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航空自衛隊知念分屯基地から人骨が出た!

昨日、RBCスペシャル『池上彰も知らない慰霊の日のこと』が放送されていました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

毎年、沖縄では6月23日は、沖縄戦等の戦没者を追悼する日と定められています。沖縄県および沖縄県内の市町村の機関の休日でもあります。

番組では、池上さんが、戦後78年、戦争が残したものと現在も向き合い続ける人々から話を聞いていました。

池上さんは集団自決が起きたチビチリガマで、自決の実相を取材していました。

ガマは沖縄の方言で自然にできた鍾乳洞や洞窟のことです。

私は小学生の頃、社会見学で『糸数アブチラガマ』を訪れたことがあります。ガマは、地元住民の指定避難壕であり、また日本軍の陣地として使用されていました。

後に病院としての役割をも持ち重症患者が多く搬送されてきました。避難住民と重症患者が入り乱れる混沌とした地獄絵図のようだったと言われています。

全長270メートルのガマは、当時、電気が通っていなかったので、真っ暗闇の空間でした。戦争で犠牲になった方々は、何を想い、亡くなっていったのでしょうか。

さらに、番組では、糸満市米須の魂魄(こんぱく)の塔に隣接する鉱山周辺で、遺骨収集に取り組む活動を取材していました。

その取材には、背景があります。それは、沖縄戦戦没者の遺骨が混じる可能性がある土砂が、辺野古基地の埋立に使われるという報道があったからです。

この問題については、採掘する権利である鉱業権と戦没者の尊厳を守る為の遺骨収集とは、別次元であるという意見もありますが、私は、先人への敬意は忘れてはいけないと思います。最近の人は、どうだか分かりませんが、そう簡単に割り切れるような話ではないと思います。

私は、遺骨が混じる可能性のある「いわくつき」の土砂を、決して辺野古の埋立に使用してはいけないと思います。なぜなら、埋立られた後、将来に渡って、辺野古基地の下には、戦没者の遺骨が埋まっていると、言われ続けるからです。

基地で働く従業員や米軍人も、誰だって嫌な気持ちを持ち続けれながら、仕事をしなければならないので、不憫でなりません。

実は、私が、そのように感じるようになった「きっかけ」があります。私が、防衛局に勤務していた頃、自衛隊の財産担当者から、ある一本の電話がありました。

「航空自衛隊知念分屯基地から人骨が出てきました。仲里さん、何とかしてください!」と担当者の悲鳴に近い叫びでした。

私は、直ぐに現地へ向かい、担当者から、詳しい説明を受けました。

その内容というのは、旧地主の求めに応じて、航空自衛隊知念分屯基地の土地を返還しました。旧地主は、その土地を県外の新地主へ売却。新地主は、自宅を建築するため、土地を整地したら、人骨が出てきたとのことでした。

返還した後の話なので、正直言って、自衛隊とは関係ありません。本来であれば、旧地主と新地主の間で解決すべき問題です。ですが、旧地主は、現に国と賃貸借中の知念分屯基地の土地を所有していることから、
自衛隊の担当者は、無下に断ることができなかったのでしょう。
無下に断ると地主の心証を悪くし、今後の自衛隊運営に支障をきたすので、私に、私に問題解決を依頼してきたのです。

その人骨は、戦争で亡くなったものなのか、そうでないのかは分かりませんでした。そこで、私は、南城市へ遺骨を引き取って欲しいと連絡を取りました。しかし、南城市から、誰か分からない無縁仏は、簡単に引き取れないとのことでした。

防衛の方で、立て札や貼り紙を掲示して、写真を撮影し記録をとって欲しいと言われました。

そこで、私は、自衛隊担当者に「故人の縁故者はご連絡ください」と貼り紙の立札を設置するよう指示しました。1年間、誰も名乗り出てこなければ、南城市が遺骨を引き取ることになります。

その後、遺骨の引き取り手は現れす、南城市が無縁仏として埋葬したのですが、遺骨が出てきた土地の上に、建物が建った話は、聞いていません。

知念分屯基地内には、重要文化財に指定されている第一尚氏初代の尚思紹王とその妻らの墓「佐敷ようどれ」があります。
先の戦争では、旧知念村では村内での死亡者が約53%でした。

激しい地上戦が繰り広げられた沖縄の土の中にはいまも多くの戦没者の遺骨が眠っています。

今の日本の平和は、先の大戦で亡くなった方の犠牲の上に、存在しています。

ウクライナ侵攻が続いていますが、一刻も早く取り戻して欲しいです。
沖縄の慰霊の日を通して、平和の尊さを感じている今日この頃です。

最後までご覧いただきありがとうございます。
出会いに感謝です。

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