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無為自然とはいかない

前回、「たいそうなこと」は書きたくないなんて書いていながら...。

いえ、本当は「たいそうなこと」を書きたくないわけではないんです。書きたくて書くぶんにはまだいい。そうでなくても、大切なこと(自分が大切だと思っていること)を表現しようとすると、否が応でも、ごたいそうな感じになってしまう。

この「否が応でも」が嫌。


もうすでに、ごたいそうな感じです。



「無為自然」というのも、そういう感じです。
「たいそうではないこと」がごたいそうに表現されている。「表現」はどうしてもたいそうでないといられないところがあるのかもしれない。

「大切なこと」は「たいそうなこと」ではない
なんだけど、表現しようとすると、どうしても「たいそうなこと」になってしまう。たとえば『鋼の錬金術師』というマンガのように。「大切なこと」は「たいそうなこと」を語り終えた後にしか語りえない。そうでないと伝わらないから。

なぜ、そんなことになってしまうのか。
そこを語りたいから「哲学」だったりする。

われながら面倒くさい。




生き物はそもそも〈しあわせ〉になるように生まれついている。

犬や猫や、鳥のさえずりや花の姿形にぼくたちは癒やしを感じる。それは彼らが〈しあわせ〉だからです。彼らの〈しあわせ〉に感応して癒される。

鋭い感応力をぼくたち人間は持ち合わせている。

もちろん人間同士でも感応します。人間同士の場合はとても複雑になって、幸せ不幸せの、幅広い繊細なグラデーションのなかで感応がおこる。だから芸術というものがある。

そうした感応の中に身を委ねていると、優れた芸術なら、それがたとえ不幸せなものであったとしても、なにやら〈しあわせ〉を感じたりもします。

感応すること、感応する能力を発揮できることが〈しあわせ〉。


〈いのち〉は持てる能力を精一杯発揮できることに悦びを感じる。

これが「〈しあわせ〉の哲学」の第一のテーゼです。
そしてそれは「無為自然」ということでもある。

人間だって生き物ですから。
そもそも〈しあわせ〉になる能力を持ち合わせて生まれてくるはずです。

その「はず」がなぜかうまくいかない。
なぜか。
答えようとすると、哲学になるし、「たいそうなもの」にならざるを得ない。でも、本当は「そもそもなもの」なのだから、「たいそうなもの」ではないんですよ、と。

つまりは、「たいそうなもの」をたいそうでなくするために「たいそうもの」が必要になってくる。本当に面倒くさい。


でも、だからこそ愉しいということもあります。
持てる能力を発揮することは悦びだから。



『サピエンス全史』という本があります。

数多くの鋭い示唆に満ちた、とても興味深い本です。一昨年から昨年にかけて、広く読まれ絶大な支持を受けた。

本書によれば、サピエンス(人間)は「認知革命」というものを経験したという。

認知革命がどういったものだったのか、その詳細は記されていません。どうやら著者の仮説のようですが。

(ちなみに、1950年代からのものとは別物)


サピエンスはアフリカで出現した。
wikipediaによれば、14万3000年前±1万8000年のこと。それから「出アフリカ」が起きた。サピエンスが生まれ故郷のアフリカから他の大陸へと進出し始めた。

そのときに起きたのが認知革命。
「虚構」を操ることができるようになった。
「虚構」にもとづいて社会を構築できるようになった。

その効用は絶大なものだった。
サピエンスはもともと備わっている能力以上のものを発揮できるようなった。

サピエンスは集団で生き延びる生物種です。
もともと備わっている能力で150人程度の集団を営むことができる。
ひとりのサピエンスには、他の150人のサピエンスの個性を把握して適切な行動ができるだけの能力がある。

複雑な個性をもった人間を150人分も情報処理することができるなんて、厖大な情報処理能力です。厖大だけど、無限というわけではない。


認知革命で獲得した【虚構】を使えば、さらにデフォルトな150以上の集団、すなわち「社会」を経営できる。サピエンスは、その「社会」の威力で、当時ユーラシア大陸の西部に棲息していたネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)を駆逐した。

ネアンデルターレンシスは、デフォルトの能力ならば、もしかしたらサピエンスよりもっと多数の集団を形成できていたかもしれない人類です。人間関係を処理する脳の容積はサピエンスよりも大きい。体躯もサピエンスより頑強だったらしい。

なのに、認知革命を経たサピエンスの「出アフリカ」以降は姿を消した。姿を消したのはネアンデルターレンシスだけではなくて、マンモスをはじめとする大型哺乳類は軒並み姿を消した。


このあたりから推測されることは、サピエンスは「虚構」の威力で現在の(生物学的)地位を獲得したということです。

【虚構】の威力をもたない(素の)サピエンスの能力は、食物連鎖ピラミッドの中ほどあたりのポジションが精々なところだと推測されているらしい。

それには傍証もあって、サピエンスは子どもを産みすぎる。自然にサピエンスが子孫を残していくと、どんどん増えてしまう。ネズミにように。

生態系ピラミッドの頂点に君臨する歴史が長いゾウなどは、サピエンスほど子どもを産まないといいます。彼らには敵がいない。だから、種の維持に必要なだけ、子どもを産んで大切に育てる。

どんどん増殖するほどに子ども産むということは、その必要があったということです。そのくらい子どもを産まないと、種が存続できない。死ぬか食われるか。自然というのは、残酷な一面もある。



認知革命後のサピエンスには外敵はいなくなった。だからどんどん増殖し始めた。アフリカを出て、今では南極大陸以外の地球上のあらゆる陸地に棲息しています。

かわりに「敵」となったのは、サピエンス自身です。サピエンス自身が敵となるようになって、サピエンスは「人間」になった。

サピエンスが人間となり、文字を発明し、歴史が記されるようなった。歴史は、ほとんど戦争の記録です。



戦争をする人間を、「無為自然」だとは人間自身が思わない。けれど、戦争をしない人間とは「出アフリカ」以前のサピエンスで、子どもを他の野生動物に頻繁に食べられてしまうような境遇でもあった。いくら「無為自然」が良いからといっても、そんなところにまで立ち返るわけにはいかない。

といって、戦争が肯定されるわけではない。
大切な伴侶や子どもが失われるならば、生態系ピラミッドの中ほどに位置していた境遇となんら変わらない。人間自身がそうしてしまうという点では、より罪深いと言える。

もっとも、人間とて進化していないわけではありません。今や戦争や犯罪は人間を殺してしまう主要な原因ではなくなった。現代では、他人に殺されることよりも自ら殺すことの方が多くなった。銃で死ぬよりも食べ過ぎで死ぬことの方が多くなった。

でも、これもまたより罪深くなったと言えます。


「敵」が内面化してしまったということです。

サピエンスにとっては、他の生物種が敵。
人間には人間が敵。
科学革命以降の近代人にとっては、自分自身が敵。言い換えれば【虚構】が敵。サピエンスを「人間」たらしめた革命の成果が敵。


【虚構】は「たいそうなもの」です。
【虚構】は「たいそうなもの」でなければ、つまりは「権威」がなければ意味を為さない。国家も宗教も、それらがそれらと認められるには権威がなくてはどうしようもない。人類の大きな社会を支える経済活動の軸となる貨幣という虚構に至っては、無意識のレベルで権威が人間の中に染み入ってしまっている。

人類社会は、人間自身が滅ぼすか、より大きな力(自然災害、地球外生命体の襲来など)がなければ維持され続けるでしょう。そうなると、人間が生き延びる術は、新たに〈社会〉を作ることよりも、

すでにある社会に【適応】することになってしまいます。


近代人であるぼくたちは、親元から離れることができるようになると、学校へ行く。学校で学ぶのは、多くの場合、「自ら学ぶこと」ではない。「知っておくべき(と【社会】が判断したもの)を覚える」です。すなわち【勉強】です。

「知っておくべきだち【社会】が判断したものを覚える」ことは、【社会】に適応することに他ならない。そして、その【適応】を十分にこなすことができた個体にのみ、【社会】が「たいそうな人間」と判断した個体にのみ、〈社会〉を作る資格が与えられる

この「資格付与」こそが、人間が持つ最大の能力——〈社会〉をつくる——ことを妨げる。そして、持てる能力を十全に発揮することを妨げられて不幸せを覚えるということになる。〈しあわせ〉になるように生まれついているはずが、そうでなくなってしまう。


ちなみに。
【社会】が「たいそうな人間」だと判断することは「信用」といいます。一方で「信頼」においては、たいそうかどうかなど関係がない。むしろ人間は、相手がたいそうでないほど深く信頼をしたがる傾向があるくらい。というのも、そのほうが自身が持てる能力を発揮しやすいから。

言い替えれば。
 「信用」は【虚構】。
 「信頼」とは【虚構】へと単純化することができない〈実感〉というもの。


もはや「無為自然」では成り立たなくなっている【人間】の【社会】。

そうした【社会】に上手に適応することができれば幸福」を獲得することがでできます。が、時代を下るに従って適応が難しくなっている。学校がつらい場所になってしまう子どもが多いということは、そういうことです。

「幸福」は獲得するもの。
〈しあわせ〉は、そもそも「そうなるもの」。
妨げられさえしなければ。

「妨げるもの」が【虚構】です。
【社会】を成り立たせているもの。
【社会】を成り立たせているものに適応すればするほど、そもそも「そうなる」はずだった〈しあわせ〉からは遠ざかる。あるいは、十二分に【社会】と格闘し適応し終わったあとに「訪れる」。『鋼の錬金術師』に描かれているように。


だから【社会】に適応してはいけない、というのではありません。

ほどほどに。
自分自分自身に必要なだけ、適応すればいい。

といって、その「必要なだけ」が難しいのですけれど。
難しいから哲学だし、「たいそうなもの」になってしまう。

近代人は自然に「無為自然」にはなれない。
だから、「無為自然」になるように目指して〈生きる〉。
自身の持てる能力を精一杯発揮することを追いかけていくと、それはすでにして「無為自然」だし、〈しあわせ〉なこと。

「しあわせになりたいと心の底から願うことが、すでにして〈しあわせ〉」なのです。

感じるままに。