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書きたいことの射程

書きたいことを書くというのは、とても大切なことだと思います。

ぼくは物書きというわけではないので、自発的に書きたいことを書いています。書きたくなければ書かない。気分が乗らなければ書かない。書き続けることを自分に課しているわけでもない。

では、書きたいことだけを書いているのかというと、それはちょっと違います。「書きたいこと」とは「書きたいことだけ」を指すわけではない。書きたいことの射程は、“書きたいこと”という言葉で指し示される範囲よりも広い。


書きたいことの射程の外側にはふたつの領域が広がっています。

・知らないこと
・知りたくないこと

図示してみると、こんなイメージです。

書きたいことは赤。
書きたいことの射程は外に黄、内に茶。
知りたいことは白。
知りたくないことは黒。

能力がないので2次元で図示しましたが、本当のイメージは3次元です。

書きたいことの赤を中心にドーナツ型をしている。知りたいことの白と知りたくないことの黒は、射程の外側でつながっている。白と黒の間にはこれまた境界線があって、その境界線は、かのエヴァンゲリオンの呼称を用いさせてもらうなら“ATフィールド”がうまく当てはまります。

拙い説明ですけど、イメージしてもらうとありがたいです。

中心が黒くなっているのは「自分自身のこと」だから。自分自身の本当のことって、ほとんどの人にとっては知りたくないことなんだと思っています。


「書きたい」という欲求には本気のものとそうでないものとがあります。その区別は、本気で書きたいと思っている人には実感としてあると信じる。そして、本気の「書きたい」とは「書きたいことの射程を広げたい」ということだと表現できると思います。

その上で、書きたいことの射程を広げるのにはふたつの方向性がある。「知りたいこと」を押し広げていることと、「知りたくないこと」を掘り下げていくことと。


現代、スタンダードなのは「知りたいことを押し広げる」ほうです。でも、こちらは歴史的見ると案外新しい。人類のスタンダードは長い間、「知りたくないことを掘り下げていくこと」の方でした。その方向性を指していう言葉がソクラテスの「無知の知」なんだと思います。

昨年出版されて大いに話題を呼んだ本のひとつに『サピエンス全史』があります。その下巻、第四章は科学革命についての記述ですが、冒頭の方にとても鋭い指摘がありました。科学革命は“無知の革命”だったというのです。

無知の革命以前、人類にとって「知りたいことを押し広げる」ことは重要なことではありませんでした。個人としてそれをした人はいただろうが、社会的にはさほど評価されなかった。それがコロンブスがアメリカ大陸を“発見”し、新しいことを知ることが、アフロ・ユーラシア大陸の西の端の当時は比較的貧しかった地域に莫大な利益をもたらすようになった。その成功体験が無知の革命を起こさしめた、と。

『サピエンス全史』には、象徴的な出来事として地図の変化について記述されていました。無知の革命以前の地図は未知のはずの地域も空白ではなかった。知らないのに既知であるかのように空白が埋められていた。革命以後、未知の地域は空白になった。空白が価値を生むという成功体験が空白を空白として表現させた。

もっとも、それは本当に空白であったわけではなかったのですが。


現代に生きるぼくたちは、ヨーロッパで始まった無知の革命の系譜を引き継いでいます。なので、射程を広げるときには、ごくふつうに「知りたいこと」は「新しいこと」だと考える。

“enlightenment” という英単語があります。“啓蒙”あるいは“啓発”と訳される。自己啓発はseif-enrightnmentです。

これは想像ですが、無知の革命以降「光をあてる」方向は180度変わったのだと思います。内から外へ変わった。日本語訳では“啓発”は内へ、“啓蒙”は外へですが、けれどわざわざ“seif”の文字を入れられることからもわかるように、外側がスタンダードになっている。そしてその基本姿勢は、内に向いているはずの時にも変わっていないような気がします。

すなわち自己啓発と言いつつも、構えは外側を向いている。知らない知識を新たに仕入れて、そのことによって光を当てる。でも、それがソクラテスが言った「無知の知」になっているかどうかは疑問です。

「自分探し」という行為がうまくいかないことが多い理由も、ここらあたりにあるのではないか? 「知りたくないこと」から目を背けるために「知りたいこと」を追いかける。確かに「知りたいこと」の世界は広大です。どこまで追い求めて果てに行きつくことはないでしょう。でも、そこに「自分」を見つけるだなんて、ダイヤモンドを探し当てるよりも難しいのではないかと思ったりします。


書きたくないことの射程を「知りたくないこと」に向けるのに必要なのは、現代では勇気です。そういえば“勇気”という言葉をタイトルに掲げた本も最近、話題になりました。

そうした「勇気」も書き続けることで自ずと培われていくのだろうと、これはそう、信じると書きたい。これはもちろん、文字を書くことだけではなくて、絵でも楽譜でもいい。表現したものが自分の分身だと思えるなら、その分身と向き合えば、それは自ずと「勇気」になる。そうなるに違いありません。


感じるままに。