは天皇の出家により世俗の責任を回避することができる寺とみなされていたのだ。もちろんそれがGHQに通用するとは思えないが。

御室の桜
 そんなことを思い出しながら庭から出て金堂に向かう。その途中、左右に背の低い桜の木がずらりと続く。遅咲きの御室桜である。この桜の向こうにすらりとたたずむ五重塔こそ仁和寺のシンボル的構図である。ちなみにここは嵐山、醍醐寺と並んで「日本さくらの名所百選」の京都府の代表的な桜としても知られる。
 4月に来ればさぞ華やかだろうと思いつつしばらく歩くと、江戸時代に御所から賜った金堂に着く。大覚寺と同じく宮廷風の趣を醸し出している。特別公開の期間中だったので、中に入ると、ほの暗いなか、うっすらと照明に照らされた阿弥陀如来を本尊とした仏像群がこちらを優しく見守ってくれる。まるで立体曼荼羅のようである。本尊が収められているのが即位の際に使用される高御座(たかみくら)であることがいかにも皇室にゆかりのある寺らしい。来世の極楽浄土と現世の高御座が実にうまく溶け込んでいる。このような例は他にはあるまい。

皇室の風雲を照らし続けた大沢の池と月
 閉門時間となったのでバス通りに向かいつつ、考えた。京都御所が「表の御所」とするならば、御室御所や嵯峨御所は「裏の御所」である。そして皇室の歴史の危機が訪れそうになりそうになると、これら洛西の裏の御所がクローズアップされることが多い。平安時代には藤原氏の専制を食い止めようとした宇多天皇が仁和寺を拠点とし、鎌倉時代には亀山天皇が大覚寺統の本拠地を嵯峨御所に置き、そこから南北朝時代に後醍醐天皇が輩出された。さらに皇室の存亡にかかわる大戦末期には昭和天皇が仁和寺で出家する計画もあった。
 とはいえそれらの目撃者たる千年前の建造物は、洛西はおろか、平安京のどこを探しても存在しない。また、御室御所や嵯峨御所の庭園も、結局現在見るのは近代において平安時代を想像して再現したものである。しかし洛西で唯一、千年以上前と変わらぬ風景があった。それが大覚寺の大沢池である。人々は千年以上にわたり、月の出から日の出までこの池に映る月を見てきたはずだが、見方を変えると月のほうこそこうした皇室における風雲の数々を黙って照らし続けてきたともいえる。私は目の前にある庭の「主」的存在はなにか、いつも考えるが、ここでの「主」は大沢池にかかる満月なのではなかろうか。あるいは月を映してきた池なのか。いずれにせよ千年以上変わらぬ姿を見せてくれる池を持つ大覚寺庭園に一票投じたい。

夢窓疎石の代表作:西芳寺(苔寺)VS天龍寺 
 
南北朝時代に「枯山水」「池泉回遊式庭園」など、現在の日本庭園のフォームを造った造園の革命家が現れた。その名は夢窓疎石。彼が出現するまで、寺院のハイライトはお堂や塔等の建築と仏像だった。例えば飛鳥時代なら法隆寺五重塔に金堂釈迦三尊像、薬師寺東塔に薬師三尊像があり、奈良時代なら東大寺大仏殿に興福寺五重塔や阿修羅がある。そして平安時代なら東寺講堂の立体曼荼羅や平等院鳳凰堂阿弥陀如来像があり、鎌倉時代なら円覚寺舎利殿など、みな仏教建築や仏像が目に浮かぶ。歴史の教科書でこの流れの末期に位置するのは鎌倉時代に復興された東大寺南大門金剛力士像だろう。
 しかし夢窓疎石はその流れを変え、本尊以上に庭をハイライトにした。苔寺や天龍寺、金閣寺、銀閣寺、大徳寺大仙院、竜安寺、南禅寺…少なくとも京都の臨済宗寺院は、仏像が思い出せないのではなかろうか。庭が仏像にとってかわったからだ。ここではこの庭園の革命児、夢窓疎石の代表作として、西芳寺と天龍寺を歩いてみよう。

「観光公害」対策発祥の地としての西芳寺
 西芳寺以上に手続き上、そして経済的に敷居の高い庭があろうか。ここは1977年以来、往復はがきでのみ拝観を受け付けているからだ。電話やネットによる予約はコロナ前にはなかった。初秋の雨の中を、ようやく到着したのは指定時間の11時を3分ほど過ぎていたが、門はすでに固く閉ざされていたので、寺務所に電話をするとようやく係員が開けてくれた。本堂に案内され、一人三千円以上の冥加料を納め、多くの参拝客とともに写経を行う。写経とは言っても般若心経のような長いものではなく、筆でなぞれば15分ほどで書き終わるが、参拝客の中には中華系以外の非漢字圏の人も少なくなく、初めての体験に苦労している様子だった。書き終わるとようやく庭園史上の名人中の名人、夢窓疎石の庭を歩いてもよくなる。
 この寺ではかつて京都の他の庭園と同様、一般公開していたが、寺までの一車線道路が渋滞して住民に迷惑をかけただけでなく、苔庭の苔も荒らされた結果、「観光公害」対策を打ち出した。それが①往復はがきのみによる申し込み、②京都の寺院の参拝料金の相場の5倍から10倍の冥加料納付、③写経の義務付け、という三つのハードルを越えた者のみ天下の名園を拝見できるというものだ。もちろん訪日客とて特別措置はなく、往復はがき代わりに返信用の封書を添えなければならない。逆に言えば半世紀近くにわたってこれでやってこられるほどのクオリティを誇る庭なのだ。

「苔寺」の苔をはがしたら…
 写経を終えて方丈から石段を下り、庭を歩き始めた。石段を下って低いところに行くというのは、黄泉の国、すなわち冥界に入ったことを意味する。そしてその冥界は雨水で濡れた石と、それによってみずみずしく潤う苔で覆われている。しっとりと雨水滴る苔が目に染みるほどだ。「苔寺」の別名のほうを「西芳寺」という本名以上に有名にしているだけのことはある。南北朝時代に夢窓疎石が現れるまで、周遊型の庭は船で回っていたが、歩いて回る池泉回遊式庭園の第一号がここだと言われる。ただ、全体像は望めず、目に入るのは周囲の苔ばかりだ。
 雨のせいだろうか、手ぬぐいをかぶり、ゴム製の地下足袋をはいた庭師も雨宿りをしていた。この庭での庭師の大仕事は、120種もあるという苔の管理である。苔は実にデリケートな生き物だが、台風で木々がなぎ倒されたり、裏山のイノシシにあらされたりと、夏場は紫外線にさらされ、冬場は雨も少ない。これらを整えて生き生きと見せるのが庭師としての力量である。しかし特に欧米人にとってmossとは除去すべき不快なものであり、東洋、特に日本の庭師が精魂傾けて育てているのを見聞きすると驚愕するのは文化の違いだろうか。
 ところで日本庭園の持つ要素のうち私が最も好きなのは石である。しかしこの庭は石組があちこちにみえながらもそれが苔に覆われていて目立たない。石好きの私はむしろここの苔をみなはがしたら、夢窓疎石が造園したころの本来の姿が見えるのではないかと、とんでもないことを考えてしまっている。ただこの庭を夢窓疎石時代のものに「復元」しようとする計画などあり得ないほど、こちらのほうが「完成型」に近いのだろう。

枯山水のルーツ、枯滝石組の迫力
 黄金池をゆっくりと回った末に、急な坂を上った。あたかも黄泉の国から天上界に登ったかのようだ。登りきった先の指東庵の裏手をのぞくと、突然枯滝石組が姿を現し、圧倒された。これが水を使わずに滝を表現する枯山水のルーツと言われるが、その荒々しい岩による表現は猛瀑の迫りくる轟と飛沫でずぶぬれになるかのような錯覚さえ起こさせる。
 順路に沿って進むとこの造園の天才が修行をしたというてっぺんの平らな坐禅石が現れる。ただ、夢窓疎石にとって坐禅のみが修行だったわけではない。山水の心象風景を再現することで心を磨く。これが悟りへの道となり、造園即修行と考えていたのだ。そして彼のような造園を得意とする僧を「石立僧」と呼ぶようになり、中世の禅宗寺院には庭園がつきものとなってくるのである。
 やがて坂を下って本堂に着いた。黄泉の世界から天上界に、そして再びこの世に戻ってくるという異世界への旅は終わった。外に出るとなぜか放心させられた。何を見せられていたのかと振り返る。結局は夢窓疎石という庭園史上、いや文化史上の天才の世界観にひたっていたようだ。
 寺を去る前にもう一度玄関を見た。そもそも「玄関」とは禅語で、悟りに入る前の関門を意味することを思い出した。全ての人を救うことを標榜する浄土宗や浄土真宗は、門を閉ざすことなく敷居を取り外すが、厳しい修業を要する禅宗は敷居をあえて高くし、覚悟をもとめる。そう考えると予定集合時間を三分過ぎたら山門を閉じられるのも分からないでもない。またこの世界観と苔を守るためには入場制限をしてハードルを上げるのもありだろう。オーバーツーリズムの弊害が叫ばれる昨今、参考になる対処法だ。

多芸多才の石立僧による天龍寺 
 
桂川にかかる嵐山渡月橋を天龍寺に向かって渡る。訪日客の人混みを、まさにかき分けるようにして天龍寺の庫裏(くり)に向かう。庫裏とは台所兼寺務所のことだが、特に臨済宗寺院の庫裏はまるで北斎の「赤富士」のような巨大な妻入りの建物が多い。入り口前には高さ数メートルの岩が屹立しており、その気迫に庭の石組の期待感も高まる。大方丈の東の白砂を歩き、曲がると曹源池が顔を出す。そして歩き進むとこの庭の「主」ともいえる龍門瀑の石組みが全貌を表す。鯉の滝登りを意味するこの石組は池の向こう20〜30mのところにあり、近づけないが、その迫力は離れていても感じられる。
 宋の影響が強い臨済宗寺院では多くが北に山、南に池を配するが、ここは東に池があり、山はその西に位置する。西方に極楽浄土を観ずる浄土思想のようでもあり、興味深い。この庭、いや、寺院は西芳寺再建および後醍醐天皇崩御の6年後、1345年に建立された。建立を提唱した夢窓疎石は、自らに「国師」の尊称を授け、南禅寺の住持として引き立ててくれた後醍醐天皇に恩を感じていただろう。しかし同時にその天皇を京都から追放した将軍足利尊氏の参禅の師でもあった。天皇は吉野から京都にいつの日か戻ることを切望しつつ亡くなったと伝えられる。そして大覚寺統に属する南朝天皇の鎮魂を意図し、大覚寺からほど近いこの地に天龍寺を造営すべく足利尊氏に進言したのが夢窓疎石だ。
 政敵の怨霊は災いをもたらすと信じられていた当時のこと、この案は受け入れられた。ここに夢窓疎石の政治力が認められる。さらに造営費用は倭寇問題で一時途絶えていた元との貿易を再開し、「天龍寺船」という造営目的の貿易船を仕立て、運営することでまかなった。彼は貿易商人でもあったのだ。政治家でもあり、貿易商人でもある僧侶の彼が造営したのが、西芳寺の枯山水や池泉回遊式庭園などで、後の日本庭園の基礎となったといえよう。

庭>仏像の京都の禅寺
 そのようなことを思い出しながらもう一度龍門瀑を見てみた。西芳寺の後に造った天龍寺のこの庭園には、鎮魂の思いが込められている。そうだとするならば禅僧ではあるが、夢窓疎石が天皇の冥福を祈るならば宗旨とは異なる極楽浄土への往生を祈っても不思議ではない。そうすると北に山、南に池という禅宗ルールを破り、池の西に枯滝を組み、それを登って天の龍になるはずの鯉をかたどった石を置くことで、天皇の怨霊が極楽浄土に往生することを祈ったとしても不思議はない。
 ところでコロナ禍前後の天龍寺では庭園鑑賞のみなら500円、庭園+諸堂拝観なら+300円となっているが、諸堂拝観のみはできない。ここからも参拝客、というより観光客が求めるのは仏教ではなく庭園だからというのがわかる。正直、私自身、天龍寺でも西芳寺でも、本尊の御姿をよく覚えていない。「庭すなわち本尊」という流れの第一号が西芳寺であり、それを幕府=国家レベルで定着させたのが天龍寺だとするなら、やはりここはパイオニアである西芳寺のほうに一票を投じたい。


金銀対決 鹿苑寺VS慈照寺
 唐突な質問だが、金閣寺を庭園として楽しむ人はどれぐらいいるだろうか。一方、銀閣寺なら庭園として楽しむ人もある程度いるのだろうか。今回は「金銀対決」として、この両者を、庭園という角度から対決させてみたい。

日本一有名な建造物?
 英語圏ではGolden Pavillionとして知られる「金閣寺」こと鹿苑寺金閣。海外でもっとも有名な日本の建造物といえばここではなかろうか。二層目と三層目を金箔で覆った建造物が湖面にその姿を誇らしげに映すその存在感は、確かに他の追従を許さない。世界遺産「京都の文化財」の代表でもあるこの光景の主人公というべきこの金色(こんじき)の楼閣そのものは戦後復元されたもので、世界遺産の構成資産ではない。むしろ世界遺産となっているのは鏡湖池を中心とした庭園全域である。
 しかし金閣寺を庭園としてみるのはごく一部の庭園マニアにすぎず、ここを訪れる内外の人々に求められているものはある意味「即物的」なまでのこの楼閣である。足利義満が明や朝鮮の使節を接待するための迎賓館として利用したというが、外国使節に対して自らの権勢を視覚的に分かりやすく見せる最もよい方法がこれだったのだろう。

「主」とのご対面は正味10分、しかもスマホ越し
 ただこれを庭園としてみるときには、まるでフィルムを逆から回したかのような違和感を覚える。まず、日本庭園には「主」がいる。それはある時は丘であったり、ある時は滝であったり、ある時は巨岩であったりするのだが、いずれにせよそうした主=クライマックスは最初からは出さない。最初に地味なものを見せられているうちに見る者はじらされ、今か今かと待ちわび、最後にお目当ての「主」が現れるのが一般的な庭の見せ方なのだ。それなのにこの鹿苑寺庭園では、受付から歩いて敷地内に入るやいなや、いきなり燦然と輝く「あの」楼閣が目に飛び込んでくるのだ。映画に例えるならいきなりクライマックスのシーンを見せられるようなものだ。他の名園でこのような見せ方をするパターンは極めてまれだ。
 確かに神仙思想に基づいて造られた鏡湖池には、長寿を表す鶴島や亀島、そして不老不死の国としての日本列島を表す蓬莱島など、島々の表現に極めて優れている。だが、それらの名石の美しさやに込められた意味などほぼ無視され、見学者の目はみなあの楼閣に吸い寄せられる。まさに魔性の楼閣だ。ここを訪れるたびに思う。楼閣が改築中で覆われているときに訪れたい、と。そうすれば金ぴかに目がくらんで見えない庭園としての鹿苑寺のすばらしさが逆に心にしみてくるに違いないからだ。
 それにしても、いつ来ても訪日客だらけだ。日本人であれ外国人であれ、みなカメラやスマホの画面越しにこの黄金の楼閣を見ているが、行くたびに彼らの行動を見て、自信をもって言えることがある。この魔性の楼閣を肉眼で15分も20分も見る人はまずおらず、写真をとったらすぐに池の北に位置する楼閣に向かうのだ。楼閣の裏手に回れば、かつて将軍や外国の使節が見たであろう角度に近いところから池と島が見られる。その岩の配置にはうならされるが、やはりそれにこだわる人は少ない。

「裏」こそこの庭の主
 楼閣を見終わると、裏手に回る。すると立派な石組に水が流れ落ち、その下に鯉を表す鯉魚石が滝登りをしているかのようにみられる龍門瀑に心を洗われる。その水源は安民沢という、日照りにも枯れない池であり、中島に五輪塔が静かにたたずんでいる。金閣に目移りしてしまう鏡湖池では感じられない落ち着きがここにはある。その付近からは松林越しに楼閣の最上部のみ顔をのぞかせる「見返り金閣」が楽しめる。見る人の目を刺激するあの建物は、これぐらいの「モザイク」がかかっているほうがちょうどよい。さらにその奥の茶室「夕佳亭」は、先ほどの金ぴかの世界とは打って変わった侘び寂びの空気であふれ、落ち着くことこの上ない。
 妄想だが、私が鹿苑寺の管理を任せられたならば、逆コースで行かせたいと思っていた。つまり侘び寂びの世界を見せ、松林からちらりと金閣を見せた後に金閣に近づかせ、それを最後に鏡湖池に映る金閣の姿を見せようとするだろう。しかしよく考えると、それではクライマックスが派手な金閣そのものになる。見学ルートを今のように定めた理由は、もしかしたら金色に惑わされた我々の目を、滝や池の水で清め、茶室の侘び寂びの世界でリセットさせてから外に出させるためではないのだろうか、と最近になって思うようになってきた。つまりあの金閣など、黄金メッキの「お目汚し」に過ぎないから水や木々で自らのこころを清めよ、という意味を持たせるのだ。そんな愚にもつかぬことを夢想しながら駐車場に向かった。

銀閣寺の「プッチンプリン」インスタレーション
 鹿苑寺金閣に対するアンチテーゼとしての存在感が強い慈照寺銀閣。銀箔は張らずとも「銀閣」と呼ばれる観音堂のほかにも魅力に事欠かない。例えば入口で方向を変えると高さ5mほどの椿の木がまっすぐに刈り込まれた生垣が50mほども続く。まっすぐな生垣に視野は狭められ、突き当たりには何があるのだろうと期待感を持たせられる。南蛮渡来の庭園技法の罠にすでにかかっている自分に気づく。江戸時代初期の小堀遠州らは南蛮人との接触により欧州庭園の技法を身に着け、各地に広げたというが、その一つがまっすぐの道を作って両側を樹木などで目隠しすることで、歩く者に「次には何があるのか」と期待させる「ヴィスタ」という手法だ。
 中門をくぐると、向こうに1.8mほどの巨大な「プッチンプリン」の型枠に白砂を詰め込んだかのようなオブジェ「向月台」が垣間見られる。突然姿を現す巨大なプッチンプリンと、隣接地の白砂に横断歩道のような砂紋を描いた枯山水庭園、「銀沙灘(ぎんしゃだん)」が現れるが、これはインスタレーション・アートとしても十分通用する。一方向月台の南西にある「観音堂」すなわち銀閣は、鹿苑寺における舎利殿(金閣)の存在感に比べると、木造檜皮葺の古民家にしか見えないが、自己主張をしない奥ゆかしさを感じさせる。それが後の「日本らしさ」を築いた東山文化なのだ。銀沙灘を照らす満月の光が反射して観音堂をおぼろに照らすので、「銀閣」の別称がついたという。

時代を超えた足利義政の文化的センス
 境内のいくつもの石橋を渡り歩き、数多くの名石やそれぞれ異なる池を通り過ぎ、展望台に向かう。途中、山の中腹に崩れかけた石組みが見られる。そういえばこれとよく似たものを西芳寺(苔寺)でも見た。この寺を建てた足利八代将軍義政は、将軍でありながら思うままの政治が行えないことが不満で将軍を退位したため、後継者争いを引き起こした。それが三管領の細川氏と四職(ししき)の山名氏との争いである。この応仁の乱で京都を焼け野が原にし、日本を百年以上の戦乱の世にしてしまった張本人の足利義政は、政治家としては「五流」ではあるが、皮肉なことに文化人としては超一流だった。
 彼は応仁の乱の前から現実逃避の場所としての庭を造ろうとしていたが、そのモデルとなったのはその一世紀以上前に夢窓疎石が設計した西芳寺の庭だったのだ。よってここに西芳寺そっくりの石組みがあっても不思議ではない。現実逃避のための庭だったかもしれないが、彼はこの庭に救いの地としての役割を求めていたのだろう。中心となる建物が「観音堂」、すなわち今を生きる衆生を救ってくれる観音菩薩を安置していたことにもそれがうかがえる。
 彼の文化人としての実力は、向月台に隣接する東求堂(とうぐどう)の設計によって証明されている。畳と襖と障子と土壁の、一見何の変哲もない四畳半のこの形式は「書院造」と呼ばれるが、21世紀を生きる我々にとっても違和感なくくつろげる空間だ。600年、700年後の人でもくつろげる空間のプロトタイプを定めた彼は、やはり天才なのだろう。

 ところでそもそもこの土地は不浄とされる墓地であり、それをつぶして庭にしたという薄気味悪いエピソードもある。さらに各地の大名から名石、銘木を献上させ、一時は日本中の素晴らしい岩々や銘木がみなここに集まっていたという。また慈照寺で作庭したのは「穢れた」存在とされた同朋(どうぼう)衆という人々であった。公平を期して言うなら、同朋衆の観阿弥・世阿弥親子を引き立てて鹿苑寺で夢幻能を舞わせた足利義満のことも言及せねばなるまい。民のための世の中をつくるべき政治家としてはともかく、二人とも芸術に関しては世俗で「穢れ」とされた人々であっても実力があれば取り入れていた開明的人物だったといえよう。
 だが、21世紀にも通じる和室。現代アート的な銀砂灘と向月台。園内に散らばる名石。そして侘び寂びを感じる観音堂と周囲との調和。きらびやかだが写真撮影ばかり気になる金閣と比べ、庭の持つ要素がじっくりと楽しめ、現代にも通じる美にあふれる銀閣に一票投じたいと思う。

京都枯山水対決 竜安寺VS大徳寺大仙院 
 日本庭園の三大要素は木、水、石であるが、枯山水とは水を使わず、砂利で水を表現する庭園の形式である。禅寺に多い形式だが、京都では知名度からして竜安寺の石庭と大徳寺大仙院のものが双璧をなすといえよう。

竜安寺石庭が金閣の前にあったら、石がみな苔に覆われていたら…
 竜安寺を創建したのは、応仁の乱において東軍の将となった管領細川勝元である。ただ彼の時代には石庭はあったかどうかわからず、応仁の乱が終わって百十年後に秀吉がここを訪れた際にも、石庭を歌に詠まなかった。「庭の石、植木以下とるべからざること」というお触れは出しているが、これでは秀吉が今の石庭を見たのか、別のものだったのかわからない。結局かの有名な石庭がいつ、だれによって作られたかは謎のままだ
 門をくぐると鏡容池が姿を現した。石庭のみならず、そこに至るまでのこの池泉回遊式庭園も見ものであるが、人々の「本命」は石庭にあるためか、見入る人も少ないようだ。方丈に入ると、砂紋を描いた白砂の上に並べられた15個の岩が見えてくる。方丈でありながら本尊の存在をみな忘れて縁側に腰かけて庭を見つめる。鹿苑寺のような池泉回遊式庭園を見るとき、人々は自分の外にある風景を見ている。一方、枯山水に対面するとき、人々は目の前の白砂と岩に反射させて自分の内面を見はじめる。池泉回遊式庭園が写実的な絵画であるならば、枯山水は抽象的な心象風景を表す現代アートのようだ。
 ところでこの15個の石を見る人は何を思っているのだろうか。1975年にここを訪れたクイーン・エリザベス2世や、何度も訪れ、座禅をしていたというスティーブ・ジョブスらのおかげもあり、期せずして日本一「有名」な庭になってしまった。ここではなぜかいつも庭そのものよりも、なぜか見る人のまなざしが気になってくる。それは1キロほどの距離にある金閣とは正反対のまなざしである。金閣を見る人はカメラのレンズ越しに眺め、竜安寺石庭を見る人は庭をレンズにして自分の心の中を見つめているかのようだ。つい雑念が頭に浮かんだ。もしこの石庭の先に燦然と輝く金閣があれば、人々のまなざしはどちらを向くのだろうか。もう一つの妄想が浮かんだ。この庭の白砂に苔がはびこり、「苔寺」となっても、人々のまなざしは苔という外部ではなく自分のこころに向き続けるだろうか…。

竜安寺石庭は本当に「美」なのか?
 日本庭園を構成する要素が石、水、木とするなら、石は不変のものを、水は移ろいゆくもののシンボルだ。そしてその間に位置するのは移ろい方が遅い木である。しかしここの石庭は水を全く用いず、木さえ土塀の向こうに「借景的に」あるに過ぎない。つまり庭に最低限必要な要素さえもそぎ落とした「引き算の美学」の究極が、動的要素のない岩と砂になったのだ。いや、そもそもこれは「美」だろうか?むしろ美醜のかなたにあるように思えてならない
 試しに砂紋の様子を目に焼き付け、目を閉じてみた。しかし残映の中の砂紋は水の流れるような音が想像できなかった。やはりこの庭は葉が風に揺れる音やせせらぎが心地よく聞こえる相対的な静けさの世界というより、絶対的な「静」の世界なのだ。そうなると人々は動きのない風景に戸惑い、しばしの間、自分と向き合うようになるのだろう。しかも無意識のうちに。
 ようやく確信した。この庭は水を打ったような静けさの中に身を置かせ、見る人のまなざしを自己の内面に向けさせる「立体的哲学書」なのだ。人々に緊張を強いて「汝自身を知れ」とでもいおうとする哲学書に美醜があるはずはない。
 外に出た。鏡容池のほとりの岩と木々の中を歩き、これこそ庭だ、と改めて思った。私はどうやら抽象的哲学書のような石庭より、この山水画のような世界のほうが性に合うのだろう。

大徳寺大仙院にみなぎる「反骨」
 大徳寺の境内に入ると、まず三門の金毛閣がお目見えする。桃山時代に千利休の像をここの二階に安置したため、その下をくぐることになる秀吉が激怒して像を磔(はりつけ)にし、侘びを入れない利休に切腹を命じたことで知られるこの楼閣は、権力に媚びない反骨の精神を感じさせるに十分である。反骨の精神というと、この寺を応仁の乱の後に復興させた人物は一休宗純である。アジア圏で世代を問わず知名度を誇る日本の僧侶というと「一休さん」だろうが、アニメの聡明な小僧さんというイメージは、大徳寺では崩れてしまう。なにせその時は七十代だったのだから。
 彼は一生を通してこの世の権威や権力が空虚であることを奇行とも酔狂ともとられる言動で風刺した。曰く、飲酒や肉食はおろか、女ばかりか男とも公然と関係を持つだけでなく、それを歌にした。戒律のような人間を縛るものに拘泥することで、手段と目的をはき違える仏教界を攻撃したのだ。また、僧侶たるものが立派な刀を持って町を歩き、刀を抜いたら木刀だったという。権力や権威など、立派に見えても斬ることはできないという揶揄であろう。
 反骨と言えば、ここの本坊は観光客の拝観を謝絶している。本坊を慕って後の世の僧侶たちが周辺に建てた塔頭(たっちゅう)の中にも拝観謝絶のところがある。江戸時代初期の造園と築城の天才、小堀遠州が作庭し、美意識において追従するものがいなかった茶人大名松平不昧が復興した庭園がある塔頭、孤篷庵(こほうあん)もその一つである。一般開放すれば、毎日現金収入があることは、ここのネームヴァリューからすれば明らかだが、禅寺にとって、禅僧にとって最も大切な修行を大切にしたいがために、門戸を閉ざしているのだろう。これもインバウンドなどの観光業という時代に対する反骨の精神の表れかもしれない。


大仙院とディズニーランド
 反骨の精神に生涯をささげた人々のことを思いながら、本坊裏の塔頭、大仙院に入る。庭園の撮影は厳禁である。ここの枯山水は廊下を歩きながら一歩一歩その景色を変えていくのが分かる。中心には断崖絶壁の峰を模した不動石や観音石が屹立する。そしてその奥の枯滝石組からは方向によってゴーという轟きとともに、滝の水が流れているような感を起こさせる。実に深山幽谷にいる気にさせられるのだ。さらにそれが下に落ち、石橋の下で渓流となってこちらに流れてくる。それは激流であることは砂紋をみればわかる。その姿は、狩野派の障壁画にでも描かれている山水画を、そのまま忠実に三次元の世界に作り直したかのようである。
 石で作った山水の世界にひたった後、次の部屋に向かった。先ほどまでの渓流が海辺の湾に変わった。巨大な舟ふな石いしが大海原に船出しようとしている。舳先(へさき)が先ほどの深山幽谷の方向から離れるように向いており、自分もその舟石に乗って大海原に旅立つかのような気分になる。
 「枯山水の双璧」とはいえ、ここの庭は竜安寺とはまったく異なる。深山幽谷への前段階が一コマ目だとすると、屹立する岩山と滝が二コマ目、そしてそこから舟で離れていくのが三コマ目で終了する。極めて納得がいく作りだ。何かに似ている、と思ったら、ディズニーランドのアトラクションで乗り物に乗ってどんどん場面が変わっていく、あの感覚に近い。
 私の好みは山水画をそのまま立体化させ、深山幽谷から船旅に向かう旅にいざなってくれる大徳寺である。しかしそのような「解釈」を突き離したかのような味もそっけもない「立体の哲学」たる竜安寺のほうも気になる。好みと気になるとは違うのだ。難しい判断だが、自分に真剣に向き合わせてくれた竜安寺に一票入れ、京都の枯山水の王者としたい。


小堀遠州編:二条城二の丸庭園VS南禅寺金地院
 近世の庭園文化を作りあげたのは小堀遠州である。江戸時代において彼ほど多芸多才な大名もいなかったろう。まず和漢の文芸に精通する「文芸大名」であり、江戸城、名古屋城、駿府城、大坂城等の名だたる城郭の建造物を設計する「建築大名」であり、利休七哲の一人、古田織部の高弟としてすっきりと明るい「きれいさび」を提唱する「茶人大名」でもある。それでいて豊臣から徳川に鞍替えする首尾の良さ、数多くの大名を茶席に呼ぶコミュニケーション能力にもたけている。しかしこれだけのマルチタレントにとっての「本職」があったとすると、やはり造園だと思っている。
 ここでは彼の代表作の二条城二の丸庭園と南禅寺金地院を比べつつ、その魅力と功績を確かめたい。

二条城二の丸御殿ー虚と実
 洛中で事実上唯一の城郭が二条城である。堀川通に面した堀にかかる橋を渡ると、左奥が唐門である。別名「日暮らしの門」というこの門は、黒字に金箔で覆われており、松竹梅や鶴亀、唐獅子など長寿や権勢を表す彫刻が数多くほどこされているところに、徳川家の権威と安定を願う気持ちが見て取れる。金閣のように全面金色であるより、表面の半分を漆黒にしたほうが、金色の部分がよく映える。そして金は虚(=権威)であり、黒は実(=権力)である。この門は関ケ原の戦いで勝利をおさめた徳川家が権威と権力の双方を掌中におさめたことを宣言しているかのようだ。
 唐門に一歩近づくごとに、内部の二の丸御殿の巨大な千鳥破風が大きく迫ってくる。内部の遠侍という待合室のふすまに描かれた竹やぶから虎がこちらを睨んでいる。ここから幕府のお抱え絵師狩野探幽が指揮して描かせた金色の障壁画が連なる。いわば「狩野派ギャラリー」である。それは隣の式台の間ではのどかな柳の木や雁の絵になったかと思うと、次の大広間では襖を飛び越えて鴨居の上の壁にまで伸びる立派な枝ぶりの松の木がお目見えする。洋画でいうなら、カンヴァスの枠を超えて壁にまで描くというような感じだろうか。この大広間では1867年に大政奉還が行われたことでも知られる。
 ちなみに家康がこの城を築いた最大の理由も、征夷大将軍としての立場を拝命する際、御所に赴くための出発地としてという「虚」の理由と、将軍上洛の際の宿泊地として、また天守および城外の京都所司代から御所を監視するという「実」の理由があった。ここはやはり虚実が共存する城なのだ。そして江戸時代はこの城で始まり、この城で終わったという説ももっともだ。
 その奥は将軍が側近の大名などと対面する黒書院、さらにその奥は将軍の私的空間の白書院である。ここまで来ると障壁画も西湖や古代中国の人物などで、遠侍の持つ緊張感や大広間の持つ勇壮さは消え、リラックスできる空間となっている。

二の丸庭園も総合美術館の一部?
 外の二の丸庭園に出てみると、実に豪壮な石組みである。あちこちから岩が雨後の筍のようににょきにょきと上を向いている。さすがに十七世紀最高の「文人大名」小堀遠州の造作だけはある。この庭は1626年に後水尾天皇が行幸するにあたって、もともとあったものを彼が作りかえたという。後水尾天皇といえば後に修学院離宮を自らデザインするほどの庭好き天皇である。その鑑賞に堪えうる庭がここだった。武士の作った庭は豪放ではあるが雅やかさにかけるという。しかし近江の生んだこの天才造園大名は、庭づくりという風雅の世界においても将軍家が皇室に負けていないことを庭によって示さねばならなかったのだ。逆にいえば当時の大名で彼以上に王朝文化に通じていたものもいなかったのかもしれない。
 それにしても貴重な岩が惜しげもなく使われているのに驚かされる。さらに南風を感じさせるソテツが目につく。南蛮人がもたらしたというソテツは、彼によって「エキゾチシズム」を感じさせてくれるオブジェとなり、「遠州好み」の庭に欠かせないものとなった。ちなみに彼はどうやら南蛮人経由で西洋流の遠近法や黄金分割などの各種技法も身につけていたという意味では「和漢+洋風」の庭を造ることができたということになる。そしてそれは日本中に広まっていった。
 現在の庭だけ見ていても実感できないが、二の丸御殿大広間の方角からちょうど西の方向に、庭園越しに天守が見えたはずである。いわば天守を借景とした庭だったはずだ。ただ1750年に落雷で焼失したため往時を空想するのみである。完成したばかりの天守がそびえる往時にここに行幸した天皇は、庭という風雅な世界の向こうに将軍の権威を見せつけられたに違いない。そこに文芸大名でありながら政治的な面も持ち合わせた遠州の意図が見て取れる。
 一通りまわって実感した。ここは城というより、庭というより、総合美術館だ。障壁画、欄間の彫刻、唐門や御殿などの城郭建築、各時代の庭園などからなる総合美術館なのだ。そしてそれらはみなマルチタレント大名の小堀遠州の全てが注がれているように思えてならない。

「きれいさび」の南禅寺本坊庭園
 東山のふもと、南禅寺の伽藍は巨大である。特に迫りくる三門は見る人を圧倒する。戦国時代の天下の大泥棒と謳われた石川五右衛門が、秀吉の命を狙って捕まる際、ここの三門にて「絶景かな、絶景かな、春の宵よいは価あたい千両とはちいせえ、ちいせえ、この五右衛門の目からは価あたい万両、万万両!」と大見得を切る場面は、歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の創作であり、その当時この門はなかった。登ってみると想像以上に高い。もしかしたら戦国時代の京都でここまでの高層建築はなかったのかもしれない。今でいうなら京都タワー並みといえるかもしれない。
 山門をくぐって、いくつもある塔頭の頂点に立つ本坊に向かう。ここにも小堀遠州の作と伝えられる庭があるからだ。竜安寺石庭と同じスタイルの「虎の子渡しの庭」であり、砂紋を描いた白砂の向こうにあちこち石が見られる。竜安寺と比べると実に広々としていて明るい。彼が提唱した「きれいさび」とは、師匠の師匠たる利休ごのみの「わびさび」とはことなり、明るくまっすぐなのが特徴だからだ。一方で竜安寺のように見る者に緊張を強いるようなものではなく、また思考が自分の内面に向かうわけでもなく、「風景」として楽しんでいる自分に気が付く。それに続く苔の庭も、そして本坊内の襖絵も素晴らしい。シームレスにつながる庭と襖絵の共演は、一流の美術館のようだ

幕府の「外郭団体」としての南禅寺
 ただ、この寺の歩んできた歴史は、権力に対して孤高を保ち、時には権力者を揶揄しさえする禅の在り方とは正反対に思える。朝廷や幕府の「外郭団体」といってもよいほど権力に近づきすぎていたからだ。そもそもこの寺は鎌倉時代に南朝の起源、大覚寺統の始祖ともいえる亀山上皇の意向で建立され、南北朝時代には一時的に後醍醐天皇の要望によって夢窓疎石が住持となった。そして室町時代には足利義満が幕府の「外郭団体」として位置づけられた臨済宗の禅寺、「京都五山」「鎌倉五山」のさらに別格の寺院「五山之上(ござんしじょう)」として位置づけられた。皇室における別格の神社が伊勢神社ならば、室町幕府にとってのそれが南禅寺だったのだ。そして南禅寺以下の両五山は幕府の対外貿易や外交を司る外務省的役割を果たしてきた。いわばこの寺は外務省と「宗教省」を兼ねた霞が関の省庁のようなものだったのだ。
 体制に組み込まれたこの寺の歴史はさらに続く。江戸時代には以心崇伝(いしんすうでん)の希望によって幕府から管理を任された。彼はキリスト教を禁止するように提言するという宗教政策だけにとどまらず、朱印船貿易を一手に握るなどの外交策や、幕府による大名の統制を固定化する武家諸法度、皇室の政治関与を抑える禁中並公家諸法度を制定させるなど、政治にも関与し、「黒衣の宰相」、つまり「権力坊主」と呼ばれていたほどだ。

金地院ー「鶴の首」についていけない私
 彼は伽藍の西に金地院(こんちいん)という塔頭を造営したが、そこの庭も小堀遠州の庭という。本坊から金地院に行く途中、レンガ造りの水道橋、水路閣が現れる。全体的に権力者の意向がそこここに感じられる寺院ではあるが、明治時代になると徳川家による幕藩体制も崩壊し、首都が東京に移されてからはこの寺はもちろんのこと、京都全体が不況に陥った。その時、生活用水に事欠く京都に琵琶湖から疎水を通したのが、この水路である。できた当初は伝統的な権威あふれるこの寺の境内に文明開化の象徴ともいえるレンガ造りのアーチ橋が横切る光景は、違和感を持ってみられたようだが、百数十年もたった今は古色蒼然とした美しさを帯びている。期せずして侘び寂び感さえ漂うようになったこの作為のなさはさっぱりと明るい「きれいさび」を作為的に作り出す遠州の庭よりもむしろ美しく感じた。
 金地院の境内に入ると、禅寺であるのにまず家康を祀る東照宮が勧請(かんじょう)されている。このことからしても、南禅寺の権力志向が見て取れる。そして門をくぐると現れる白砂の向こうに岩と木々が並ぶ枯山水には一瞬息をのんだ。庭のモチーフには不老長寿を表す鶴亀がよく用いられるが、ここの庭も「鶴亀の庭」と呼ばれる。おそらく幕府の繁栄を祈ってのことだろう。一般的に岩で鶴亀を表すとき、「鶴」は細くて高い岩を、「亀」は丸くて平たい岩を使うが、ここの「鶴」は石橋にする予定だったらしい細長い岩を立てずに横にしている。ちょうどスライスする前の三斤分の食パンが巨大化したような形だが、これが「鶴の首」ということなのだろうか。まっすぐ伸びたスタイルは遠州一流の洗練された「きれいさび」というコンセプトなのか。
 庭マニアはその発想の「妙」を讃えるかもしれないが、私にはどうしても腑に落ちない。確かに抽象画ならばどのような解釈も可能だが、横に寝そべった岩を亀ではなく鶴と名付けるのにはついていけないのだ。ついていけないものを無理して分かったふりしないのが素直というものだろう。
 
ブランドよりも自分の五感
 遠州の師匠の師匠にあたる利休は権力者秀吉の豪華絢爛な美意識に対し、自らのわびさびという美意識を譲らず、抗議の意味をも含んでか切腹した。織部も豊臣家に仕えた後、徳川秀忠に茶の湯を指導する立場でありながら、大坂の陣の後に豊臣方に内通しているとの嫌疑をかけられ、切腹させられたが、申し開きはしなかったという。利休は商人である前に、織部は大名である前に、美を追求し、美に命を捧げる茶人だった。
 それに対してこの庭を造った遠州は、美を求める茶人や作庭家である前に、徳川家の家臣であることを守った。自らの立場の範囲内でしか自らの美を貫けず、貫かなかった。しかしその制約がある中で精いっぱいの「自由」が、縦に置くべき鶴石を横にしてみることだったのかもしれない。
そして自らの芸術家としてのブランド的価値を理解している彼は、磨き上げた自分の感性によってではなく、単なる「遠州ブランド」に追従してこの庭を評価する人、そして権力者をもあざ笑っているようにも感じた。「人の決めたブランドに惑わされず、自分の五感で庭を見よ」とでも言ってこちらの目が試されているかのように思えてきたのだ。
 さて、近世庭園の第一人者たる小堀遠州の代表作として、二条城二の丸庭園と南禅寺の書庭園はどちらが私のこころに響いたか。城郭マニアであるから二条城か、と思いきや、鶴の首のわけの分からなさが自分自身を素直にさせてくれたという点で、南禅寺に軍配を挙げたいと思う。

①桂離宮VS修学院離宮
 桂離宮と修学院離宮。この二つの名園はしばしば対比させられる。大坂夏の陣直後に出された「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」により、皇室は政治的に口出しをすることが事実上禁止されたが、そんな皇室の宮廷文化が濃縮されていること、建築と庭園をシームレスにつなぐ「数寄屋造」であること、京の都の鬼門(東北)と、次に不吉とされる裏鬼門(西南)に位置すること、両離宮ともに宮内庁の管轄であるため、ガイド代わりの職員とともに見学することになっており、ネット予約が必要など、共通点が数多くあるからだろう。

桂=月=裏
 桂離宮を訪れた日は、小雨が降っていた。予約せずに朝一番で行ってみたところ、運よく当日参加の枠がまだ空いていた。戦前に日本に一時亡命したドイツ人建築家、ブルーノ・タウトは、日光東照宮と比較して、日本人が追い求めるべき美意識を桂離宮にしたことはよく知られている。タウトは東照宮を「俗悪品」「外面的な技巧」等とことごとく否定する一方、桂離宮を「純粋建築の神髄」とした。
 そのような背景知識が、かえって庭を見る際に色眼鏡をかけてみてしまいそうになることに注意しながら庭を歩いた。期待していた通りの美の極致といおうか。木や石や水に備わった持ち味を十二分に引き出して配置し、間(ま)も完全に計算して造られていることが見て取れる。秋雨に濡れた石は殊の外美しい。
 特に想像力をかきたてられるのは、月光に照らされたこの離宮の姿である。ここの中心となる建物はその名も「月見台」といい、またその近くには「月波楼」という、いずれも月を愛でるための建物がある。そもそも「桂」の木とは「月桂」、すなわち月のシンボルである。それに対する建築は、政治的実権を握った徳川氏の権威をなびかすために「日光の照らす」東に建てた「表の建築」、日光東照宮である。いわばここは政治的に封じ込められ、京都の西で陽が沈んだ後に月影に照らされた「裏の建築」なのだ。
 これを造り始めた八条宮智仁(としひと)親王は10歳で豊臣秀吉の養子となったが、1年後に秀吉に待望の長男が生まれたため、宮中に戻されながらも豊臣家との関係を維持していた。文人としてだけでなく秀吉が認めるほどの政治的手腕があったことも災いして、徳川時代になると家康から要注意人物として扱われ、洛中から遠く離れた桂の地の離宮で花鳥風月を愛で、歌会や茶会を催すことをなかば強制された。そのような鬱屈した思いなど微塵も感じさせないほど、完璧な美の調和がそこにはあった。
 園内を歩くと、あらゆる庭園技法が目まぐるしく使われているのが感じられる。樹皮がついたままの門の柱や待合、小堀遠州好みのソテツ、天橋立に見立てたまっすぐな石橋、それを眺める州浜、現代アートにも通ずる青と白の市松模様の壁、庭全体を一度に見渡せさせず、小出しに見せることで、見る者の期待感を高める木々や築山など、大技、小技が続く。それでいてのびやかな間と緊張を感じさせる。
 さすがに「しおさいプロジェクト」、すなわち欧米のいわゆる「庭園ランキング」で足立美術館に次ぐ二位をキープし続けてきた庭園だけある。足立美術館に関しては整備が完璧すぎることが日本人の感性に合わないのか、批判的な声もある。しかし桂離宮もある意味技巧に次ぐ技巧、計算につぐ計算が過度ではないかとも思われる。ただそのような「外野」のランキングがどうであれ、歩きながら、大外刈りや小内刈り、内股にけさ固め等の技を次々にかけてくる柔道家のように感じられてきた。私がその技の連続と計算的戦略に参ってしまったのはいうまでもない。

後水尾天皇の愛した人工の里山
 翌朝早く修学院離宮に向かった。汗がにじむほどの陽射しだ。ここは事前に予約がとれていた。20名ほどの参加者は、なぜかほぼすべて日本人だったが、京都の名園でこれは珍しいことだ。宮内庁の職員に連れられて歩いていく。修学院離宮は表総門近くの下離宮、その南東の中離宮、そして山を登った北部の上離宮の三つに分かれる。
 下離宮は桂離宮にもありそうな数寄屋造りに枯山水、青い苔や朝鮮灯篭などの特色ある各種灯篭が並ぶ。ただ桂離宮との最大の相違点は、そこから中離宮に行く間、田畑が続くことだ。この田畑は四百年前に智仁親王の甥にあたる後水尾天皇が造園をした際、鄙びた農村を再現するために各離宮をつなぐ小径に松の並木を植え、木と木の間から農作業をする人々を眺めるという趣きにしたものだ。いわば人工の里山といえるだろうが、今なお地元の人々に引き継がれ、近所のお年寄りが数人、農作業の合間のおしゃべりに興じているのを見かけた。
 中離宮でも下離宮と同じく数寄屋造りの庭園が広がるが、下離宮と比べると迫力のある石組みが特徴的である。しかしそれ以上に中離宮から十五分ほど歩き続け、棚田の坂道を登りきるまでの道に圧倒された。これは庭だろうか。どう見てもただの棚田だ。私の故郷の奥出雲でもこのような光景は珍しくない。しかしそれは四百年前の天皇の趣味による農村的雰囲気を醸し出す目的で作られた棚田なのだ。上中下の離宮のみが庭園ではなく、それをつなぐ道や、棚田まで庭園の一部というのが信じられない発想だ。実際、総面積は三つの離宮よりも田畑のほうが大きい。例えば岡山後楽園にも田んぼはある。しかしその庭園に占める面積は微々たるものだ。
 ここはいったい何なのだ?いや、自分は石、水、木を三大要素とする「日本庭園」にこだわりすぎていたのだろうか。逆に私がこれまでみてきた多くの「庭」はそもそも何だったのだろう…というようなことを思いながら、ソウルの昌徳宮秘苑を思い出した。技巧によって自然の形を変えるよりも、自然そのものを愛でるという朝鮮随一の王宮庭園は、どう見ても庭ではなく自然の光景そのものだ。歩きながら「日本庭園とは何か」ということを考えさせられたものだが、この庭にも「そもそも論」を突き付けられた。
 
池に見えるダム
 乱れた呼吸で胸突き八丁の坂を登りきったころ、ようやく上離宮の隣雲亭に着いていた。ここはある意味大名庭園的な池泉回遊式庭園で、なぜかほっとした。東京の六義園や小石川後楽園など見慣れた庭園と似たような景観だったからだ。とはいえ東京の庭よりはるかにのびのびとしている。また中華風の屋根付きの橋、千歳橋を除いては、桂離宮ほど見る人の目を楽しませるために施した技巧が目立たない。
 池を一周すると、最後は池の西浜をまっすぐに200mほど歩く。日本庭園の園路でまっすぐな道はほぼないだけに、妙な感じがしてくる。道がまっすぐだと視点が単調になり、庭園の見ものに目を移すこともない上に、そもそも山裾や川に沿って曲がっている道のほうが自然に思えるからだ。ただ、実は今見ているこの池は、池というよりダムである。そしてこのまっすぐな通路はその堰である。一般的に日本庭園では池は掘るものだが、ここは土木工事によって堰を造り、水をせき止めているのだ。このような奇想天外な発想ができた後水尾天皇には頭が下がる。
 幕府によって日に日に弱体化させられた朝廷の政治権力に対し、1629年後水尾天皇は激怒の末退位した。ちなみに彼の妃、和子は二代将軍秀忠の娘である。退位後の後水尾上皇は、和子をATM代わりに利用して幕府から莫大な資金を得てこの奇想天外な庭を造った。政治的鬱屈を造園にぶちまけたのだ。とはいえそのようなわだかまりは微塵も感じさせないのびやかさを感じさせるのは、庭より広い田畑や、棚田を登りきったところに突如現れるダムのような池、そして三つの離宮を直線的につなぐ松並木の道といった思いもよらぬ「装置群」のせいかもしれない。
 桂離宮VS修学院離宮の勝負をどう見るか。桂離宮は大技、小技を見事に使い分けて「柔道技」を仕掛けてくる。しかし修学院離宮は土俵が違った。桂離宮がキチンとルールにのっとって美しい「技」を仕掛ける武術とするならば、ルールそのものに異議を唱え、庭園のそれまでの在り方をひっくり返すかのようにしつらえた修学院である。このメタ的な庭園、修学院離宮のほうにここは軍配を上げたい。

植治の庭対決:平安神宮神苑VS無鄰菴
 
近代最高の造園名人といえば、「植治」こと七代目小川治兵衛であろう。このカリスマ庭師の設計した庭は、東山山麓、南禅寺から平安神宮にかけての一帯に集中している。その中でも対照的な美が楽しめるのが平安神宮と無鄰菴(むりんあん)である。

京都盆地に現れた中華世界
 平安神宮の朱塗りの大鳥居をくぐると、唐の宮殿や寺院に多用されたシンボルカラーともいえる朱色とパステルグリーンの丹青模様が目に飛び込んできた。応天門だ。原寸の6割強に縮小し復元したとはいえ、遣唐使を盛んに送った平安時代初期の雰囲気をよく再現している。門をくぐり、正面の大極殿までの四角い空間は中華的色彩が濃厚である。そもそも北東の建物を蒼龍楼、北西のを白虎楼と名づけられているこの空間を歩くといつも中国語のフレーズが思い浮かんでくる。「左青龍、右白虎」。つまり北に座って南を向く中国の皇帝にとって、左側(東)は青龍が、右側(西)は白虎が守護神となるという意味である。
 思うに近代の植治や近世の小堀遠州、中世の夢窓疎石など、その時代その時代の庭づくりの革命家たちが現れるずっと前、平安遷都の頃から、京の都は圧倒的な中国的メカニズムで構成されてきたのだ。ちなみに平安遷都をした桓武天皇と、京都で崩御した最後の天皇、孝明天皇を祭神とするこの神宮が建てられたのは、平安遷都1100年を記念した1895年、つまり下関講和会議の最中であった。清朝と戦いながら中華的色彩あふれる社殿を造営するのも皮肉な話ではある。
 白虎楼と右近の橘の間の門から神苑に入ると、中華的な空間が一変し、土を踏みしめそぞろ歩きながら春の桜、夏の菖蒲や睡蓮、秋の紅葉、時には冬の雪など自然折々の美が楽しめる。特に四角四面で一面の白砂の大極殿前の空間から苑内に入ると、木々が生い茂り、池の水が心を潤してくれるのを感じずにはいられない。ふと明治時代に正岡子規が明の様式で建てられた宇治の黄檗宗萬福寺の山門を出たときに詠んだ句を思い出した。「山門を出れば日本ぞ茶摘み歌」。
 特に人気なのが睡蓮広がる蒼龍池の臥竜橋で、三条大橋と五条大橋の丸い橋脚を切断した14個の石を、龍が這うように配置したこの飛び石は、こののんびりした自然風景の中では多少の緊張を強いるアトラクションとなっている。またこの「臥竜橋」という名がよい。日本の庭の飛び石は原則として直線に並べることは滅多になく、曲線ばかりだが、その曲線美を龍が臥しているようにネーミングをつけるセンスは秀逸だ。 
 一方で東神苑の向こうには、中心に金閣、銀閣の上層部のような楼閣を設けた泰平閣がみえる。楼閣は唐風に見えるが、屋根の部分は檜の皮でふいた和様の檜皮葺(ひわだぶき)である。雨上がりの夕方にここを訪れたときは瓦代わりの檜の皮が雨水で濡れ、まるで押せば水が滴りそうなそのみずみずしさに「和」を感じたものだ。若いころ中国に住んでいたが、めったに雨が降らず、この心地よい湿り気に飢えていたことを思い出した。
 さらに池の水面にはその姿が映え、東山が借景となっている。この眺めは苑内・苑外という空間的ギャップ、和風と中華風という文化的ギャップ、そして平安時代・明治時代とそれを見ている現在という時空を矛盾することなく溶け込ませている
 神苑をでると、また鮮やかな極彩色の建物と白砂の四角四面の中華世界に戻ったかのように感じた。境内から外に出て現実世界に引き戻されると、次の植治の仕事の跡を目指して南に下った。

無鄰菴ー筋金入りの軍人、山縣有朋の庭
 外に出て15分ほど歩くと、明治のタカ派政治家でもあり庭マニアでもあった長州出身の山縣有朋の別荘、無鄰菴に着く。幕末に高杉晋作のもとで奇兵隊の軍監となり、明治初期に陸軍省ができると陸軍卿から陸軍大臣へと出世する一方、対外的には日清戦争、義和団事件に派兵してきた山縣は、いわば軍人街道まっしぐらの人物である。そんな彼が1903年、伊藤博文や桂太郎首相、小村寿太郎外相らをよび、翌年の日露開戦を決定した歴史的な場所がこの無鄰菴であり、現在もその会談が行われた洋間が残されている。
 しかしその一方で米誌 “The journal of Japanese gardening”で、常にトップテンに入ってきたここの庭は、欧米の庭マニアの中では京都の庭として桂離宮の次に評価が高いといえよう。血で血を洗う戦場をかいくぐってきた筋金入りの軍人ではあったが、同じ人物が東京に椿山荘を造園させるなど近代日本において超一流の庭園愛好家であったことは庭マニアしか知らないかもしれない。そしてそんな彼の要望を受け入れ、実現した庭師こそ植治であった。

立てるべき岩を横にした植治
 園内に入ると若手スタッフが数人、汗をかきながら芝を刈ったりして維持している。この庭の特徴は管理者だけでなくボランティアスタッフたちの庭園維持に対する思いと日本庭園そのものに対する愛が強いことだ。木造二階建ての母屋に入ってみる。畳に座りながらしばらく外を眺めてみた。縁側の向こうに東山が見えるが、庭と山の間にかなり距離があるにもかかわらず、シームレスにつながっているかのような錯覚を抱かせてくれる。これぞ借景をうまく利用した数寄屋造りである。園内には芝生の間に遊歩道が走り、三々五々見学者がそぞろ歩いている。なかには打掛に紋付き袴の男女もいる。婚礼の前撮り写真を撮っているのだろう。
 畳に座りながら入口でもらった小さなパンフレットを開いてみた。母屋の向かいに平たい大石が横になっているが、「鑑賞ポイント」として、「もし立って据えられていたら?東山の存在感は、今とは違うものになるだろう。」とある。なるほど、もし石が立てられていれば、それがこの庭の主役となり、東山は借景=脇役という普通の庭になるだろう。今あるままの庭を鑑賞するのが普通で、「もし~だったら」ということを考えさせることはない。ここの庭はこんな「仮定法」を持ち出して、空想に心を遊ばせることを教えてくれるのだ。
 ちなみに平安時代に書かれた造園バイブル「作庭記」には「もと立たる石をふせ、もと臥る石をたつる也。かくのごときしつれバ、その石かならず霊石となりて、たたりをなすべし。」つまり立てるべき石を横にして置くと、岩の神が祟りをもたらすという。そんなの迷信だというのはたやすいが、日本の造園の伝統にのっとって仕事をしてきた植治がこのようなことをするのは、清水の舞台から飛び降りるようなものだったかもしれない。彼はここで近代造園の道を開いたと言えよう。
 そのほか「お庭の歩き方」として、「走らないーあなたも景色の一部」と書かれている。なるほどと思いつつ床の間に目をやると山水画の掛け軸があった。山と谷川の間にあずまがあり、中国服らしきものを身にまとった人が数人歩いている。言ってみればどこにでもある水墨画のテーマだ。しかしその後に改めて庭に目を移すと、先ほど見た掛け軸が三次元空間となって目の前に広がっていくのが実感できる。庭をそぞろ歩く人が山水画の中を歩く古代中国の人々とオーバーラップしてきた。「走らないーあなたも景色の一部」というパンフレットの言葉は見学者の心得であると同時に、山水を立体化させた池泉回遊式庭園の楽しみ方のコツだったのだ。
 そして私も履物をはきなおして、芝生の間の道を歩いてみた。芝生は西洋に追いつき追い越そうとした明治期の庭園に普及したスタイルだ。そこを流れる蛇行した小川に、水の音がさらさらと響き、東山のほうから涼しい風がやさしく吹いてくる。生涯戦争に戦争をかさねて心が荒みつつあった山縣有朋のこころを癒し、人間らしさを取り戻させてくれたのが、この庭の石と木々と水の流れだったのだろう。そして例のランキングでもそれが評価されたのではなかろうか。
 平安神宮も無鄰菴も、明治期に政府要人の養成によって地元の庭師、小川治兵衛が造園したものであることは共通している。そしていずれも東山を借景に、前者は中華風と和風を並立させ、後者は和風の中に芝生という洋風素材を取り入れるという折衷様式を取っている。しかし純粋に「庭園」としての面白さを感じさせてくれるのは、無鄰菴だった。そしてそれは額に汗して働くボランティアスタッフの庭園愛に加えて、庭の楽しみ方をさらりと教えてくれる小さなパンフレットによるものだった。そこで一般的な観光地ではないかもしれないが比較的玄人好みの無鄰菴に一票を投じたい。

密教寺院対決:究極の技巧の醍醐寺三宝院VS無為自然の笠置寺
 今回の京都の庭園対決の最後として、醍醐寺三宝院と笠置山(笠置寺)を選んだ。三宝院はともかく、笠置寺はそもそも京都府内とはいっても、洛南の醍醐寺からも40㎞近く南に位置する山のなかであり、しかもここを「庭」と思う人はあまりいないだろう。しかし醍醐寺と同じく皇室と深いかかわりのある真言宗寺院であり、また秀吉という近世の権力者が基礎を築き上げた醍醐寺に対し、笠置寺は後醍醐天皇という中世の権力者が立てこもった山城である。時の権力者に左右されたという共通点を持つ。そしてここをあえて選んだ理由は、誰もが名園と認める醍醐寺三宝院と比べ「そもそも『庭』とはなにか」という根本的な問いのヒントがありそうだからである。
 だがまずは洛南の醍醐寺から歩いてみよう。。

醍醐天皇と醍醐寺
 醍醐といえば桜であるので、桜が満開の頃にこの広大な伽藍の寺を訪れたことがある。京都市はもちろんのこと、京都府内で最も古い建造物である五重塔はまさに桜に囲まれていた。宇多天皇の子、醍醐天皇は、藤原時平の讒言を真に受け、父の腹心であった菅原道真を大宰府に左遷したことで知られるが、930年に清涼殿が落雷を受けたが、人々はそれを道真の祟りだともっぱら噂し、心労も重なって数か月後に崩御した。ただ彼は単に暗愚な帝とはいえない。例えば文化面ではその後、紀貫之らに命じて勅撰集の「古今和歌集」を編纂させている。いわば平安時代における天皇親政の文化的爛熟期が醍醐天皇の時代だったのだ。そしてこの天皇の祈願寺が醍醐寺である。この寺が時の権力者の意向に左右されがちなのは、このときだけではない。南北朝時代には後醍醐天皇を支持する僧侶と足利尊氏を支持する僧侶、そして寺院の存続を第一に思い、風見鶏を決め込む僧侶などで分裂した時期もあった。戦国期には荒廃したが、それを立て直したのが太閤秀吉だった。

醍醐の花見と三宝院の庭
 秀吉は1598年、つまり亡くなる年の春にここで花見をした。約1300人の花見客が招かれたが、その大部分が武家の妻だったという。秀吉の正室北政所(ねね)を筆頭に、淀殿や前田利家正室のまつなど、そうそうたる顔ぶれの女性陣は、みな二度の衣装替えが求められたという、それは華やかなものだった。その際、この寺の荒れように心を痛め、まず三宝院の庭を復興させるために秀吉みずから設計したが、完成を見ることなく亡くなったという。
 「天下人」となった彼の「三大イベント」はと聞かれると、このほかに吉野の花見と北の大茶会が挙げられるだろう。ただ彼はどうも花を愛でたり茶と向き合ったりするのではなく、あくまで花や茶を通して人々とコミュニケーションを取っていたように思える。だから例えばこの庭にしても、庭そのものに向き合うのではなく、庭を通して人々と付き合いたいというのが本音だったのではあるまいか。つまり自分の理想の庭を創るのではなく、人々をうならせるような庭を造り、認めさせたかったのではないかと思えて仕方ない。

見立ての芸術
 正直、庭園そのものとしての技巧的な素晴らしさは桂離宮にも引けを取らないように思える。例えば大玄関付近の冠木(かぶき)門からは、池や木々、岩々の向こうに茅葺入母屋の純浄観が見える。まるで合掌造りのような庶民性と、豪華絢爛な桃山文化が不思議とマッチしている。表書院を歩くと、川が流れるような砂紋がほどこされた手前の白砂の向こうの青緑色の池の周りには、見ごたえのある岩がずらりと並ぶ。さらに不老長寿を意味する松を植えた鶴島、亀島や、舟で池を巡るために高くしたいくつかの苔むした土橋や石橋など、面積の割には次々と場面が変わっていく。庭の楽しみ方に「一歩一景」という言葉があるが、ここはただ歩くだけでなく、座ったり、立ったり、時には寝転がってアングルを変えると別の「表情」が楽しめる
 坪庭を過ぎてさらに進むと、先ほど入口から見えた純浄観である。水の音が聞こえてくる。水は目だけではなく耳でも楽しむものだが、そのためには目を閉じたほうがより楽しめる。しばらく目を閉じて音に集中してから再び目を開けると、表情豊かな岩々の中を三段の滝が落ちている。さらに正面を見ると目立ち過ぎず目立たなすぎない、それでいて見過ごせない四角い岩が立っている。それが秀吉がこの庭の「主」として置いたという藤戸石である。現岡山県倉敷市あたりから持ってきたというこの石は天下の名石として知られる。というのもこれは足利三代将軍義満や八代将軍義政、管領細川氏、織田信長といった美意識の高い天下人たちの手を渡ってきた石であり、それを手に入れた秀吉が聚楽第に置いていたものを、ここに移したものという。「庭は見立ての芸術」と言われるが、これは周囲にある小さな石を脇仏(勢至菩薩・観音菩薩)とした阿弥陀如来の三尊像に見立てているといわれている。だがそれにしては西方極楽浄土を表す西側においてないのが気になる。おそらく極楽往生などよりも現世での楽しみを最優先しそうな秀吉であるからには、むしろ天皇でも招待してこの天下の名石を見てもらい、「この石をもっている秀吉には敵わない」と思わせることがこの石の意味ではなかろうか。
 私は日本庭園を構成する要素の中で、草木や水よりも岩が好きだ。特に岩には静けさやエネルギーといった表情と個性が詰まっているからだ。しかるにどうもこの藤戸石は、個性は感じられるのだが自分の胸にグッとくるものが弱いように思える。気のせいだろうか。ただ「ブランド石」だからといってそれをありがたく拝むようなことをしていては、庭を歩きながら自分がどんな美意識を持っている人間なのかが突き止められない。いつのころからか私は庭を見ながら自分の価値観を確認する作業をするようになってきたのだ。自分にはまだこの「天下の名石」のすごさが分かっていないことを知った。ちょうど閉門時間になったので、この天下人の技巧を尽くした庭を後にし、薄桃色の花びらが散る中を駐車場に向かっていった。

笠置山:門や橋は結界 
 木津川をさかのぼっていくと山あいの小盆地、笠置町に入る。のどかな山里だが、一目見て山城だったとわかる標高288mの笠置山への小径に向けてハンドルを切る。対向車が来ないことを祈りつつ登っていくと、駐車場についた。どうやら我々が朝いちばんの参拝客だったらしい。拝観料を納めて歩いていく。気分はハイキングである。
 歩き始めると山の空気に変わっていくのを実感する。マイナスイオンを濃厚に感じるのだ。と思ったら目の前に巨石群が現れた。一つは「薬師石」といい、巨石と巨石の間に岩が挟まっており、前には十三重の石塔がそびえる。虚空で挟まったその岩を「笠置石」といい、この山の呼称の起源となったという。庭園には「結界」という概念がある。それは主に橋や門で表現される。逆にいえば、橋や門があれば、それは例えば小説でいえば第一章から第二章に、演劇でいえば一幕目から二幕目に場面が移るという意味を持つ。その時点でひょっとしてここは庭のようではないかとピンときたのだ。つまり巨石と巨石の間に岩が挟まって石門の形にも石橋の形にも見えるこの空間からは、演劇でいえば次の幕に移ったということを意味するように思えてきたのだ。

磐座信仰と密教
 それを証明するかのように、薬師石の向こうには高さ15mほどの巨石に摩崖仏が彫られていた跡が見える。風雨に削られてその御姿は見えねども、光背の丸いあとははっきりと見える。タリバンに破壊されたバーミヤンの石窟のようでもあるが、ここも1331年、元弘の変が始まった折、後醍醐天皇が京都から逃れてこの山にこもり、三千の兵を集めて二十倍以上ともいわれる兵力の鎌倉幕府方を迎え討った。その際破壊されたものが、幾星霜を経て摩耗したのだという。思わず数珠を取り出して般若心経を唱えだした。
 庭園で岩を仏としてみなすのは常である。だから逆に、京都の臨済宗の寺院では仏像以上に枯山水庭園の印象が強く、それは石、特に三尊石を三尊像とみなすからである。今目の前に立ちはだかるこの弥勒摩崖仏も、仏の姿を岩に見出しているという点ではそっくりである。いや、真言宗などの密教は山岳信仰と結びついたのだが、それは我々の先祖が仏教を知るはるか以前から持っていたはずの磐座信仰、すなわち岩そのものに畏れを感じる思いと、外来の密教とがうまく溶け合ったものなのだろう。
 笠置寺のホームページにはこれを「巨石を御本尊とおまつりする笠置寺は、弥生時代には、岩そのものが神となり、(中略)山岳信仰の修行場となりました。」としているが、弥生時代どころか縄文時代からこのような巨石は磐座信仰の対象となってきたに違いない。
 さらに進むと12メートルの巨岩に9メートルほどの彫り跡がはっきり確認できる伝虚空蔵摩崖仏が我々を待っていた。元弘の変でも残ったこの摩崖仏の「虚空蔵」とは無限の智慧を意味する。密教の興味深いのは、無限の知恵の備わっているところは「虚空」すなわち何もない空っぽの状態の蔵であるということだ

蹲と場面転換と借景と
 続いて岩と岩の隙間を、体を斜めに傾けながらくぐっていく。「胎内くぐり」である。茶室に行くまでの空間をひなびた里山風のつくりにした庭を「露地」というが、そこへの入り口には清めのための蹲(つくばい)が置いてあるものだ。山岳信仰の場であるこの山に入る行者たちは、心身を清めようにも滝や川がないため、これをくぐることで、母親の胎内にもどって新しい自分になり、それによって身が清められたと考えた。つまり先ほどまでの仏国土から母親の胎内に、また場面が転換したのだ。
 さらに同じような石の洞窟の太鼓石が続く。庭では場面を変えることで、この世とあの世を手軽に行き来できるように見立てることがある。夢窓疎石が西芳寺庭園を築いた時、庫裏や方丈から庭に入るところの石段を降り、池のあたりを低いところに配置したのも、この世(平地)からあの世(低地)へ場面が移ったことを意味するが、ここは胎内に戻ることで現世から前世、または来世に行くのを意味しているようだ。
 そのうち広く開けた場所に出た。周辺の山々が美しい。庭では遠くの山を庭の一部に取り入れる「借景」という概念が基本だが、ここは360度近く借景である。いや、我々が歩いているところも借景の中なのかもしれない。そのうち秋ならば赤や黄色の紅葉が美しい谷間についた。紅葉狩りだけでなく、一帯は季節と時間帯によっては雲海も楽しめるらしい。

自然と人為のベストな組み合わせは?
 歩きつつ、ふと朝鮮半島の庭を思い出した。庭園文化が日本ほど発展してはいない朝鮮半島ではあるが、それは朝鮮民族の自然観によるものだ。彼らも例えば醍醐寺の美しさを認めはするが、それを自然の美しさとは思わないだろう。むしろ岩々や水、木々を権力者の命令のもとに配置しなおし、山水を再構成するという、自然に対する傲慢さを感じるらしい。そもそも庭園とは自然物なのか、人工物なのか。京都の庭を見てきて、この笠置山にたどり着くと、こうした「朝鮮民族的見方」に納得している自分がいることに気づいた。伝統的朝鮮民族なら山水を再構成するような不遜なことはせず、自ら山や川に赴いて、景色の一部になるだろう。「あなたも景色の一部」。これは小川治兵衛が作庭した無鄰菴の小さなパンフレットに書かれていた言葉そのものだ。
 しばらくすると山門に戻った。一周した感想は「やはり庭だった」ということだ。庭の三つの要素のうち、ここには水はない。しかしやはり「庭以前の庭」、つまり「庭」というコンセプトが固まる、夢窓疎石よりはるか以前の庭の形がこうだったのではないかと思えてならないのだ。庭が自然物と人為のコラボレーションとするならば、ここは巨岩や木々をコースにし、場面場面にメリハリをつけて見せるという意味で極めて「庭的」な空間だ。欧米の庭園が理想郷たるエデンの園を模したものだとするならば、日本の庭も桃源郷や浄土などの理想郷を三次元化したものだ。とするならば神仙思想や仏教を受け入れる以前の我々の理想郷こそ、岩や水、木々に生命のありがたさと同時に畏れを感じ、奉ってきたこの日本の山河ではなかったか。
 京都は日本らしいと思うのもよい。ただ京都文化の多くが外来文化の和風化したものである。中国庭園は何もないところに築山を築き、水を引いて滝を落とし、奇岩怪石を並べてその間に洞窟を造る。一事が万事人工的で、自然の要素はあまり感じられない。自然1:人為9ぐらいだろうか。そしてその遺伝子が感じられるのが自然に「手を加えすぎた」かもしれない醍醐寺三宝院だろう。そこは自然4:人為6ぐらいか。そしてそれ以前の我々の先祖たちがいかにして自然と折り合いをつけてきたかを教えてくれる、「庭以前の庭」としての笠置山の岩々、そして木々に、軍配を挙げたいと思う。
 ただ庭園というのは季節や時間帯、天候によって、そしてその時の自分の気持ちのあり方によって、どうとも見えるものだ。今後も庭を歩き続け、自然と人為の最適な比率を探すと同時に、自分の価値観がどのように変わっていくかを見ていきたいと思う。(完)


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