価値と価格 ~「泥のついたピン札」から考える

前回からの続きです。

「泥のついたピン札」のエピソードを紹介しなくてはなりませんね。


「泥のついたピン札」のエピソードが出てでてくるんは、『'87初恋』の最後のシーンです。

(上のリンクはすでに放送済みのものですので、悪しからず)

初恋をするのは、中学生になって思春期にさしかかった純です。

これまたなかなかのハードゲーム。
そのハードさは、挿入歌として使われる尾崎豊の『I LOVE YOU』に象徴されているとだけ言っておきましょう。

語ればいくらでも語れますが、先へ進まねば。


中学を卒業した純は、東京は出ることになります。東京で暮らす叔母さんのところへ身を寄せて、進学と就職。五郎とのしばしの別れのシーンは、東京への長距離輸送トラックに便乗させてもらう場面です。

五郎にはお金がなかったんですね。純ひとりを東京までやる交通費を工面することができない。だから、伝手を頼って長距離トラックに便乗させてもらった。

といって、やっぱりタダでというわけにはいかない。五郎は運転手に謝礼を手渡します。それが「泥のついたピン札」2枚。

運転手は「こんなものを受け取るわけにはいかない」と純にお札を突き返します。ピン札についた泥を見て、そこに「お金以上の価値」があることを運転手は見出したからです。「宝物として大事にとっておけ」――。

涙を誘われざるをえない場面です。


「泥のついたピン札」は続く『 '89帰郷』でも登場します。

『'87初恋』では心温まる話を生み出した同じお札が、今度は悲しい話の原因になってしまいます。

運転手に言われたように、「泥のついたピン札」を財布にしまって肌身離さす持ち歩いていた純ですが、職場の品行不公正な先輩に見つかり奪われてしまうことになります。

先輩は「泥のついたピン札」に額面(価格)以上の価値を見出さなかった。いえ、見出し得なかった。見出し得ないほうがデファクトスタンダード


「泥のついたピン札」に価格以上の価値を見出すことができるのは、当事者である純。それから「泥のついたピン札」の〈物語〉を知っている視聴者。

視聴者はもとよりドラマに介入することはできませんが、主観的には介入して、純に同情を寄せることになります。

東京でハードゲームゆえの糞ゲーとなってしまっている純ですが、そのことを自覚しているからこそ「宝物」を大切にしている。その「宝物」を奪われ、キレて傷害事件を起こしてしまう純ですが、彼の心を知っている視聴者は純に同情せざるをえません。



ここからが本題です。

なぜ、視聴者は純に同情を寄せるのか。

それがホモ・サピエンスの〈アルゴリズム〉だからです。

ドラマの制作者はアルゴリムをwっていて、だから臆面もなくあざといストーリーを組み立て、視聴者の心情に訴える。視聴者はあざといとは思いつつも、心情が純に傾いていくことを抑えられない。

それが〈アルゴリズム〉だからです。
アタマによる理解とは別の次元で、人間の裡に生成する何ごとか

〈物語〉に人は心を寄せずにはいられない。ホモ・サピエンスにとって、〈物語〉こそがもっとも価値あるもの(のはず)。


けれど、社会のデファクト・スタンダードはそうではない。

お金というものは〈物語〉を分断するものです。
それは価格という【価値】を持つから。

ホモ・サピエンスにとっては〈物語〉が持つ〈価値〉の方が、本来的には価値がある。意味があります。

けれど、そうした〈価値〉より価格が表象する【価値】の方が、とある局面では有利だったりします。



文明の力が及ばない砂漠のただ中、あるは絶海の孤島では、【価値】は何の役にも立ちません。けれど、文明の力が大きく作用する社会のなかでは【価値】は絶大な意味を持つ。

文明社会のなかで働いているのがメカニズムです。

メカニズムは環境によって働いたり働かなかったりします。一方でアルゴリズムは、どこにいようと人がホモ・サピエンスであるかぎり働いている。



人はどこで生まれ、どこで暮らしていてもホモ・サピエンスです。

優生学といったようなものを信奉する人からすれば上の言明は真ならずでしょうが、現代の科学は優生学を否定しています。また、「信じる者は救われる(信じる者しか救われない)」といった類いの「憑依」でホモ・サピエンスのアルゴリズムが変化してしまうことも否定されている。

宗教であろうが経済学であろうが、いずれの「憑依」もメカニズムに過ぎません。

メカニズムは人間を「成功」もしくは不成功へと導きますが、〈しあわせ〉にするとは限りません。人間が〈しあわせ〉になるのは、ホモ・サピエンスとして持ち合わせている〈アルゴリズム〉に沿って〈生きる〉ことができているときです。

なのに、人間は「成功」と〈しあわせ〉の感じ分けをすることがなかなか難しい。なぜか。


そうしたメカニズムが働く【社会】の中で暮らさざるを得ないというのは、結果論です。確かに歴史はそのように推移してきた。

けれど、歴史は人間が造ったものです。ならば、人間の手で再編集ができないはずはない。

そう考えるならば、正しい問いは「再編集を阻んでいるものは何か」となるでしょう。


言葉が間違えているのだと、ぼくは考えています。

「価格」は市場メカニズムから生み出されるものです。
〈価値〉はホモ・サピエンスのアルゴリズムから生み出されるもの。
けれど、メカニズムの中で生きている人間は、メカニズムで生成されるものもまた【価値】という名で呼んでいる。


〈価値〉と【価値】とは、生成原理が異なりますから当然に違うものです。違うものを同じ名で呼んでしまうと、そこに「錯覚」が生じてしまいます。


『北の国から』の「泥のついたピン札」のエピソードは、この「錯覚」を自覚させてくれるものです。自覚を促してくれることに〈価値〉がある。

ただ、そうした〈価値〉も、ドラマとして消費されるだけは【価値】へと還元されてしまうのですけれど。

感じるままに。