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g>rについての一雑察


トマ・ピケティの『21世紀の資本』。いっときずいぶんと話題になりましたが、この世界というか業界にも流行廃りがあるようで、今はMMT(現代貨幣理論)とやらでもちきりのよう。

それはともかく、「g」と「r」です。

「r」 ⇒ 「rate」(利回り)
「g」 ⇒ 「growth」(成長)

『21世紀の資本』は、資本主義とはr>gだと観測してみせた書です。『21世紀の資本』以前はg>rだと考えられていた。そう考えられてたのには理由があって、実際、そのように観測されていたから。サイモン・クズネッツというスウェーデン銀行賞(通称ノーベル経済学賞)を受賞した学者が観測結果を公表していた。ピケティは、クズネッツの観測が一時期の特殊な現象にすぎないということを示した。


ではなぜ、ある一定の期間、g>rだったのか?

『21世紀の資本』では、もちろん推察がなされています。いくつかありますが、主な理由として上げられているのは戦争です。国家が戦争を遂行するためには多くの国民の支持を得なければならない。戦争のために、富裕層も累進課税を受け入れざるをえなかった。つまり国家が再分配機能を果たしたがために、g>rだったのだということです。

戦争があったから平等になっていったなんて甚だ皮肉な話ですが、そこからピケティは戦争なしの再配分をすべきだという主張になる。至極ごもっともな主張です――が、残念ながらそのようにはならないでしょうと推測できる。それこそ「歴史を観測」してみれば。


ぼくは、いっときg>rだった主な理由は別の所にあるのでないかと思っています。

「r」や「g」は、どうやって観測されたか。流通しているお金の量を調べたのですね。お金の量の歴史的な推移を観測して、r>gという資本主義の大きな傾向を導きだした。至極まっとうな方法と結果です。

ぼくが抱いているのは、ほんとうにすべてのお金を観測することができているのか? という疑問です。観測漏れがあるのではないか。つまり、経済学的分析手法では可視化できないお金があったのではないか。

では、可視化できないお金とは? ずばり、「ツケ」です。


「ツケ」というのは庶民金融です。個人と個人の信”頼”創造によって創出されたお金――といっても、単なる「記帳」に過ぎませんが。記帳どころか記憶に過ぎないことも多々あったでしょう。

紙幣やコインといった「物質」を持たないデータが既にお金であるという認識は、現代人にはすでに常識です。フェリックス・マーチンの『21世紀の貨幣論』を経由したならば、冒頭に取り上げられているポリネシア・ヤップ島のフェイのように、人間の記憶もすでにお金であると認めなければなりません。

はたしてピケティは、庶民が織りなす経済の、ときには記憶によって保持されているにすぎないお金の隅々までカウントすることができたのか? この疑問を立ち上げた時点で、そこまではできていないだろうという推論もまた成立します。なんとならば、観測手段がないだろうから。

計測されないお金が存在したと仮説を立てるなら、そこから必然的にもうひとつの仮説が浮かび上がってきます。つまり、「計測されないお金」から「計測されるお金」への「入れ替え」があったのではないか?

その「入れ替え」がいっとき活発になった結果、g>rという観測がなされた。クズネッツはそこを観察したというわけです。

「借金」と「ツケ」は、一見同じようだけど、本質的には異なるもの(関係性)なのです。


お金が人間同士の関係性の一形態であることは、今や常識というべきものです。お金は信用であり、信用は関係性であるという三段論法。

信用は、いうなればパブリックな関係性です。パブリックであるということは、誰もが観測できる、客観的であるという事実によって裏打ちされている。逆に言えば、パブリックではないプライベートな関係性もありうるし、ヒトにとって大切なのはプライベートの方。プライベートの充実があってヒトとして満たされていることが、パブリックな人間としての役割を果たしていくための要件である――つまり、愛着理論です。

では、プライベートでパブリックには計測不可能な信頼は、お金にならないのか? そうではないということは『21世紀の貨幣論』が明らかにするところです。

貨幣論と愛着理論とは接続している。一見、相容れないようだけれど、どちらも同一の存在――ヒト・人間――が引き起こす現象なのだから、接続していないわけがない。

「ツケ」が「借金」に置き換わっていたということ、g>rという現象が観測されたということは、愛着理論にまで接続して考えるなら、人間の関係性がプライベートなところからパブリックなところへ置き換わっていったということになります。

プライベートがパブリックに置き換わってしまった世界では(観測できる)お金の所有の多寡が、そのまま関係の多寡に直結する。「金の切れ目が縁の切れ目」ということは昔から言われているけれど、そのような関係性のあり方が全域化してしまう、ということ。

そして、パブリックな資本主義のメカニズムの特性はr>gであるという事実がある。絶縁社会なっていくのも、当然至極でしょう。


決して「難しい話」ではないと思うのですけれど。というか、「見えるもの」しか扱わない科学というものが問題を難しくしているように、ぼくには見えている。


古代ギリシアのおいて、貨幣経済の浸透と悲劇の誕生とが並行して起きたという歴史的事実は、「難しくない」ということの傍証になると思います。ギリシアで起きたことは、中国で、ヨーロッパで、アメリカでも起き、今やグローバルな現象になっている。

が、それは必ずしも必然というわけでもない。反証例も存在しています。

日本の江戸時代中期から明治初期にかけて出現した社会の様相は、貨幣経済の浸透と同時並行で起きた現象でした。

ギリシアで起きたことと、日本で起きたことの、どこがどう違うのか。思うに、信創造と信創造の違いだったのではないかと。



貨幣論と愛着理論(≒論語)といえば、、

折を見て、触れてみたいと思っています。

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