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『ゴースト・イン・ザ・シェル』

映画レビュー。
実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』
鑑賞はDVDにて。


『攻殻機動隊』は好き。そうとうに好きです。

ぼくは〈自然に在る〉といったようなところで生きていたいと願う人間ですけれど、さりとてバリバリにアーティスティックで人工的な世界に惹かれるところもあります。

人間誰しもそうですが、一筋縄ではいかない。
多様性と言い替えてもいいかな?


『攻殻機動隊』のシリーズは、数多ある人工的世界観を描きだした作品のなかでリアリティが感じられるものとしては、『PSYCHO-PASS サイコパス』と並んで最右翼だと思っています。

(個人的に)好ましくない方向のリアリティです。
好ましくないのに好きだというのは、矛盾というよりヒネクレと言った方がいいのかもしれません。



できることなら『攻殻機動隊』から語り始めたいのだけれど、もろもろの事情で割愛。ここでは実写とアニメの差異について、語ってみたいと思います。


本作は、違和感がいっぱいの作品でした。
それは作品がダメということではなくて――とくに優れたものだともおもいませんが――、実写とアニメの差異からくるもの。

〔アタマ〕の理解と〔からだ〕の受容の違いから生じる違和感というか。


主人公の“少佐”をはじめとして、主だった登場人物は人工的な身体(義体)ということになっています。生身の人間では不可能なはずのスーパーアクションが人工的な身体では可能だという設定が『攻殻機動隊』の「売り」ですし、本作もまたそう。その「売り」のところをCGなどを駆使して実写化してみせる。


違和感を感じたのは、その「売り」のところ。

アニメによる表現ならば、視角情報から湧き上がる情動と「売り」の間に特に差異は感じない。ところが実写になると、そうはいかなくなる。

これはアフォーダンスだな、なんて思ったりしました。


要するに、生身の肉体が生々しいわけです。
少佐を演じる女優の身体が。
端的に「エロい」。

扇情的という意味ではありませんよ。


女優のボディは鍛え上げられたものなのでしょうけれど、それでもどうしても「ムダ」がある。扇情的な表現の仕方をするならば、“むっちり”している。

比べるとアニメの方はスッキリしていてムダがない。機能的とでもいうか。


情報量の差でいうと「ムダ」な情報を受け取る実写の方が圧倒的に大きい。面白いことですが、情報量が多い方が〔からだ〕にまで届く。意識が感情としてモニタするほどのものではないにせよ、〔からだ〕に届いて情動を惹起する。

ここでいう「情動」とはアントニオ・ダマシオなどがいう意味において。


少佐が多脚戦車のハッチかなにかを力尽くで引きちぎるシーンがあります。物語の終盤、アクション作品ではお決まりの最後のドンパチで。

このシーンはアニメのほうにもあって、見覚えがあるシーンです。

人工的な義体はその負荷に耐えることができないほどのパワーをひねり出す。ハッチを掴んだ腕が引きちぎれるほどの。

腕が引きちぎれるとこらあたりはCGで目を惹くところであるが、〔からだ〕は特に感じはしない。その手前、バーベルを持ち上げるような姿勢で身体に力が入っていくところあたりは、画面の女優の身体の動きに同調してぼくの身体にも無意識のうちに力が入ってしまう。

そんな「同調」はアニメでは起きない。

「スゲえな」と〔アタマ〕は理解しても〔からだ〕は感じていない。〔からだ〕が感じるにはアフォーダンスな情報量が足りないのでしょう。


作品の全編に漂う違和感の正体を言語化してみるならば、

 「アフォーダンス(な情報)のいたずら」

とでも言うのが適切かもしれません。

「想像世界としてのリアリティ」を「現実世界のリアリティ」が阻害する。ぼくたちの〔からだ〕は「現実世界のリアリティ」を受け取りようにできていて、それがアフォーダンスということ。


では、そのズレはどのような意味を持つのか?

――と、さらに言葉を繰っていくことができますが、今回はやめにしておきます。また気が向いたら。

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