見出し画像

司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く

なぜ戦国の東海道か
 子どものころからよくNHKの大河ドラマを見てきた。第一作が1963年、すなわち東京五輪の前年の「花の生涯」という幕末を舞台にした作品という。扱う時代で最も多いのは戦国時代で次は幕末・維新であるのは周知の事実だが、特に信長、秀吉、家康の「三英傑」が活躍する戦国時代はほぼ三年に一度は取りあげられてきた。
 関東と関西を結ぶ東海道はこれまで何度も歩いてきた。「三英傑」の故郷でもあり、活躍してきた場でもある。その中でも大河ドラマの原作者として六回も名を連ねる司馬遼太郎の「国盗り物語」「新史太閤記」「覇王の家」を中心に関連する場所を歩きつつ、東海道とは、戦国とは、そしてそれを大衆レベルで楽しむ昭和の日本人とはなんだったのかについて考えてみたい。
 なお、特に今回はこの三人のうち二人以上が同時に生きていた1598年までにフォーカスし、秀吉没後の関ケ原および大坂の陣については軽く流すことにする。

濃尾平野を一望する清洲城と実利第一の信長像
 名古屋城から10㎞あまり北にある尾張清洲城を訪れた。当時「那古野城」と呼ばれていた名古屋城から若干二十歳の若者が城主としてこの城を拠点とするためにやってきた。「うつけ」として、「冷血漢」として、はたまた「合理主義者」として描かれがちな織田信長であるが、ここは信長の出世の第一歩を踏み出した地である。司馬さんは那古野時代から清洲時代の信長をこのように描写している。まず鷹狩について、信長は
「(鳥を獲ればよいだけのものではないか)とかれはおもうのだが、守役の平手政秀などはその形式にうるさくこだわった。」
 とある。平手政秀は形式を重視する中世の人間として描かれているが、「実利第一」という実利主義の信長から見れば頑迷固陋な年寄りにしか見えなかったのだ。今でいうなら契約書に印鑑などいらぬ、各種招待状はSNSで十分、ご祝儀や香典も水引には水引などいらず、スマホで相手の口座に送ればいい、というようなものかもしれない。
 ところで城郭マニアの端くれとして、私は清洲城に興味をもてなかった。というのはこの城跡は近代に鉄道を通したために跡形もなく破壊されており、現在見られる天守閣めいたものも1989年に空想によって建てた模擬天守であり、張りぼてにすぎない。そもそも清洲時代の信長、いや日本人は天守という発想すらもっておらず、通説に倣って日本で初めて天守を建てたのが信長だとすると、それは1579年ごろに建てた安土城だからだ。
 とはいえこの「なんちゃって模擬天守」を歩きながら思った。年末の夕方だったが、それなりに観光客はいた。彼らがここに来た理由は、おそらく天守らしきものがあるからだろう。日本人にとって城=天守閣という公式は根強い。これが単なる鉄筋コンクリート三階建ての殺風景なビルだったら、私のような物好き以外は来なかっただろう。そうすればここを運営する清須市も財政上困る。史実云々よりも城址公園運営という実利である。
 ところで司馬さんは信長が上級の身分である武士らしからぬ風体で腰に袋をぶらぶら下げていたのを笑われたときの信長の言い草が面白い。
「腰に袋をぶらさげておけば、いつでも食べたい時に柿が食えるし、石を投げることもできる。便利である。便利だからそうするのだが、世間ではそういう便利が馬鹿にみえるのであろう。」
 今でいうなら、ビジネススーツなどやめて、ポケットがたくさんついた作業着ほどよいものはないということになる。司馬さんの解釈で面白いのは、プラグマティスト信長をうつけ扱いする世間のほうを、信長というキャラクターの口を借りて馬鹿扱いしているということである。
 史実にそぐわねば天守の再建が困難な平成になってもこのような天守もどきをなりふり構わず建ててしまった市民には、皮肉でない喝さいを送りたいと思うようにもなった。私も丸くなったものだ。令和の今、ハコものの維持でどの自治体も苦労しているからである。
 模擬天守の最上階から名古屋のほうを眺める。見渡す限りの濃尾平野である。その日は名古屋城までは見えなかったが、ずっと向こうまで見渡せる。この肥沃な土地が信長を、そして秀吉を生んだ。司馬さんはこの地形に絡めて信長の戦術をこう述べている。
 「信長は 一望鏡のように平坦な尾張平野で成長し、その平野での戦闘経験によって自分をつくりあげている。尾張は道路網が発展しているため 力の機動には うってつけ だが、一面、地形が単純なため、ここで育った信長は山河や地形地物を利用する 小味な戦術思想に欠けている。」
 
 まむしの道三の伝えたかった「芸」
 ところで模擬天守から川を越えたところに信長と妻の濃姫の銅像が建てられている。濃姫の父は「まむし」のあだ名を持つ美濃の斎藤道三である。伝説では油売りが下剋上の世にしのぎを削りあって一国一城の主にまでなったという。この道三が「婿殿」信長の能力を認めた。司馬さんは信長に手紙を書く道三の心境を、このように書き綴っている。
「自分の人生は暮れようとしている。青雲のころから抱いてきた野望のなかばも遂げられそうにない。それを次代にゆずりたい(中略)老工匠に似ている。(中略)その「芸」だけが完成し作品が未完成のまま、肉体が老いてしまった。それを信長に継がせたい、とこの男は、なんと、筆さきをふるわせながら書いている。」
 戦国の世を生き抜いてはきたが、志半ばで老境を迎えていた道三。この男が凡庸な息子ではなく、血縁はつながっていないとはいえ「同じ匂いのする」隣国尾張の小領主に継がせたかったものは、おそらく形式にとらわれず実を取るプラグマティズムだったのだろう。それを司馬さんは「芸」としている。道三の目に狂いはなかったことを証明したのが1560年に起こった桶狭間の戦いであった。
 
 今川義元の家柄
 書きながら思い出したことがある。小学校六年生の歴史の授業で織田信長を知った時、私は信長に夢中になった。常識にとらわれぬ破天荒さに憧れたのだろう。図画の時間にも信長や信長の鎧兜、織田家の家紋、安土城など、信長に関する絵を描きまくっていた。そしてその信長の「出世譚」が桶狭間の戦いである。先生にその話を講談のようにしてもらったときは、まさに血沸き肉躍る思いがしたものだ。
 しかし思うに今川義元とは名家に生まれておきながら日本史では登場するや否や殺されるという「斬られ役」でしかない。文武ともに優れた人物だったはずではあるが、本拠地の駿府・静岡市に行ってもあまりパッとしない扱いで、圧倒的によそ者にすぎない家康にお株を奪われている。この家格の高さについて、司馬さんはこう説明している。
「もし京の将軍家の血統が絶えた場合、吉良家がこれを相続し、吉良家に適当な男子がいない場合は、駿府の今川家が継ぐーという足利隆盛の伝説を、海道の士民たちはなおも信じていた。」
 ちなみに吉良家とは元禄期にあの吉良上野介を輩出した吉良家であり、現愛知県は三河に彼の菩提寺がひっそりと立っているにすぎないが、そもそも吉良家が公式的な儀礼をつかさどる「高家筆頭」であったのも、家柄の良さを同じ三河人の徳川家が認めていたからである。
 そしてそれに次ぐのが今川家であるが、そんな名家の2,3万人の大軍に立ち向かったのが尾張の小領主のうつけ殿だった。このドラマティックさに小学六年生の私も手に汗を握って先生の「講談」を聴いていたのだ。ただし十倍の差の大軍に対して信長は真正面から戦う気はまったくない。司馬さんはこう描写する。 
 「清洲城を午前二時すぎにとびだした信長が、三里を駆けて熱田明神に入り、(中略)何にてもあれ、敵からみれば旗指物と見まがう白いものを、この熱田の高所の木間々々に棹にて突き出し、おびただしくひるがえらしめよ。」
 小学校時代の先生のような、見てきたかのような描写である。ちなみにこの戦術は実数よりも数を水増しさせるという楠木正成のようなものだ。一か八かのゲリラ戦を仕掛けようとしたのである。

桶狭間ー中世から近世への戦術の変化
 桶狭間の戦いで今川義元の首がとられたとされる候補地のひとつ、桶狭間古戦場公園に向かった。児童公園のようになっており、槍を片手に立つ信長と床几に腰を下ろした義元の像が数メートルほど離れてこちらを見ていた。義元の首を打ち取った者よりも、敵の大将の所在地を突き止めた者を最大の功労者としたというが、源平合戦以来の「やあやあ我こそは…」で始まる試合のような合戦から、ピンポイントで敵将を狙う情報戦に変わった瞬間、大げさに言えば中世が近世になった画期的な戦いでもあった。この構造は米軍がビンラディンをピンポイントで殺害した今世紀と全く同じである。司馬さんは信長の戦術についてこう述べている。
「戦術家としての信長の特色は、その驚嘆すべき 速力にあった。必要な時期と場所に最大の人数を迅速に集結 させ、快速をもって 攻め、戦勢不利と見れば あっというまにひきあげてしまう。(後略)手のこんだ 巧緻で変幻きわまりない型の戦術家ではない。その種の工芸的なまでの戦術家の型は、多くは甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出している。武田信玄、真田昌幸、同幸村、竹中重治 といった例がそうであろう。」
 信玄や真田氏など、甲信地方の戦術は「工芸的」、つまり技を披露する中世的なお家芸として見ているのに対し、信長の戦いを「時は金なり」とばかりの電撃戦として見ると同時に、勝つ見込みがなければいつでも引きあげるという合理性をもっていた。
 現在の司馬さんは太平洋戦争のあまりの無謀さ、特に敗けると分かっていたなら引き上げて損を減らすという常識的な考え方ができない、いや、しようとしない旧日本軍に絶望し、日本人はもともとこんな馬鹿な民族だったのかと思い悩んだ末、見出した人物の一人が信長だったのだ。わが民族にもこんな合理的な人間もいるという事が分かったのは司馬さんにとって救いだったのだろう。ちなみに司馬さんは信長の見方としてこのように述べている。
「桶狭間の貴功は、窮鼠たまたま猫を噛んだにすぎない。と、自分でもそれをよく知っているようであった。かれは自分の桶狭間での成功を、かれ自身がもっとも過少に評価していた。その後は、骨の髄からの合理主義精神で戦争というものをやり始めた。この上洛作戦がいい例であった。「戦さは敵より人数の倍以上という側が勝つ」という、もっとも平凡な、素人が考える戦術思想の上に信長は立っていた。
 この部分を読むにつけ、真珠湾攻撃で窮鼠たまたま猫を噛んだにすぎないのに、停戦に持ち込まずにガダルカナル、アッツ、サイパン、インパールなどで連戦連敗を続け、特攻機ではじめは敵を恐れさせても同じ戦法を繰り返すので無駄死にを強いて同世代の仲間たちを殺し、ひいては国家を滅亡に導いた軍部に対する怒りを感じないではいられない。
 あるいは昭和の高度経済成長期の五輪や万博の素晴らしさを、日本の国力や世界情勢も変わった2020年代になっても完遂しようとする令和の日本とかぶると思うのは私だけだろうか。(続)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?