をはりの美学-後編

前回の続きです
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僕の思想ばかりでもあれなので引用を出します

一回性の重要性を能楽に喩え
革命の完結を死という”終わり”に見出している言葉があります

あれが何故素晴らしいか
それは彼が五・一五事件を日本の能と照らし合わせ、
その本質を論じたところにある。
能とは、戦国の武士達があらゆる芸能を蔑む中
唯一認めてきた芸事だ。
それは数多の芸能の本質が既に、決定された物事を
繰り返しうるという虚像に過ぎないのに対し
能楽だけはその公演をただ一度きりのものと限定し、
そこに込められる精神は現実の行動に限りなく近しいとされているからだ。
一度きりの人生を革命の指導者として終えるなら、
その人生は至高のものとして昇華する。
英雄の最後は死によって締めくくられ、永遠を得る。
パトリック・シルベストル 「国家と革命への省察 初期革命評論集」より

難民を結線した個別の11人事件
かのクゼ・ヒデオは革命をこう語っている

水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる
矛盾した秩序、強者による搾取、腐敗した構造
だが最もがっかりさせたのは人々の無責任さだった
自分では何も生み出すこともなく、何も理解していないのに
自分にとって都合の良い情報を見つけると
いち早くそれを取り込み踊らされてしまう集団
ネットというインフラを食い潰す動機無き行為が
どんな無責任な結果をもたらそうとも何の責任も感じない者たち
この革命とはそういった人間への復讐でもある

クゼも最後は死によってその革命を終えている

死は究極の終わりなので極論なのですが
確かに一回性を強く意識できる事象でもあります
でももうちょっと生きながら終焉を意識できないものかと模索したいです

ちょっと視座を変え”終わり”に必要な
単一性(一回性)という視点で見てみます
これは単一性(一回性)の消失とも言えます
全ての事象に当てはまらないかもしれませんが
「情報は共有し並列化した時点で単一性を消失する」という
情報の特性にあるのかもしれません

オリジナルが不在な情報はそれ故に模倣者が出現するという
パクツイ・バズ投稿などの
ミーム(模倣子)伝播の事象例がわかりやすいです

情報はオリジナルを消失しても勝手に独り歩きを始める
最初に誰が発言したなどは誰も興味がなく勝手に拡散を始める
(ほとんどの人がソース確認されませんよね?)

最早、情報は発信・共有した時点で単一性を失ってしまう
オリジナルを保持しようとアウトプットしなければそれはそれで
その情報は存在しなかったというパラドックスを孕んでいる

情報は所有することに意味はなく共有することでしか価値を持たない
情報の民主化により情報の価値は限りなく矮小化され
限界効用もかぎりなくゼロになっていきます

その中で情報を発信することのハードルは下がり
クゼの言う”低きに流れる人の無責任”から模倣子は伝播してゆき
同じ日常を形どっているのではないのかなと思います

オリジナルを無くした独り歩きを始めたミーム(MEME)模倣子
個別では無辜の民である私(ME)が複数集まり(MEME)として
悪意なき無辜の怪物へと変容する

悪意なき無辜の怪物は監視という
パノプティコンからスペクタクル(見世物)を創り出し
”見られる者”と”見る者”の総体となり
ベンサムの最大多数の最大幸福の功利主義の下、
その対象を自らの一部から取り出し
終わりなき永久機関へと発展していく

無責任だが無辜の民である個々が
意識せず見る(幸福)の為に見られる(被害者)を
無意識的に役割実行し繰り返す
その幸福も緩やかなカエルが茹で上がるだけの幸福でしかありません
なのにもかかわらず、真綿で気づかないうちに首を絞められ
死んでいく被害者

最早まともじゃありませんが、なにがまともだというのでしょうか?
吉田松陰の如く「諸君狂いたまへ」というのが
現代における処方箋なのかもしれません

三島も著書で言っています

狂気が始まる時、恐ろしいことはこの世界の外観は、
依然同じように見えていると言うことです。
駅の前にはタバコ屋があり、そのタバコ屋の赤電話には
街路樹の緑の影が差している。
正気の世界はプールのとび板の端のような危険な場所で
終わるのではありません。
それは静かな道の半ば、静かな町の四つ角のところで、
すっと陽炎のように消えているのです。
あなたは大丈夫ですか?

終わりなき日常へのカウンターは正気の終わりで完結する

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