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ハンコはお利口だけど。

オヤジギャグっぽいタイトルになってしまいましたが、ま、いっか。筆者はまごうかたなきオッサンなのでww


先日から「痴漢に安全ピン」が話題になっていたのは知っていました。で、今朝、いつものネットニュースをチェックすると、

ハンコのシヤチハタ工業が痴漢対策用の「シハチハタ」を開発するとツイートして、支持と賞賛を集めていると記されています。

これもある種のイノベーションと言っていいでしょう。
シヤチハタ、がんばれ!

――と思う一方で、それでは足りないんじゃないかな~~と思ったりもしています。


「痴漢に安全ピン」が「私刑」だという指摘は当たっていると思います。刑法上は傷害罪でしょう。もっとも、それをいうならシヤチハタだってインクが服につけば器物損壊になるでしょうけれど。

「痴漢に安全ピン」のどこがいいのかというと、それは「私刑」だから。近代国家の統治原理からすれば「私刑」は悪です。でも、それは「国家の都合」でしかない。老後の生活を国家が保障するので勤労世代から年金を徴収します、というのと同じ。

老後の生活を保障してもらえる者からすれば、「国家の都合」=「自分の都合」ですから、内心は「自分の都合」を表向き「国家の都合」として語ることができる。安全ピンを傷害罪だと言い募る人間は、そうした類いの輩。端的に言えば卑怯者です。

国家が万能ならなんの問題もありません。けど、現実問題として、国家は万能ではない。年金にしてからが制度疲労を起こして将来世代には支給額を減額せざるをえず、暮らしは成り立たないだろうと国家組織自体が予想していて、自前で何とかしろと言い始めている。

自前で何とかしろと言われたら、だったら年金払いたくなくなるのが人情というもの。それが制度だからと言われたって、納得いかない。

痴漢に安全ピンが傷害罪はその通りだけど、刑法は正当防衛を認めていないわけではない。国家自体、犯罪への取り締まりを万全に行うことは不可能だと認めているわけですね。安全ピンがカッターナイフになると過剰防衛でしょうけれど。


さて、ここいらあたりまではありきたりの話です。それではつまらないので、(いつものように?)深みへと入っていきます。


まずはっきりさせておきます。ぼくは「痴漢に安全ピン」を支持します。

「痴漢にシヤチハタ」もいいと思います。正当防衛をより合理的――国家の統治原理に沿う――というのなら、シハチハタに軍配が上がる。けれど、ぼくは敢えて安全ピンを支持します。

安全ピン支持の理由を語るのに都合がいいので、リンクを貼らせてもらいました。引用もさせていただきましょう。

これを読んだ時、とても過去に遡って救われた気がしたんだよね。実際にはどうすることもできなかった訳だし、過去を変えられたわけでもないけれども、それでも心の傷が少し救われたみたいな気持ちになったんだ、私は。きっと多くの被害経験者たちもそうだと思う。だからあんなにいいねやリツイートされたのだろう。過去に傷つけられた人達の魂が、あのツイートを読むことで少し救われたんだ、多分。

戦えない弱い自分が悔しかった。やられっぱなしの悔しい気持ちがずっと後まで残る傷を残してしまった。

安全ピンが最善策だなんて思わない。せめてそれくらいの反撃ができていたなら……という悲しみや憤りが積み重なっての反応なのではと思う。

シヤチハタでは「過去に遡って救われた気」にはならないでしょ? おそらく。ならないとは言い切れないけれど、過去救済力は安全ピンのほうがずっと上だと想像します。それが安全ピン支持の理由。

安全ピンは攻撃です。正当防衛だと思うけれど、それでも攻撃であることには変わりはない。それは攻撃だけど〈表現〉でもあると思う。止むに止まれぬ表現。

止むに止まれぬ表現をできないこと、できなかったことは悔いが残ります。それはたとえ、そのときに表現方法や知らなかった、表現手段を持ち合わせていなかったのだとしても。止むに止まれぬ表現をできなかったことがやむをえなかったのだとしても、悔いが残っている。

不思議なのは、その〈表現〉は後追いでも可だということ。しかも、直接的な表現(実際の攻撃)ですらなくていい。

不思議。ワンダー(Wander)です。
奇妙ではない。
このワンダーがあるから、人生は再選択可能なんです。

そう考えたとき、ここはやっぱり安全ピンだろうと想像します。シヤチハタでは「止むに止まれぬ」に足りないような気がします――女性が痴漢の被害に遭うということの傷の深さはぼくには想像不能なんですけれど。

「止むに止まれぬ」ものなら、どこが適切かは自ずとわかるんですよね。カッターナイフではない。声を挙げるのでもない。ましてスタンガンではない。それらは、想像不能を承知で想像しますが、過剰です。過剰は、それはそれで後味の悪さが残るでしょう。そうなると過去の遡るほどの救済力にはならないのだと思います。過剰でも過少でも、過去には遡れない。


痴漢にシヤチハタというアイディア、自身が取り組んでいる仕事からニーズに応えようとする姿勢、これらは賞賛に値します。反対する理由は1ミリもありません。でも、危惧はある。それは、「シヤチハタ」が倫理になってしまうという危惧。統治原理に近いがゆえに。

前回、論語を取り上げて理論が倫理になっていくという話をしました。

同様のことが「シヤチハタ」にも、きっと起きるだろうと思います。「痴漢にシヤチハタ」というイノベーションが実現したら、「痴漢に安全ピン」は正当防衛ではなく過剰防衛と見なされてしまう。安全ピンが「止むに止まれぬ」表現であったとしても、統治原理からはふさわしくないと見なされてしまう。

そもそも統治原理にとって個人の「止むに止まれぬ」は相容れないものですから。そして、当事者ではない者からしてみれば、統治原理は大抵の場合、都合がいい。多数に都合がいいとそれがルールになるというのが(劣化した)民主主義の原理です。本当は少数(の当事)者を抑圧しないための民主主であらねばならないのですが、たいていは劣化します。残念ながら。


論語の憲問第十四の三十六です。

或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳。

問題は「直」の解釈です。

ある人が「受けた怨みには徳で返すのがいいのではないか、倫理なのではないか」と問うたときに、孔子は、「それでは受けた徳にどうやって返せばいいのか」と問い返し、「徳には徳をもって、怨みにはをもって」と答えたという内容です。

倫理書としての論語は直を誠実と解釈します。でも、変です。孔子はわざわざ「徳にどうやって返せばいいのか」と問い返しをしている。誠実は徳の特性ですから、文章的に意味が通らない。けど、統治原理には都合がいいので、文意が通らなくて正当(正統)な解釈とされて、現在に至っています。

痴漢のケースでいうならば、安全ピンが直です。正当かどうかではなく、その人にとって止むに止まれぬ正直な反応が直。行動が社会正義に合致しているかどうかなど孔子は語っていない、それは統治者には都合が悪い。だから解釈が曲げられる。


直はときに社会正義と合致しないどころか、相反することがある。しかし、だからこそ、価値がある。逆に、社会正義のほうが直のほうに合致するようになると価値を失ってしまうことになる。

発端となったツイートのマンガの最後、「痴漢をしている時点でクズだ」というセリフが出ています。このセリフに同意すると同時に危ういとも思う。「痴漢をしている時点でクズだ」があくまで個人のものであるなら、支持します。そうした発言に批判を浴びる覚悟があるなら。安全ピンで防衛することが場合によっては傷害罪に問われるリスクを抱えていることも承知で行われるなら。そもそも「止むに止まれぬ」のなら、そうしたリスクは超越しているでしょうから。

が、そうしたリスクテイクを避け、クズ発言や安全ピンを社会正義だと言い募るのであるなら、それは卑怯者です。その行動はもはや直ではなく、統治原理を自分の都合のいいように曲げようとする権力志向の振る舞いに堕しています。

それで痴漢をなくそうなんて、木に登って魚を探すようなものと言うべきでしょう。

直は剣呑を呼ぶ。論語では「乱」と言っています。安全ピンはどう見たって剣呑だが、だからこそ価値がある。独立し自立しようとする個人にとって。



※追記

止むに止まれぬ表現をできないこと、できなかったことは悔いが残る。

アニメになったのが、こちら。

もう、夏ですね...

感じるままに。