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サブカルの創造力

ヘッダー画像はブラックホールの写真です。こちらからお借りしました。

ブラックホールは神秘的な存在です。その名を聞くだけでわくわくする。時空の平面を穿って光さえも取り込み、時間もそのなかでは歩みを止める(と考えられている)。

人間の想像を絶していると想像することができるがゆえに神秘。

「想像を絶していると想像できる」という言は矛盾だけれど、これは「無知の知」と同じ構造です。

想像を絶していると想像できるのは宇宙、ありとあらゆる存在、ひいてはぼくたち自身の存在もそうなのですが、そんななかでブラックホールは、スーパースター的な存在。神秘性が際立っています。

そのうち、サブカル的創造力旺盛な者が、ブラックホールをキャラクターに仕立ててラノベを書くに違いないと想像しています(笑)

サブカルとは、神秘性を身近に引き寄せようとする人間的営為に他なりませんから。


しかし、ブラックホールは、単に神秘的な存在に留まらない。それは科学的研究の対象です。神秘であるがゆえに、神秘を解き明かしたいという好奇心の対象になります。

その解明は、その道に疎い門外漢からすれば魔術の世界と変わらないように見えます。違いがあるとすれば、ブラックホール解明は「事実」である(と信じられている)が、言葉の意味で魔術的な世界は現実世界を構成している体系とは違った想像の体系であるということ。そして現実世界の解明においては、ミクロを解明することがマクロの解明につながるという事実です。

ブラックホールという現象を理解するには、相対性理論や量子力学といったミクロの現象の挙動が理解されていなければならない。ミクロの理解とマクロの理解、方向性は一見正反対のようだけれど、実は「同じ(ことの)理解」に収斂されるという神秘。ブラックホールは、そうした理解の端的な一点であるがゆえに、スーパースターなんですね。

その点、想像の体系はミクロとマクロとが収斂するというふうにはできていません。そういう風を装ってはいるけれど、厳密性が必要とされる部分が想像力(空想力)に置き換えられている。この「置き換え」は科学(信仰)の世界では禁忌事項です。

禁忌事項を空想の中で楽しむことができるのが、サブカルの魅力と言っていいでしょう。


しかし。
そうした楽しみ方に限定するのはもったいないのではないか。

宇宙の現象はミクロとマクロが収斂していくことが明らかになっている。ここは20世紀の科学が獲得した大きな成果です。ミクロとマクロをつなぐ過程は、ブラックホールの場合は物理現象なので誰もが理解できるはず――としか言えないから魔術的――のものだけれど、同じこと、すなわちミクロとマクロの収斂が人間という存在にもあるのだとしたら、ここの解明は、とてもじゃないが厳密性をもってしては歯が立たないだろうと想像することができます。

そして、人間は宇宙の一部なのだから、宇宙に当てはまる原理は人間にも当てはまると考えるのが順当でしょう。人間という存在もまた、ブラックホール同様にミクロとマクロを収斂させて理解しなければ理解には至らない。

しかし、人間はブラックホールのような方法では理解できません。というのも、ブラックホールとは世界の多様な現象を「物理」という方法――言い換えれば人間の都合――で切り取った体系のなかの認知だから。そうした認知方法で人間を理解しようとすることは、人間を理解するという根本から逸脱することになってしまいます。

逸脱と禁忌は、実は背中合わせではないのか。

そうであるなら、禁忌の中に人間理解の方法論があるかもしれないないと考えることができます。サブカル的な想像力は、ほんとうは人間理解の方法論であるかもしれない。事実、サブカル的な想像力にはサブカル的愉悦の受容を超える可能性がある。サブカルの想像力が現実世界に「受肉」したとき、そこには生きる創造力が生まれてくる。

これもまた、ぼくは〈Wander〉だと思っています。レイチェル・カーソンは人工的なつまならいことと考えるかもしれないけれど、ぼくは決してそうは思わないのです。

いつもながら手前味噌で恐縮なのですが紹介させてもらいます。上の文章の中身は、観察される画像からイメージとは少しズレています。サブカル的なんです。サブカルのキャラについて語っています(笑)
(「受肉」はそのキャラが発した言葉ですww)


サブカル的想像力には、人間のミクロとマクロとをつなぎ得る力がある。科学的な厳密性でもって追究する方法論は有用だけれど、その方法論で「受肉」を果たしえるかというと、ぼくはそうは思えません。といって科学が邪魔だとか無用だとか言いたいわけではない。科学は理解の手助けにはなるし、その手助けは有用なので大いに活用するに越したことはない。ただ、肝腎要の「最後のパーツ」は科学では埋められない。科学では埋められないパーツを埋めることを「受肉」という表現で呼んでいます。

サブカル的想像力でもって歴史を読み解いていくと――歴史とは人間存在のマクロ――、そこに見えてくるのは、人間が人間同士の直接的な相互理解をいかに合理化してきたのかという過程に見えてきます。

人間同士の直接の相互理解を社会の駆動原理に据えようとする動き、そのように考え動いた人物は幾人もいます。けれど、有名な人はたいてい殺されている。イエス・キリスト然り。ソクラテス然り。マハトマ・ガンジーも、マーティン・ルーサー・キングも。

彼らのような存在が危険なのは、人間同士の直接の相互理解が、人間同士の間接理解――だれにでもわかること(虚構)――を駆動原理とし、そうしたメカニカルなシステムで利益を得ている人々にとって。といって、彼らは人間同士の直接の相互理解を悪だと認定するのではない。そうではなくて、逆に積極的に善だと認定し、そして消費対象にする。消費対象にすることで直接のはずが間接に置き換えられる。善の消費が善、すなわち資本主義です。

もっともこれは現代の形。人間の形成には過程があるように、資本主義の形成にも過程がある。それが歴史。資本主義への歴史は、人間同士の直接の相互理解を巧妙に機能しないように、その機能が別の形に置き換えられるように「進化」してきた過程だと見ることができる(このことを「ラチェット」に喩えました)。

サブカルの想像力は、そうした「進化」の到達点です。サブカルは、初めから消費の対象として生まれたがゆえに、逆に「人間同士の直接の相互理解」が生き残っている。ただ、生き残ったところから、生きる創造力が引き出ることができるようにはなっていない。それは「消費」に向けられているから。消費に向けられているからこそ、かえって安全基地になっているのだけれど、だからこそ逆に順当には引き出せない。そこから受肉を果たすには、裏道を通る必要がある。


サブカルの想像力から個々の人間が創造力を引き出すことと、歴史という事実の体系をサブカル的に構築するということは、裏表だと思っています。といって、いわゆる「歴史女子」的な捉え方ではない。あれこそ消費の最もたるものです。

端的に言えば、言葉がないんです。「歴史という事実の体系をサブカル的に構築する」という言い方を端的に言い表すことができる社会的な言葉がない。それをとりあえず、「受肉」という言葉で置き換えています。


人間存在のミクロとマクロ。マクロの一端が歴史なら、ミクロの一端は愛着理論でしょう。サブカルには理論的ではない「愛着」がさまざまな形で描き出されている。

愛着と歴史をつなぐ力がサブカルにはある。逆にいえば、そうした〈力〉がサブカルへと追いやられていった過程が歴史だと思うのです。

感じるままに。