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断食のススメ

成長することには、なんとなく増えるというイメージあります。
たとえば知識とか。
新たな知識をどんどん吸収して我が物とする=成長――みないな。

若々しい成長のイメージ。

ただ、言うまでもないことですが、成長は質の問題。
量を質に転換できるのは「若さ」ではあるけれども、
無邪気に若さを信奉するのは、むしろ幼い。


歳を取ると、知識の量はそれなりに増えます。
それから体脂肪も。
だから気をつけていないと、若々しさが減じていく。

若々しさが減じるのは歳を取るのだから致し方ない――。

いえ。

確かに身体にせよ精神にせよ、致し方ない部分はあります。
だけど、致し方なくない部分も大きいのです。
世の中には歳をとっても若々しい人がいるのは事実ですからね。


歳をとっても若々しくいられる人たちが必ず行っているのは
「節制」というやつです。

節制にはなんとなくマイナスのイメージがあります。
苦しいというイメージがある。
このイメージの典型は、「ダイエット」というやつでしょう。
若さをキープするための苦しい努力。

しかし、ダイエットには成長のイメージはあまりありません。



断食は節制ではありません。
リフレッシュです。

3日の間食物を摂取しないでいると、腸の動きが止ります。
72時間おいて食べ始めると、腸は再起動します。
再起動の際に、消化できずに腸の襞に溜まった残り滓を排出するようにする。宿便というやつです。
そうしてやると、再起動はリフレッシュになる。


断食で得られる果実は、腸のリフレッシュだけではありません。

ほとんどの現代人は普段から食べ過ぎです。体力を余分な食物の消化に浪費してしまっています。それがなくなるので、身体全体が元気になります。肌つやなんかも良くなる。

身体が元気になると、感覚もリフレッシュされます。
断食している最中は、当然ですが、お腹が減る。
お腹が減っていると、臭いなどに敏感なる。
水は飲まないと危険なので摂取しますが、水の味もわかるようになってきます。断食後半(三日目)に水を変えてみたりすると、よくわかります。

また、空腹になるとアタマが冴えるという効果もあります。


断食を行うことの最大の果実は、

 感覚をリフレッシュする感覚を得られる

ことです。食物を断って時間が経ち、空腹感が増してくるに従って嗅覚が増してくる。たぶん、聴覚も敏感になる。味覚は水の味がわかるようになるのも面白いけれど、再び食べ始めたときに、その鮮度にビックリしてしまいます。


枯山水という日本の「様式」があります。
庭園とか絵画などに用いられる。
水を感じるために水を抜くという、感覚を研ぎ澄ますための舞台装置です。

枯山水が禅から派生したのは有名です。
禅は瞑想、そこから派生した最近流行のマインドフルネス。
これらも感覚の鋭敏にすることが目的と言っていいのかもしれません。

生きているということは、感じるということです。
ですから、感じる力が増すということは生きる力が増すということ。そして、感じる力を増すためには、感じる対象を敢えて引いてみる。

生命そのものを引くことはできません。
なので生命を維持する糧を引く。
そうすると、私たちの身体の裡にある「生きようとする力」が立ち上がってくる。

「感覚をリフレッシュする感覚を得る」ということは、

 「生きようとする生命力」を感じる

ことに他なりません。


「生きていることを感じる」ことと
「生きようとする生命力を感じる」ことは、
同じことのようで、質がまったく違います。

若い頃は、特に意識をしなくても「生きていることを感じる」機会はたくさんあります。
小っ恥ずかしくなるので書き連ねませんが、要するに、

我がこととして思い返すと小っ恥ずかしくなる、
他人の話として聞くと微笑んでしまう、

そういった類いの経験は「生きていることを感じる」経験です。

(noteにはそういった類いの経験がたくさん掲載されています。)


「生きようとする生命力を感じる」ことは、若いだけでは感じることができません。生命力を俯瞰する視点が要ります。

「生きていることを感じる」はある意味ナルシズムであり、
自分自身への視線だけも感じることができる。
むしろ他者は邪魔になる。


「生きようとする生命力を感じる」は、他者への視線なしに感じることができません。

「生きようとする生命力を感じる」経験で最高最大のものは、
おそらく出産です。
自身の生命から、別の生命が誕生・分離していくという出来事。

自身から分離した生命は、その瞬間から自身で生きることを始める。
これほど「生きようとする生命力を感じる」ことができる経験は他にないでしょう。

だけど、悲しいかな、そうした経験を我がこととして得ることができるのは、女性だけです。哀れな男は、我が身を他者視線で俯瞰して、生命力を感じることくらいのことしかできません。

大したことはできないけれど、それでもやれることはやればいい。
だから、断食をオススメします。

敢えて強がりを言うなら、他者視線の強度については、出産より断食の方が上。
出産では「視線の分離」が甘いケースが多くて、それが子どもの順調な発育の妨げになることも、また多い。



ただし、断食で「生きようとする生命力を感じる」感覚を得るには、ひとつ重要な要件があります。

大敵である「イライラ」を排すること。
これができないなら、断食など無駄な徒労にしかならないので、やめた方がいい。

断食がやせ我慢になってしまっては意味がないのです。
感覚が鋭敏になっていくということは、その分だけ苦しみも増すということでもあります。

その苦しみを余裕をもって受け入れられるかどうか。
ここに「生命力を感じる」ことができるかどうかの鍵があります。

「イキイキ」と受けとめることができたなら、大きな自己肯定。
「イライラ」で受けとめてしまうと自己否定になってしまいます。

このことは、出産を考えてみれば、たとえ男でも、容易に想像がつくはずです。否定的な出産ほど不幸なものはありません。
それなりの準備ができていないと、出産が不幸になってしまうことは、現実的にありえます。


出産もある程度はそうですが、断食の方は時期を完全にコントロールすることができます。途中で止めてもダメージはゼロ。

だから、思い立ったが吉日とばかりに断食を始めることはオススメしません。そういうことがあるんだなと心に留めておいてもらって、その時期が来るのを待つ。待っていれば、いつか機会は来ます。

こういったことは「機会を待つ」ということがとても大切。
待つことができて、覚悟を養うことができれば、苦しさは楽しさに変わります。
覚悟を養うことができるのが、大人であるということです。

感じるままに。