お金は自由に使っていいと思う

先ほどつぶやいてみたけど、それでは物足りないので続きを書きます。


ネタ元はこちら。

で、ネタ記事のネタ元はこの方。

要するに、

自由か? 平等か?

という、いつものお話です。
とっても大切でいつも収まりが付かない話


つぶやきに貼ったスクショを、もう一度。


上掲記事の筆者や平等サイドです。
スクショの上の方も、同じく。

このようなスクショをさらすという文脈からすると、ぼくのポジションは平等サイド――かというと、さに非ず。

タイトルの「お金は自由につかっていいと思う」は、自由サイド。では、そっちかというと、それも違います。

ぼくのポジションは

自由と平等のジレンマは技術的な問題


です。先に呈示した通り。


前澤さんという方は面白い人だと思います。
お金の使い方が自由です。月に行くとか、お年玉を配るとか、リツイートで寄付をするとか。批判はあるのは承知しているし、それらはそれらで理はあるとも思う。

敢えて、好き嫌いでいうと、ぼくは前澤さんの方が好き。
屈託がないなら。
批判側は正しいけど窮屈です


先の記事で、ぼくはひとつだけ正しくないとしたことがありました。

唯一、正しくないと思うのは、迷惑だから止めるべきだという意見です。ある方が心配してくれていましたが、ツイッターあたりでこうした企てをやると、わらわらと湧き出てくることが予想されます。

これは、自身が縛られていることを「正しいこと」として、「だからオマエも縛られているべきだ」というもの。「正しいこと」が「不自由」とセットであるという考え方。いわゆる自己責任論を導く出す感じ方。


正しさの観点でいうと、批判側(平等サイド)に軍配が上がるでしょう。スクショの【追記】の記述は、どう考えても“大正義”です。

弱者同士が助け合いながら生きるのが社会であり、大規模な社会を持ったことが人類の成功の要因。それを否定するということはつまり、人類1万年の文明の歩みを全て捨て、野生に戻れと言うのと等しい。

だから、お金の使い方は自由であるべきではない。
縛られるべきだ、と。

確かに理は通っていますが、理の通し方はそれだけではない

“大正義”は「助け合い」です
必ずしも平等でなくてはならないわけではない

自由であっても〈助け合い〉が維持できればいい。


【平等】というのは「正しい」ことが「不自由」とセットだという考え方に基づいています。また、自己責任論的な【自由】もそうです。

スクショに出ている意見を見比べて見ると、いわゆる「器」の大きさの違いは一目瞭然なんですが、どちらも「不自由」とセットと考えていることに違いはない。そのことと向き合っているか否かの差。

でも、向き合うか向き合わないかは、その人の【自由】です。そして、「自由」な人たちにどのように向き合うかは、またぼくたちの〈自由〉。

問題は、ぼくたちが依存しているシステムが【自由】に対する〈自由〉を保証していないことです。


素直な人間なら、直観的に感じるはずです。

【自由】を自身のために行使する人間を支持するか。
〈協力〉に対して行使しようする人間を支持するか。

あるいは、

【自由】を自身のために行使する人間になりたいか。
〈協力〉に対して行使する人間になりたいか。


ぼくは後者です。
胸を張って言うことができます。

多くの人もそうだと思います。
他人事ながら、確信を持っています。

だから、〈自由〉になれさえすれば、そのような〈システム〉を作ることができさえすれば、人間は窮屈に平等なんて唱えなくても自発的に協力していくことができる――はず。


つい最近まで、人類はそのような〈システム〉を構築するだけの技術を手にしていませんでした。だからを空想した。

神の前では平等、とか。
弥陀の五劫思惟の願はひとえに一人の為なり、とか。

そのような境地に達すれば、生きづらい世の中も極楽に感じられる。それはそうかもしれないけれど、これは高難度のアクロバットのようなもので、残念ながら誰にもできるような芸当ではありません。



〈システム〉を構築しさえすればいいという考え方は、かつて、アダム・スミスという人が「(神の)見えざる手」を唱えたことに近い。そのアップグレード版だと言っていいかもしれません。

もっとも、アダム・スミス自身は「(神の)」とは言っていない。ここは、後生の人たちが勝手にくっつけて宣伝しただけ。アダム・スミス自身は「見えざる手」は「道徳」とセットだと考えていた。「不自由」とセットです。



お金・貨幣というものは、人間同士の〈協力〉を生み出した偉大な発明です。貨幣のおかげで人類は広範囲の〈協力〉を実現することができ、現在、ぼくたちはその恩恵を享受しています。

貨幣は腐りません。
移動と情報伝達の技術が未発達だった時代に、貨幣の腐らないという物理的特性がどれほど役に立ったことか。

貨幣は腐らないことで時間を止めた。
時間を止めることで空間を超越していった

貨幣もまた技術です

けれど、現代は事情が違います。
技術が発達して、遠方への情報伝達は一瞬です。認識も進歩して、貨幣が単なるデータに過ぎないことも知られている。

現代では情報伝達技術が空間を超越しています

なのに、システム構築の原則はまだ昔のまま
だから自由と平等がジレンマに陥る。



人間は成長していく存在です。
このことは、強みであると同時に弱みでもある。

協力を生み出す信頼があるなら、成長は強みです。
逆に信頼がないところでは、成長は弱みになる。
成長(変化)の最中の生物は弱いものだから。

だから、社会に〈信頼〉がなくなるほどに成長する個人は弱さが際立つようになる。際立った弱さから身を守るために【信用】にすがるようになる。

〈信頼〉がなくなっていくなかで、もっとも【信用】がおけるのは変わらない貨幣。それは、時間がかかった遠方との交易に用いることができるくらいに【信用】がおけるもの。

けれど、もはや、そうした【信用】は用済みのはずです。技術は発達したのだから。

なのに、まだぼくたちは【信用】にすがっていて、みずからますます【信用】にすがらなければならないような状況を作ってしまっています。


だったら【信用】をやめてしまえばいい
腐らせてしまえばいい

いえ、【信用】をやめる選択肢を設ければいい。
【信用】をやめても遠方と情報交換することは、もはや技術的に可能になっています。


その上で、それでもまだ【信用】を選択するかどうかは、それぞれの〈自由〉でしょう。

変化しない【信用】を選択するものを信頼するか。
変化していく〈信頼〉を信頼するか。

もちろん、どちらもあっていい。
どちらもあって、双方をどのような加減で使いこなすかが〈自由〉な人間に課せられる課題になるでしょう。


その課題はもしかした現在の【自由】が課しているものよりも難易度が高いものかもしれません。だとしても、より楽しいものであることは間違いないと思います。



感じるままに。