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『故郷(ふるさと)』山田洋次監督(1972年)

昨晩の映画の会で観賞しました。

瀬戸内海の小島に住む一家が、押し寄せる高度経済成長の波に追われ、それまでの慎ましくも幸せな生活を手放すまでの揺れ動く心情を哀惜をこめて描いた人間ドラマ。監督は“男はつらいよ”シリーズの山田洋次。瀬戸内海の小島、倉橋島。精一と民子の夫婦は石船と呼ばれる小さな砕石運搬船を生業としていた。夫婦は美しい自然に囲まれ、二人の子どもと清一の父親とともに、裕福ではないにしても楽しく満ち足りた日々を送っていた。そんな夫婦には最近ひとつだけ悩みがあった。長年仕事を共にしてきた大切な石船のエンジンの調子が思わしくないのだった……。

(上掲文は、『allcinema ONLINE』より拝借)


この作品、監督が山田洋次だけに(というだけで?)“名作”としてカウントされるのでしょうねぇ...。

純粋な表現として見るならば、名作でいいと思う。往年の俳優たちがいい。演技が演技に見えないというか、「演技感」がほとんど感じられなくてフィクションという気がしない。

でも、この映画は「純粋な表現」だけで評価されるべき作品ではないでしょうし、監督自身もそのつもりではないはず。メッセージが込められている作品として観るべきだと思う。

で、その観点から観るならば、甘っちょろい凡作にしかぼくには見えませんでした。

「見たくないもの」から見事に目を逸らせている。

こういう類いの作品は、「見たくないもの」から目を逸らせるために「見たくないもの」を見ないことで「失ってしまうことになるもの」への哀惜を描いて共感を得ようとするんだよね...


とどのつまりは、金がない
ただ、それだけのこと。

稼ぎのための設備(船)が経年劣化してしまって、稼業を続けようと思うならば設備更新をしなければならない。でも、事業がうまく行かなくて新たな設備投資のための資金が調達できず、廃業をしなければならない。

資本主義の論理に照らしていえば、アンタはダメな社長(船長)だったというだけの話。その話と故郷(ふるさと)から離れていくということとは、直接には関係がない。そこは「課題の分離」をしてみるべきところ。


でもねぇ、やっぱりそれだけではないんですよ。そうやって「課題の分離」をしてみても、残ってしまう「なにものか」がある。この作品は言葉にならない「なにものか」を映し出そうとしているのだと感じるし、それが“哀惜”なのもよくわかるけれど、じゃあ、当作が伝えようとしているメッセージは「哀惜」なのかということになると、それにはちょっと齟齬があるだろうと思う。

「哀惜」と「メッセージ」の間に、「見たくないもの」が隠れている。

それは端的に言ってしまえば、この社長(船長)が資本主義に乗っかっちゃったという事実(過去)です。石崎家が暮らす瀬戸内海の小島は、先祖代々埋め立てのための石材運搬を生業にしていてわけではないでしょう。どこかで誰かが(おそらくは 井川比佐志が演じる石崎精一)が決断をして、その決断があったから、「小さな者は大きな者に勝てない」ということになってしまう。

映画の終盤。精一が民子(倍賞千恵子)に向かって吐露する言葉が、この「見たくないもの」を如実に浮き彫りにします。

「民子、大きなもんたぁ、なんのことかのお。みんな言うとったじゃろうが。時代の流れじゃとか、大きなものには勝てんとか。ほいじゃが、そりゃあ、なんのことかいのお。大きなもんたぁ、何を指すんかいのお。何でわしら、大きなものには勝てんのかのお。なんでわしゃ、なんでわしゃ、この石船の仕事を、わしとお前で、わしの好きな海で、この仕事を続けていかれんのかいのお」

「大きなもの」とは何か、という認識がもうすでに目を逸らしている。

石崎精一は自然破壊に加担したんです。
瀬戸内海の小島は美しいものでしょうけれど、彼らが石を運んで埋め立てている海だって、美しいものだったはずなんですよ。彼らが石船の稼業を決断した時点で、自分を守るために他者を犠牲にするという選択をしている。埋め立てられた海岸にだって、そこの自然と共生して慎ましやかに暮らしを営んでいた人たちがいたに違いないし、その人達だって精一と同じことを言ったかも知れない。

それこそが「時代の流れ」です。自分を守るためには他者を犠牲にしてもいいという選択肢が推奨される流れ。

この「流れ」を媒体になっているのがお金


すこぶる単純な「流れ」だと思います。
なのに「見えないもの」になってしまっている。「見ようとしないもの」になってしまっている。「哀惜」でカモフラージュしようとしている。

その理由は何か?

それは、他ならぬ山田洋次監督自身もお金が欲しいからじゃないのか、だから「見たくない」のでないかと勘ぐっています...腹黒いww

感じるままに。