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「今のため」に、今できることを。

ゆき坊さんのテキストを拝見して、湧き出てきたことを。

掛け値なしに、とてもいいお話です。

でも。
ぼくには少し不満なんです。

それで、こんなふうにコメントを入れてしまいました。

ゆき坊さん、とてもいい話ですね。
でも、本当は、こんなような感動はないほうがいいんだと思うんですよ。

ぼくはむしろ悔やむべきところだと思ってます。まだそんなようなところで感動してるなんて、遅れていると考えたい。ハンデがむしろメリットになるように。

こういったコメントを入れるときは、実は少し躊躇します。

否定をしたいわけでない。そうではないけれども、もっとと欲張ってしまうと、相対的にどうしても否定形になります。真意を汲んでくれるだろうと期待はするけれども、否定にひっかかりはしないか、一抹の不安は拭えない。

いつも思います。もっといい伝え方がないものか――?

幸い、ゆき坊さんは真意を汲んでくださいました。

願いはおっしゃる社会になることでしょうね。
ハンデがメリットになる世の中。


現代の常識では「ハンデ」と思われていることがむしろ「メリット」になる世の中。

そういう社会は、もう、とっくに到来していてもいい。
人類はすでにそうした社会を実現できるだけの能力を、もう、とっくに獲得している。


ぼくたちの社会が、日々どれだけの資源を無駄に捨てているか。

たとえば食べ物です。
食べ物について、「もったいない」なんて、もはや死語だといってもいいくらい。

多くの人が認識しているけれど、だれもが他人事して向き合おうとはしない問題ですね。

あえて話を単純にしてしまうと、分配の方法がよくない。

社会主義の中央の官僚が計画的な分配方法よりも、資本主義の各々が利潤を追求を通じて分配する方法の方が優れていることは歴史が証明するところです。

資本主義のこの功績は否定できません。けれど、足りない。なぜなら、無駄を制御する方法が現下の資本主義にはビルトインされていないから。

これは、資本主義が良くないのではなくて、資本主義では足らないということです。良くない」というと否定のための否定ですが、「足らない」は肯定のための否定です。

ゆき坊さんへの否定も、肯定のための否定。


ぼくたちはすでに、全世界の人間が食べきれないくらいの食糧を生産するだけの能力を獲得しています。そうした能力の獲得に資本主義は大いに貢献をした。ここも否定できない事実です。

誰もが飢えることがない社会は、ずっと人類が夢見ていた課題でした。それが今や達成している。にも関わらず、まだ人類は、多くの人が飢えていた時代のやり方で社会を営んでいる。

その結果、利潤のために資源を無駄にし、格差を拡大し、かえって飢餓に陥る人たちを作りだしている。


ここに一冊の本があります。

『負債論』。副題は「貨幣と暴力の5000年」です。
5000年とはすなわち、人類の文明の長さ。

人間が文明を興した目的は、なによりもまず「食べるため」です。だからこそ負債が大きな意味をもった。人間は集団で社会を営み、ひとりひとりがそれぞれに役割を果たすことで、社会全体が生き残っていくという生存戦略を採用した。

自身が生き残るためには社会が存続しなければならない。社会が存続するには個人が役割を果たさなければならない。この、自分が生き残るための(社会への)義務感が「負債(感)」の根源です。それが譲渡可能になって貨幣が生まれた。

そして、現在、ぼくたちの社会は、生き残るのに十分に足るだけの食糧を調達することができている。5000年の間、ひとり一人が話さなければならなかった役割を、機械が担ってくれるようになっている。

にもかかわらず、まだ、ぼくたちは5000年に縛られています。「負債(感)」がぼくたちの秩序の軸になっている。

でも、それはもはや時代遅れ。
食べたくても食べれなかった時代ならば、秩序を維持する軸には「負債」が相応しかったことに間違いはないでしょう。でも、もはや飽食が問題になっている時代です。


ゆき坊さんのテキストにもどりましょう。

ゆき坊さんは、手を差し出した少年の指が3本しかないのを見て、神を怨んだと書いておられます。

このゆき坊さんの思いは、二重の意味で、きわめて人間的です。

ひとつは、他人を思いやる人間という意味において。
もうひとつは、負債感に縛れている人間という意味において。

少年に指が3本しか無い

「しか無い」ってなんですか?

この背景には、「そのスペックでは果たすべき役割(負債)を十分に果たせない」という(無意識の)前提があります。でも、その前提はもはや時代遅れ。時代遅れということにしないといけない。

彼は、彼に果たすべき役割を持って生まれてきた


ぼくたちはもはや、この地球の生態系のなかで生き残ることができるだけの能力を獲得している。それどころか、それ以上の能力を獲得してしまって、過剰な能力を持て余しさえしている。

生き残るのには能力が過小だったから「負債」でした。
だったら、能力が過大になったら? 

それは「投資」でしょう。

「腐るお金」で「投資」をして報酬を受け取る。
そして、その報酬とは「感謝」とプラスアルファの「実利」です。

「感謝」がメインでいいんです。なぜなら、それでも、もう、生き残ることはできるのだから。


実利よりも「感謝」の方が大きな価値をもつようになると、「ハンデ」が「メリット」に逆転をします。

能力が(標準より)低いということは、それだけ「感謝」をする必要(供給)が大きいということだから。人間が「実利」よりも「感謝」を求めるようになれば(「感謝」への需要が高まれば)、「できない」ということはむしろ「メリット」になる。


少し持って回った言い方(「需要」とか「供給」とか)をしましたが、こんなようなことは誰もが識っているはずのことです。

空腹のときは、感謝よりも食べ物です。ときに自身の食べ物より感謝に重きを置く人も登場しますが、そんな人ばかりになるとかえって人類は滅びます。やっぱり「衣食足りて礼節を知る」なんです。

衣食は足りた。5000年かかったけど。だったら次は礼節です。礼節の基本が「感謝」であることはいうまでもありません。


ぼく自身はさほど接した体験はないのですけれど、それでも数少ない経験から言えることは、(古い秩序観では)「ハンデ」を負っているたちには、なぜか「感謝」の達人が多い。不思議だけれど、これもそれだけの能力(脳力)を人間は(誰もが)持って生まれてくるということなのでしょう。「感謝」をする機会が多い人は、それだけ能力が磨かれる。


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実現不可能な夢物語を語っていると感じられる方が多いかもしれません。でも、客観的に実現の条件は揃っているんです。

人間が生き残って行く以上に資源を浪費してしまっているのは疑いようのない事実です。
資本主義は優れた生産・分配方法だけれど、大きな欠点があるのも事実。
IT技術が発達して、人類が負債ではない貨幣を生みだす技術を持つに至ったのも事実。

イノベーションというのは技術革新の意味では必ずしもありせん。すでに実現している技術の新しい組み合わせ方で、新しい価値観を生みだすことこそがイノベーション。

技術革新という側面においては、iPhoneよりもAndroidの方が優れているかもしれないけれど、「スマートフォンという価値観」においてはiPhoneの功績はAndroidのそれに勝る。


従来の「負債としてのお金」がぼくたち人間に抱かせしめている価値観の重心は「未来」にあります。

生き残ってこその未来なんだけれど、それがオーバーアチーブしてしまって、今や【未来】は強迫観念にすらなっている。負債感に囚われている人間は、必然的に未来主義者なってしまいます。「価値」は未来に繋がって行くものだと暗黙のうちに思い込んでしまっている。刷り込まれてしまっている。

でも、もう、未来主義者は時代遅れです。
これからは、「今のこの時点のために」「今、何ができるか」を考え実行していくことが「価値」の主軸になります。

そうなったとき、生き残るためには「ハンデ」であったものが「メリット」に入れ替わることになります。


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ヘッダー画像はご存知、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』です。なぜか、文章を綴りながら連想していたのがこのアニメでした。

このストーリーも軸は「負債感」にあります。でも、未来主義かというと、ちょっと違う気がします。

「今のこの時点のために」「今、何ができるか」を果たせなかったことで生まれた悔恨が昇華していくお話。「悔恨」という意味では「負債」だけれど、その「負債」を返済して、「今」に軸を移すという展開だと思う。



感じるままに。