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『ドラゴンボール』とファシズム

(ヘッダー画像は、こちらから借りしました)


今日は下の記事と超有名『ドラゴンボール』に登場するキャラクターたちを絡めて、想像を膨らませてみたいと思います。

人間誰しも「臭い物にフタ」というか、禍々しいものからは目を背けていたいとする性質があります。

ファシズムなんて、禍々しいものの代表格ですが、そこを体験しようという試みは、とても立派なものだと思います。

好奇心を奮い起こせば、臭い物ものでも大丈夫 ♬


人はいとも簡単にファシズムになびく。

自身を省みてみて、その通りだと思う。ぼくの中に居座っている「ささくれた心」が反応する。普段は抑制されているけれど、そのフタが外されてしまえば、嬉々として大暴れを始めでしょう。

「ささくれて不機嫌な心」は、たいていの人間は自身の理性で抑制していると考えがちだけど、ぼくはそうではないと感じています。人目を気にして抑制されているというのが本当のところ。

でも、この「本当のところ」を認めるのは難しい。「我思う、ゆえに我在り」というところか生まれてくる近代的自我を否定することになってしまうから。


まあ、それはともかく、『ドラゴンボール』です。

ぼくはこの記事を読んで、ドラゴンボールのあるキャラクターを連想しました。アックマンというキャラクター。

説明は不要でしょうが、簡単に。

占いババお抱えの戦士のひとり。アクマイト光線というのを発射して、これに当たったものは誰もが多かれ少なかれ抱えている「悪の心」が膨張して爆発、身体を吹き飛ばしてしまうという恐ろしい悪魔。

アックマンと対戦した悟空はアクマイト光線を浴びてしまいますが、何も起こらなかった。悟空には「悪の心」がこれっぽっちもなかったというマンガならでは展開でした。


悟空のようなキャラクターならば、ファシズム体験授業を受けても、おそらくは意味を感じられないだろうと思うわけです。

アマゾンの奥で暮らしているピダハンたちとかも。キリスト教の大正義「神の前に悔いを改める」を大爆笑で吹き飛ばしてしまう人たち。



そんな感じで連想ゲームをしてみると、どのキャラならアクマイト光線を浴びても平気か、ファシズムになびくことはないのか。想像してみるとちょっと面白いのではないかと。

『ドラゴンボール』では、クリリンも、ヤムチャもなびいてしまいそう。

案外なびかなさそうなのは、ピッコロです。集団で「悪の心」を発動させるなんて、ピッコロならば鼻で笑いそうな気がします。他人に頼らずに悪を遂行できる実力と自信を持っているというか。

そう考えると、自信(自己肯定)とは何かというのも、ちょっと怖い気がします。

亀仙人は微妙なラインに感じます。
なびく自分を観察して抑えることができるだけの修行を、武天老師はこなしているという気はします。

修行というラインで完璧なのは神様でしょう。ナメック星人で、修行の末にピッコロを分離して「悪の心」を完全になくしたという。


なんだか面白くないですか?

「善」も「悪」も、それから何も知らない「幼」も、ファシズムには染まらない。ファシズムになびいてしまうのは、何ごとかを知り始めて「善」にも「悪」にも至りきれない中途半端な「人間」だということです。


孫悟空は「幼」のまま、強さを獲得していくキャラクターです。修行をすることが愉しくて仕方がなくて、猛烈に修行ができてしまうのが孫悟空。

悟空の向上心は幼い人間が猛烈に発揮する好奇心の在りようと似ています。純粋であればあるほど、囚われることなく、生き生きとその在りようを発揮していくという。

そして、そういう人間はベースが非常に上機嫌です。
不快なことには真っ直ぐ怒りをぶつけることができて、ことが済むとさっぱり洗い流すことが出来て引きずることがない。

これ、現実の人間でもそうだと思います。そう思うから、ぼくは人間性善説を支持する。

ただ、現実の人間は悟空ほど身体的に強くはない。だから助け合って補い合っていかないといけないし、そうやって生態系の中で生き残ってきた。

なのに、助け合いの方法が変わってきてしまったのだろうと思うわけです。


感じるままに。