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エッセイ|杏仁豆腐、その後(林恭平)

 お友達と臨んだ初めての文フリ出展。人海戦術によるてんやわんやの校正作業まで終え、ギリギリ崖の上を行くように印刷会社へと原稿データを代表者が提出してくれる頃合いだった。巻末に各自のプロフィール文をねじ込めないかとダメ押しの原稿依頼がグループラインに展開されたのを、私は寝不足の通勤電車で確認した。
 ゼロから合同誌を作る大変さを経験し、達成感、虚脱感で考えは回らない。でも急速に膨らむ表現欲求と、他者からの目線に対する過剰な自意識との折り合いをどうつけるか、脳の離れた部位が交互に点滅するのを感じる。他のメンバーのSNSアカウント名や文章遍歴をまとめた自己紹介文が集まる中、私は恥じらいと照れが上回って、
「おいしい杏仁豆腐の情報、待ってます」
 というセンテンスとメールアドレスだけを載せてもらうことにした。
 今回仲間と作った合同誌『群島語』においては、共同制作特集と銘打って班分けしたメンバーで熱く語り合って悪戦苦闘した。個人で書くのとまた違った筋力が必要で、自分なりに全力投球して出し切った感があった。もはや誰かに主張したいことって、「杏仁豆腐好きです」ぐらいしか残ってないんじゃないか。思えばコーナー企画として「また腹がへるだけ」という食にまつわる文章募集を提案したり、グループラインでひたすら食べることの話をしたり、どうやら自分は他人より食い意地が張っているらしいと確認する制作期間でもあった。
 無事に出来上がった『群島語』をけっこうな数売ることができたあとも結局、私のメールアドレスに有力なタレコミは届いていない。けれど同じ班で文章を共同制作したAさんから、
「本物の杏仁豆腐を知っているか」
 と、ある店を教えてもらった。欲求や願望はこまめに口にしたり文章にする方がいい、と話には聞くが、まさに言ってみるもんだなという感じ。
 近くまで行く用事があった土曜日、私は新木場の駅に初めて降り立った。年季の入った倉庫の一角がリノベーションされ、インテリアや各種雑貨、立派な観葉植物がお買い物でき、本格的な薬膳料理を提供するカフェも併設される、おしゃれの極地みたいな場所があった。
 道のりをグーグルマップで予習済みの私は最短距離で進む。駅前の幹線道路から少し入った路地に出現する大きな倉庫。一刻も早く杏仁豆腐を食べなければいけない私はもう競歩状態なのだったが、目の前を別の一人が歩く。倉庫街をラフな服装で進むその人はどう考えても、同じおしゃカフェ目的だろう。厄介なことに、店の外観をスマホで撮影し始めた。野生のインスタグラマーだった。
 古めかしい倉庫の壁面には植物が巧妙に美しく配され、改装済みの一階部は大きなガラス戸で縁取られている。フォトジェニックな様子を撮影するその前を横切る野暮な真似はしない。私は立ち止まって待つ。でもなかなか撮影が終わらない。そんなバリエーション撮れなくない? ちらちらと様子をうかがうが、インスタグラマーは両手でかざしたスマホの画面しか見ていない。実はお目当ての店の手前に、別のカフェもあったので、少し戻って店頭のメニュー表を眺めて余裕をかまして、それでもやっぱりこっちの店にしようかなという演技で倉庫に戻ってきても、依然として撮影中だった。どんだけ撮るんだよ。さっさと入店せい、と念じたテレパシーがやっと伝わり、その人が進んでくれ、私もあとに続いた。
 昼時の店内は満席に近い。でも天井の高い空間にゆったりと席が配されたカフェは落ち着きがあった。素敵な雑貨や、たくさんの観葉植物を売るエリアとシームレスにつながり、豊かな空間だ。
 席の右隣のカップルも、左隣の先ほどのインスタグラマーも薬膳カレーを食べていて、そちらが人気メニューだったか、と思ったが、私の注文した本日の定食の八丁味噌の麻婆豆腐も優しい味わいでうまかった。不思議な紫のつぶつぶの和え物やにんじんしりしりの付け合わせも嬉しい。百三十五穀米くらいありそうな複雑な色味のごはんも進んだ。
 そうして両隣の薬膳カレー組はさっさと食事を終えていたが、私のメインはあくまで食後にあるのだった。私の席にだけ、杏仁豆腐と和漢チャイが届く。人々は目もくれないけれど、私だけが真実を知っているのだと、ひそかに勝ち誇る。
 Aさんのおすすめしてくれた杏仁(ほんしつ)は豆腐というにはあまりに繊細で、どちらかというと異常高速で撹拌したメレンゲがうっかり固化してしまった白、という感じ。ふわふわだった。ミルキーな味わいがいい。桂花、つまりキンモクセイの蜜が味の決め手のようだ。ナツメやクコの実がアクセントとなる。和漢チャイの生姜やシナモン、その他奥行きのある風味が杏仁とよくマッチするので、豆腐を口にしチャイをすする、往復運動に夢中になった。
 ハッと気づくと、両隣のカップルとインスタグラマーが消え、まったく別の人たちがいる。少し意識がトんでいた。変な粉でも入っていたか? それくらい素敵な体験でした。


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