をはりの美学-前編

まじめで良心的なのも思想だが、不真面目で良心的といふ思想もあれば
又、質の悪いのに真面目で非良心的といふ思想もある。
私はこの第三の思想だけには陥りたくないと日々自戒してゐる者である。
これは私が書くものの中でも軽く書かれたものに属する。
いはゆる重評論ではない。しかしかういふ軽い形で自分の考へを語って
人は案外本音に達してゐることが多いものだ。
注意深い読者はこれらの中に、私自身の体験や吐息や
胸中の悶々の情や告白や予言をきいてくれるであろう。
いつか又時を経て
「あいつはあんな形で、かういうことを言いたかったんだな」といふ
暗喩をさとってくれるかもしれない

三島が物書きとしての僕の心情を痛いくらい表している
やや長文の為、前後編に分割して掲載します

終わりの美学を取り上げる理由は
最近回想する「終わりなき退屈な日常」への
アンサーなのかもしれないという考えからです
最近の世情として非日常でありますので
よけいに平凡な日常が浮き彫りになって、
そのエンボスはくっきりと視界に入ってきます
終わりがあるからこそ僕が存在する一瞬一瞬が輝く、
厳密に言えば終わりを意識するかしないか

全てが一回性の人生のはずなのに
認知、認識という無意識の軸足があらゆる事象に対して
等間隔にピボットする事により
その距離感を一定にしてしまっています
人間の慣れは怖いもので無意識に慣習化するきらいがあります
一回性を取り戻すためには終わりという結末が
必要不可欠なのではないのでしょうか

これは決して非日常が素晴らしいとか退屈な毎日に風穴を開けるとか
そういう話ではなく、”平凡な日常を輝かせるために”
いえ、”輝いている日常に気が付くために”という話です

後半に続きます


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