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遊びの社会学2022・実践記録No.2

【先週のふりかえり】

全員がリフレクションシートを提出し、ひとつ一つ自分の遊びと照らし合わせて色々考察されていたのがとても良かった。
そこから問いや発見が出てきたので、それを名前を伏せて共有。

【発見されたものを整理してみる】

出された「発見や問い」を私なりに整理した↓

  • 子どもと大人だと遊びが違っていた

  • 田舎と都会だと遊びが違っていた

  • 「楽しい」と遊びになるのでは?/感情によって遊びは変わる?


【遊びを「社会学する」】

社会の中で一定の法則性を見出して、社会の仕組みや働きを解明する
「子どもと大人の遊びは違うと思ったけれど、でも「遊ぶ」と言っている以上、何か共通の法則はないか?だろうか」という問いを投げかけてみる。

さらに具体例として「鬼ごっことウィンドウショッピングに共通することはなんだと思う?」と投げかけてみた。

→皆上を向いたり、顔を見合わせたり、その問いに向かい始めている様子が伺えた。

【遊びの構造】

西村清和 (1989)『遊びの現象学』勁草書房から「遊びの構造」について話をする。
遊びには「あいだ」と「動き」があること、またそれは「安心感」に支えられているということを具体的に
ジェットコースター、旅、劇場、スポーツなどを例に挙げていく。

→所謂レクチャーだが、問いを共有してから話をすると
「なるほどー」という感覚が伝わってくる瞬間が多い。

→実際に「いうこと一緒・やること一緒」というゲームをして、
「できるか/できないか」という「あいだ」を「動く」体験をしてもらうと、「できる」に偏っているゲームは面白くないということに気が付く。
人は「できると楽しい」と思っているけれど、実はできない、けれどできそうなものにチャレンジしている時、笑っちゃってるよね。
でも、もしこのゲーム失敗したら単位落とすと言われたら、ちょっと笑えないでしょ?
あいだと動きと安心感の関係が実感できる。
このゲームは狭い教室でもこれが実感できるので、毎回使っているが
ハズレたと思った回はない気がする。

→さらに「安心感」がないと遊べないということを深めていくときに、ジェットコースターが10回に1回レールから外れるとわかっていたら、遊ばないでしょ?というような極端な例や、砂場で遊んでいる幼児がチラッと「お母さんそこにいるでしょうね?」と一瞬確認すると遊び続ける様子などを例に話すと、
「遊べる/遊べない」の要素になっていることが理解できたようで、笑いや頷きが多く出ていた。

【遊びの分類】

リフレクションシートで「遊びにはたくさん種類があることがわかった」というようなことが書かれいたので、それらはどのように整理されているのかについて、話題を切り替えて
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』から「遊びの分類」について話を進める。

面白い反応だったのは「ミミクリ」という言葉がEテレの「ミミクリーズ」という自然の中の似たものを探すというテレビ番組の「意味がわかった!」というリフレクションが3つあった(12人だから4分の1の割合)。
幼い頃の耳に馴染んでいるフレーズが掻き立てられるという瞬間というのは面白い。
きっと「模倣の遊び=ミミクリ」というのはきっと定着しているに違いない。

【ワーク1】

・ディズニーランド
・サッカースタジアム
・劇団四季
・鬼ごっこ
の中から1、2個選んで3、4人でそのどんな遊びの要素(分類)があるのか、またどこに「あいだ」と「動き」はどこにあるか話してみましょう。

→どこに「あいだ」と「動き」があるのかというのは、なかなか難しい問いだったということがわかる。
例えば、鬼ごっこの主になる構造は「捕まるか/捕まらないか」のあいだを揺れ動き、走り回ることだと思うが、
「自由/不自由」「助ける/助けられる」というような「あいだ」が出てきたりした。
そのような場面がないとは言い切れないが、現象を捉えて構造を見出すということは、そうそう簡単なことではなく、現象をブツ切れに見てしまうことがわかったので、その遊びそのものを支える構造とは何か、ということへ絞って思考できるように、色々工夫が必要だと思わされた。

【次回に向けて・所感】

「あいだ」と「動き」という構造の話は、
単語としてはとてもシンプルな言葉を使っているが、
もともと引用している書籍は『遊びの現象学』であるし
やはりやっていることは現象学的なので、現象を捉えるということができるというのは難しいし、時間をかける必要があると感じた。
もう少し回数を重ねた後に、スポーツ種目の構造の話をしようと思うので、
新しい視点が持てた!というところに昇華していくにはどういう組み立てをしたらよいか考えたいなと思う。

来週は「おもちゃ」の話をする予定。
おもちゃで遊んでいる実際の子どもの様子を見ると色々わかるところがあるので、息子のビデオを使うのだが、もう5年も前の姿になってしまって、観察よりも懐かしさが前に出てくる。
いまは今で本当に可愛らしく、色々発見もあるのだが、
あのまだ喋れない彼を見ながら私が「何が楽しいのか」と自身を重ねて見ていた彼にはもう会えないかと思うと寂しさもあったりする。

どうにか子どもに自分を重ねて見守ることができる大人になってくれるように、子どもの姿の見方も伝えられるようにしたいし、
これが、子ども中心で子どもを守る社会を作る一歩だと思って講義の準備をしたい。


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