伝えたいこと(その1)~歴史を再編集する

「書きたいこと」から「伝えたいこと」を受けて。

直截にいきます。

伝えたいこととは、つまり、共感を得たいこと。
賛同を得たいこと。

それは、端的に言ってしまうと、

 人間性善説

です。

人間は性善であると断言しようと思っているわけでありません。そうではなくて、

人間の性は善だと思い為そう、信じよう

という主張。


これだけだとバカバカしいと思われるかもしれません。そうでない現実が世の中には充満しているから。

人間の性は悪だと思わざるを得ない現実の中で、誰もが必死に生きている。人間の性が善ならば、そんな思いはしなくていいはずなのに、現実は必死にならざるを得ないのだから、人間の性は悪だと(思いたくないけれど)思わざるを得ない。

むしろ、いっそ、悪だと思い為すことがでれば楽なのにとすら思う。


でもね、個人のレベルでは、そうしたベクトルと正反対のものが支持を得るようになってきています。

 自分に自信を持とう。
 自己肯定感を高めよう。

そのように伝え、共感と賛同を得ている表現はたくさんあります。noteを少し巡ってみれば、多くの人がそれぞれの方法で表現しているのに出逢うことができる。

これらの自己肯定は、とどのつまりはわけがわからないもの。なぜそうなのか根拠を示すことができないものです。根拠はないけれど、とにかく目指そうよという「思い」が、とにもかくにも広く共有されるようになってきた。


だったら、と思うわけです。

個人レベルの(根拠のない)自己肯定が、社会や人類というレベルになると、人間性善説になる

個人レベルでの「とにかく目指そう」が拡がってきて、その広がりが少しずつでも〈しあわせ〉を見つけだすことにつながるのだとしたら、その動きを社会のレベルにまで格上げすることだって、できるはず。

できるはずだと信じて、とにかくやってみたい。
やってみたいという「思い」に共感を得たいと思う。

それが、「伝えたいこと」。



でも、やっぱり、「とにかく」だけでは足りない。少しは「どうやって」という方法論の提示もしないといけない。

個人レベルでも、必ずいっていいほど方法論の提示はあります。これも多くの人が、それぞれの方法論や個人の体験を表現しています。

上掲書は、そうした方法論の中で大きな支持を得たもののひとつです。


『幸せになる勇気』の方法論を個人レベルから社会や人類のレベルへと格上げしてみるとどうなるか。といったって、そう簡単にできるものではないけれども、スローガン程度なら。

「人生を再選択せよ!」から

「歴史を再編集せよ!!」

へ。

個人の「人生」に相当するのは、社会や人類ならば「歴史」になるでしょうから。

われながら大袈裟だと思うけれど、そう思ってしまうんだから仕方がない。


歴史の再編集といえば、思い浮かぶがこちら。

大好評を博した歴史書だけれど、その理由は端的に、歴史を再編集して見せたからでしょう。


『サピエンス全史』は歴史再編集の具体的可能性を提示したけれども、編集方針という意味においては、「勇気」あるものと言えないようにも思う。

ここでいう「勇気」とは「編集方針の再選択」。編集方針を人間性善説に据えて、歴史を編集しなおすこと。

可能だと思います。
ぼくにできるとは思えないから、才能ある誰かに期待するほかないのだけれど、不可能ではないはず。


それができたとして、何になる?

――という疑問が聞こえてきそうですが、こうした消極的な問いを斥けることが、『幸せになる勇気』でいう「人生の再選択」における「勇気」というもの。つまり、

「幸せになる勇気」は個人レベルに留まらないで、社会のレベルにまで拡がっていく可能性がある

ということです。

言葉にしてみれば、当たり前のことですよね。


あらゆる社会思想がこの可能性を追求するものです。宗教もそうだし、社会主義も資本主義や民主主義だって、そう。追求と挫折の繰り返しが歴史だと言えなくもない。

また挫折になるかもしれないけれど、それでも可能性が見えるのなら、追求をしてみたい。追求をしてみたいのなら、伝えたいし、共感を得たい。

単純に、それが人間というものでしょう。
だったら、単純に、人間を捨てたくない。
ぼくもみんなも、人間だから。

感じるままに。