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犬を飼うということ

昨年の10月から犬を飼い始めた。メスのミニチュアダックスフンド。飼い始めた当時は生後3ヶ月の子犬だった。犬を飼いたい、というのは夫婦共通の思いで、犬が家にいる生活について、妻とは結婚前から話していた。妻は子供の頃に犬を飼っていて、犬を飼った経験がない私よりも特に犬を飼いたい思いが強かった。しかし、妻は日本に着たばかりで日本語もままならず、息子が産まれたこともあって、犬を世話するのは無理だろうと何度も先送りにしてきた。

結婚してからおよそ5年、ようやく犬を我が家に迎えることに決めた。犬を飼うということには大きな責任が伴う。犬を飼うことは人間の赤ちゃんをもらうようなものだとよく言われる。実際そうだと思う。私はその責任の重さから、そろそろ犬を飼おうという妻の提案を何度も先送りにしてきた。

しかし、ある時、子育てはこれからずっと続くのだし、忙しい生活が変わることはない。このままだとずっと犬を飼わないままになってしまうのではないかと思ったのだ。妻と話し合い、息子が家にいるのに夫婦のどちらかが不在の時間を1日30分作ってみることにした。2週間それを試してみて、それでも息子の世話に支障が出なかったら、本格的に犬を飼うことを検討しよう、ということにした。結果、なんとか毎日30分を捻出することができた。それだけ息子が成長してくれたということだ。息子は幼稚園に通うようになり、トイレも自分でできるようになり、数十分なら親が目を離しても一人遊びをしてくれるようになっていた。むしろ、これまでかまい過ぎだったのかもしれないとすら思えた。

さて、どうして愛犬について書きたくなったのかというと、下記の匿名ブログを読んだからである。

記事を読めば、多くの人が筆者とその飼い犬の心配をするだろう。飼う前にもっと犬を飼うことの大変さについて考えられなかったのか。実際にはてなブックマークや記事への反応にも、そういったコメントが散見される。私もそう思う。しかし、それと同時に、自分の経験から、ある程度「えいや」の勢いがなければ、犬を飼うことはできないよな、とも思った。この匿名ブログの筆者は確かに思慮が足りなかったのかもしれないが、純粋に犬が好きで、犬を飼いたいという気持ちには、自分と同じものを感じたのだ。

たかだか5ヶ月程度犬を飼っただけの私に、偉そうなことを言う権利はない。だが、犬への想いを持っている人に対して、責任を持てという教訓だけが残ってしまうことに、違和感があった。私なりに犬を飼うことに対しての考えを記しておきたいと思う。

犬の世話とは何なのか

匿名ブログの中で、筆者は子犬の世話が想像以上に大変だったことを記述している。基本は犬はクレートに入れておいて、トイレのときだけ出せば良いのだと思っていたのに現実は全く違ったという。

この想定は普通に考えて、とても甘いと感じられるだろう。しかし、下手に犬の飼い方を勉強すると、このような思考に陥ってしまうのも、私はなんとなく理解できる。多くのハウツー本には、確かに子犬はトイレトレーニング以外の時間はケージに入れて飼うように書かれているし、クレートトレーニングも行うように書かれている。このあたりの話をごっちゃにすると、クレートに入れっぱなしで良いという印象を与えてしまうこともありうると思う。

しかし、このような思考に陥ってはいけない。「どのように世話をするのか」ばかり考えると、このようにハウツー本にある個々の世話が犬を飼うことだと思ってしまう。だが、一番大切なのは「犬がどのような生活を過ごすか」というイメージである。世話というのはその生活イメージを実現するための手段に過ぎない。

例えば、犬は散歩をするのが大変だとよく言われる。しかし、散歩することそのものが大切なのではない。犬のストレスを発散し、適度に体力を消耗させ、犬が快適に屋内で過ごせるコンディションを整えることが大切なのだ。極論、家や庭が広くて、毎日ストレスなく過ごせているなら、散歩は必須ではないだろう。

改めて記事を読み返すと、筆者が犬の世話に振り回されてしまって、どのように犬との生活を過ごしたいかというイメージが具現化できていない。そもそも、せっかく犬を飼うのに、トイレトレーニングができるまでクレートに入れておく、という生活で良かったのか。在宅していない時間、一日中クレートに入れておくような生活に犬が耐えられるか考えたのだろうか。犬がいない生活に慣れてしまって、それを維持したまま犬を迎え入れようと、考えが凝り固まってしまってはいないだろうか。

我が家では「リビングで常に静かに快適に犬が過ごしていること」と「犬が家族として側にいること」を目指している。そのために以下のことを心がけている。

<リビングで常に静かに快適に過ごすために>

  • ケージは使わない

  • トイレは決められた場所でできるようにトレーニング

  • リビングに誤飲するようなものを置かない

  • テーブルに上がらないように椅子は常にテーブルから離す

  • 目を離すときはキッチン、子供部屋の間の扉とゲートを締める

  • 留守番しても鳴かないように一匹の時間をつくり、寝室も人間と分ける

  • ストレスが溜まらないように1日15分程度散歩する

  • 極力1日1回は日向ぼっこをさせる

<家族として側にいるために>

  • 休日は家族で犬が遊べる公園に行く

  • 家に来たお客さんにフレンドリーになってもらいたいので社会化をする

  • 移動中静かにできるようにクレートトレーニングをする

  • 旅行につれていけないときはリビングフリーで預かってくれるブリーダーに預ける

  • 家族団らんの輪にいつも犬を入れるが、常にベタベタはしない

こうして、犬との生活、犬が一匹で過ごすときの生活をイメージし、そのために必要なしつけや世話をしていく。そうすると、世話としつけの意義がわかり、それが犬との生活の一部だと思えてくる。苦労がないと言えば嘘になるが、少しずつ犬が成長して理想の生活イメージに近づいてくることに充足感を感じられる。

そして、犬を迎え入れたら、基本的にそれまでの自分の生活を変えなければならない。少なくとも、しつけが未熟な子犬の間は夫婦どちらかは在宅勤務しなければならない。無理ならば両親に来てもらわねばならない。息子にリビングにおもちゃを持ってくるときはテーブルの上で遊ぶように徹底しなければならない。他にも色々な想定外があった。しかし、それは自然なことなのだと受け入れられるようにもなった。

犬を飼うようになって、それまでの生活を維持したままというのはかなりの無理が生じる。犬を迎え入れるということは、犬に合わせて生活を変えていくことであり、それを楽しむことなのだ。件の記事の著者について言えば、独身だから犬を飼ってはいけない訳ではない。しかし、犬を飼うために自分の生活を変える必要があるのだ。仕事は時間に融通がきくものに変える必要があるだろうし、互助会やペットシッターなどの手も借りなければならないだろう。

そもそも、誰もが犬を飼えるような社会になっていないのがおかしいという意見もあるだろう。スウェーデンのように動物福祉を充実させている国は存在する。しかし、それは社会の課題であり、もっと広い支援を得て、長期的に取り組まないと解決できない。日本で犬を飼うならば、日本の法や制度を理解し、その中で最適解を探すのが健全だろう。

犬を飼うことは想定外の連続である。大切なことはそれに柔軟に対応できるようにしておくことだ。あらゆるリスクを想定して、犬を迎えるまでに全てのグッズを揃えることも、飼い主としての全てのスキルを習得することもできない。飼い主は犬と共に成長していくしかない。このあたりは人間の子育てと似ている。気構え過ぎず、起こったことにきちんと対応していくことが大切だ。

ハウツー本やYouTubeの解説動画は探せばいくらでも出てくる。犬を飼ってみたいと思ったら、じっくり色々な情報に触れて、具体的な自分なりの生活イメージを持って欲しい。そして、実際に犬を飼っている人や、ペットシッターの人に話を聞いてみることをお勧めする。勉強するほど、犬の飼育について多種多様な意見があることが分かるはずだ。子育てと同じで、ある程度共通のガイドはあるものの、生き物の育て方に模範解答はない。犬の生活イメージを、自分で具体的にせねばならないことが、身にしみて感じられるようになると思う。

また、そうして情報を集め、色々な経験者に話を聞くうちに、きっとペットホテル、シッター、ブリーダー、獣医師などが見つかってくるはずだ。飼い主が15年間無休で犬の世話をできるというのは楽観的過ぎる。自分の代わりをしてくれる人を、飼うまでに見つけておくことをお勧めする。こう言うと責任感が薄いと思われるかもしれないが、根性と気合で15年間務めを果たすと断言する方が非現実的だ。リアリストになり、できないことはきちんと諦めることも大切である。

犬を飼うとはそもそもどういうことなのか

自分で犬を飼っておいてなんだが、犬を飼うというのは不思議な行為である。子育てに似ている部分はあるが、犬はそもそも人間ではないので、人間が育てる必要性がない。それどころか、あらゆる野生動物は人間社会にとって害悪な訳で、犬の殺処分も当然のように行われている。

人間の子供は社会の維持に必要だし、将来的にお金を稼ぐ可能性が高く、経済的な投資の面から必要性を論じることができる。それに対してペットとして飼われる犬には、そういった社会にとっての必要性がない。むしろお金と手間をかけ続ける必要があり、経済的にも社会的にも、明らかに負担である。

しかし、一定数の人間は犬や動物に愛着を感じ、家族に迎えたいと思ってしまう。そして、私のように実際に家族にしてしまう。自分に似た生き物を見たとき、勝手にその生き物に愛着を感じ、家族に引き入れてしまう。

家族とは必ずしも血縁を意味しない。そもそも配偶者は他人であり、血縁のない養子をとることもある。家族は柔軟で、拡張可能な概念なのだ。これは人間を含め、一部のいわゆる高等動物に見られる一種のバグだろう。最近では、クジラを誘拐するシャチがニュースになった

盲導犬などの一部の特殊訓練を受けた犬を除いて、愛玩目的に飼育される犬は社会的に必要性がないため、日本では社会的に犬を保護するというより、犬を飼うことは個人の裁量と責任に大きく委ねられている。他人の犬を傷つけた場合には器物損壊罪が適用される。それでも、動物愛護法をはじめ、少しずつ犬の命としての権利が認められつつあるのは、私のような愛犬家からすると喜ばしい流れである。

愛犬家でない人の中には、犬を家族と呼ぶことに違和感がある人もいるだろう。だが、これだけ犬が人間と暮らしている事実を見ると、先述したように、人間には家族を拡張してしまう性質があると考えることが私は妥当だと考えている。最近はペット(愛玩動物)ではなくコンパニオンアニマル(伴侶動物)と呼ぶ人もいるそうだ。

犬と暮らすということは、家族の一員が増えるということである。人間の子供と違って、犬は成長しても巣立っていかない。ずっと世話を続ける必要がある。大人にならない子供と一緒にいるような感覚がある。子育てと学びについて、以前の記事で書いたことがある。犬との生活からも同じような学びを感じている。人間には誰かを世話することによって得られる充足感があるようだ。

人間の家族と関係が良ければ無償の愛を感じられるように、犬からも愛を感じられる。ソファに私がゴロンと横になるたびに、愛犬が私に乗ってきて、一緒にぐうたらしている。無条件の愛を感じられる。犬を飼うことの醍醐味は、こういう感慨にあるのだと思う。

現実を受け入れれば次へ進むことができる

一人暮らしで働いている人間が子犬を迎えるのは現実的ではなかったと思いました。

https://anond.hatelabo.jp/20230226161838
31歳独身女、犬を飼い始めた

この現実に気づけたことはとても大切なことだ。人間は誰でもミスをする。大切なのはそのミスに気づき、修正していくことだ。シッターでも両親でも友人でもいい。恥を忍んで犬の世話を手伝ってくれる人を探すことをお勧めしたい。また、時間の融通がきく仕事を探すのも良いのではないだろうか。

仕事は繁忙期ではなかったものの、2週間は仕事がほとんど手につかず、進
捗が遅れ職場に迷惑をかけました。

https://anond.hatelabo.jp/20230226161838
31歳独身女、犬を飼い始めた

この発言は、私には肯定的に見えた。職場に迷惑をかけてしまったことは反省すべきだろう。だが、社員は誰でも変えがきくが、犬の飼い主(家族)には変えがきかない。仕事を犠牲にしてでも家族を守るというのは、人間として当然にありえる態度である。犬を守る気持ちの現われだと思うので、その気持ちは大切にして欲しい。

人間の子供を持ったら、親は子供が巣立つまで、極論どんなことをしてでも子供を守らなければならない。犬も同じである。ただし、犬は独り立ちしない。一度犬を家に迎えたからには、飼い主は、極論どんな手を使ってでも、犬の寿命を全うさせなければならない。そこには様々な苦労が伴う。自分の生活を変えなければいけない場面も多々出てくるだろう。

だがそれでも、人間が家族を増やし、そこに愛を求めるのは自然なことだ。愛を求めることを恐れてはいけない。しかし、家族に責任をとっていくこともしなければならない。どんなに準備をして、ガイドブック片手に進んでも、目的地までの間には様々な出来事が起こるだろう。だが、その想定外の出来事こそが、旅を唯一無二の体験にしてくれる。美しい景色に出会うかもしれないし、当てにしていたバスが来てくれないかもしれない。犬との生活も、きっとそれに似ている。様々な想定外に出会いながら、フラフラしながらも、その道中を楽しみたいと思う。

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