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前口上~できることよりわかること

ウェブ連載始めます

今年に入り、株式会社デコの編集者の方から、看護師として働き続けてきたからこそわかったこと、というテーマで、まとまった文章を書かないかとお誘いをいただきました。

デコは、年に4回、調剤薬局などに置かれるフリーペーパー「からころ」を出しています。私は、2006年にスタートした「入院生活の基礎知識」という連載記事からのお付き合い。編集者の方からの質問を受け、その回答をまとめていただく仕事でした。

その連載も終わり、現在の連載はコラム。執筆前に編集者と対話をしながら書く内容を練っていく仕事の進め方は、社長である高橋団吉さんの、編集方針のよう。

言い古された言葉ですが、編集者は書き手にとって最初の読者。編集者との対話は、私自身にとっても、読者が何を知りたいのかをリサーチする、またとない機会になっています。

話を詰めるうち、ウェブ連載の形で始め、ある程度のボリュームになったら単行本にするのはどうか……。これは是非やりたいと思い、さっそく3月から始めることになりました。

私は紙に印刷された本を心から愛する者ですが、同時に、多くの人に届きやすいネットの力も強く感じています。今回組む若い編集者の女性とは、以前にも猫の腎不全についての記事をnoteに連載したことがあります。

情報を必要とする人に、広く検索してもらえるのは、本当にやりがいのあること。ウェブでの執筆も、仕事として行えたらいいな、と考えました。

4月からは月に2回、第2・第4水曜日にnoteを使って記事をアップします。今の所の予定では、第2水曜は無料記事、第4水曜は有料記事。しばらく連載し、単行本にする際には、有料記事も収録します。

これまで個人サイト、Facebookでの発信をしてきましたが、記事は全て無料。ウェブの有料記事は初めてなので、ちょっとドキドキしています。

さらにはnoteを自分で書くのも初めてなので……。まずは、自分が書こうと思ったことをきちんと書けますように。深く思考し、文章を練っていくつもりです。

医療、看護、ケアすること。そこでの人間の在り方など、関心のある方は、ぜひお付き合いいただければと思います。

第一回目となる今回は、この連載を通して私が書きたいこと、そしてそのように考えるに至った経過について、書いて参ります。

怒涛の1990年代

私は1987年4月から看護職として働き、その傍ら文章を書くことも仕事にしていました。ものを書くようになったのは、やはりノンフィクション作家、評論家として精力的に生きた母・吉武輝子(1931〜2012年)の影響でしょう。

母と同じように書きたいとは思わなかったのですが、小さい頃から書くことが身近で、チャンスに恵まれたのは紛れもない事実。母とは全く違う看護師という仕事を選んだものの、いろいろな成り行きから、書くことも仕事になっていきました。

看護学生時代から看護雑誌に連載を持ち、大学時代から始めたオートバイ雑誌のバイトも続けていました。オートバイ雑誌は年を重ねて続けられるとは思えなかった。これも、看護師になろうと決める1つのきっかけでした。

看護学生時代に大型バイクの免許を取り、CB750-Fで通学していました。

やがて看護職の不足が社会問題化すると、看護職の仕事に世の注目も集まるようになります。現場の声が求められ、取材や執筆の依頼も増えていきました。

そして、専門職以外の人に向けても、文章を書くようになっていきます。私が看護師になった頃は、世の中の景気が良い、いわゆるバブル景気の時代。看護職は<きつい・汚い・危険>の3K職場などとも言われ、不人気な仕事だったのですよね。

私が書いたものが最も多くの人に読まれたのは、1990年代でしょう。看護職を増やすために待遇を改善しようという社会的な動きがありました。

最も知られているのは、看護の日の制定です。もともと5月12日、ナイチンゲールの誕生日は国際ナースデー。日本においては、1992年、当時の厚生省によって、国民の看護及び看護職に対する理解を深めるとともに、その社会的評価を高めていくための記念日として制定されました。

また同じ年の6月には、看護婦等の人材確保の促進に関する法律(いわゆる「看護師人材確保法」)も制定され、職場によっては大幅な昇給もあったのです。

この時期、私も立て続けに本を出しました。1992年に看護雑誌の連載をまとめた「看護婦たちの物語」(弓立社)、1993年に「看護婦だからできること」(リヨン社)、1994年に「看護婦が見つめた人間が死ぬということ」(海竜社)。これらは現在全て絶版。ただし、他社の文庫に入っているものもあります。

これらの本が書かれた当時、1963年生まれの私は、30代に差し掛かった年齢で、看護師としては中堅に差し掛かり、色々悩みが出てくるところでした。

当時の職場は忙しい内科病棟。日勤で19時前に白衣を脱げない病棟で働きながら、よくあれだけの仕事をしていたものだと思ったりします。

その理由は、やはり体力に恵まれたことかな。夜勤明けで寝ずに活動できたので、かなり効率よく仕事ができました。

その後1997年に主任に昇格すると、勤務は日勤が中心。それ以降は、病院の仕事が重みを増していきました。それでも、連載や単行本なども、依頼があれば引き受けました。

当時一緒に働いていた同期から、後年こんなことを言われました。

「あの頃の宮子は本当に看護師以外の仕事が忙しかったでしょう。同期の中では、続けるのかな、辞めるのかなって密かに言ってたのよ。でも、ずっと続けたんだよねえ」

そんなに心配してもらっていたのか、と改めて感謝しつつ、こう返しました。

「いや〜、人気商売は依頼が来なくなれば終わりだから。母を見ていて、浮き沈みが大変だなと思ってた。書く仕事は、依頼がなくなれば終わるだけ。そう思って、執着せずに消えていきたいんだよね。だから辞めない。勤めが大事」。

これは今も変わらない気持ちです。

「看護婦だからできること」から30年

1990年代初めに出した3冊の本は、「看護婦たちの物語」が臨床を舞台にした小説、「看護婦だからできること」が、看護師の仕事に関連したエッセイ、「看護婦が見つめた人間が死ぬということ」は患者との関わりに焦点を当てたエッセイでした。

ちなみに当時、看護師は女性は看護婦、男性は看護士との名称で呼ばれ、男女ともに看護師という名称に統一されたのは、2002年3月1日から。この変更に伴い、文庫化に際しては本文は看護師で統一し、「看護婦だからできること」はタイトルはそのままにしました。

臨床を舞台にした小説、看護師の仕事に焦点を当てたエッセイ、患者との関わりに焦点を当てたエッセイという3つの仕事は、その後も連載や書き下ろしなど形を変えて継続していきました。

中でも「看護婦だからできること」は、のちにこの本を読んで看護師になった、との声を多くの方からいただき、私自身も働き続ける支えになった本でもあります。

ちょうど看護師として数年働き、一人前になってきた頃でした。労働に見合うか見合わないかは議論があるにせよ、生活できる給与はもらえるし、臨床は「この仕事をしていればこそ見ることができる」人間の現実に満ちているし……。

私は仕事がキツく、腹立たしいことがあったとしても、看護師になって良かったと思っていたのですが、この頃看護師の仕事は、先にも書いたように<キツイ、汚い、危険>の3Kのイメージで語られていました。

それが看護師人材確保法の制定や昇給につながった面もあるのでしょうが、一方で、自分が気に入って従事している仕事が、常にネガティブに語られてしまう。これは決していい気持ちではありませんでした。

1993年に出版された「看護婦だからできること」を執筆中、私が常に考えたのは、この仕事のよさを伝えること。これに尽きました。

それも、単にきれいな部分だけを伝えるのではありません。患者さんから嫌なことを言われたり、努力が報われないことはあっても、看護師の仕事には、私たちにしかできないことがたくさんあるのです。

こうした、いわば仕事のポジティブな面を書くのが、当時の私の狙いでした。それも、きれいごとは抜きにして。リアリティを持って、私自身の経験を書いたつもりです。

この目論見は成功したと言えるでしょう。しかし、看護師ができることを書きながらも、現実世界の私は、「経験を積んで、昔より知識も技術も向上したのに、思ったよりできることが増えない」と感じていました。

1987年から看護師として働いて数年、歳は30歳になる頃。私の前に大きな壁が立ち塞がったように思えたのです。

1997年、勤続10年の記念写真。当時はまだナースキャップがあり、「看護婦」と呼ばれていました。

できることよりわかること

その後私は周囲の支援や自ら求めた新しい道で、この壁に折り合いをつけ、看護師の仕事を続けてきました。この経過については、この連載で具体的に書いていきます。

ただ前もって種明かしをしておくと、この壁は乗り越えられたり、破られたりしたと言うより、まさに「折り合いをつけた」。そんな感じなのですよね。

そして今の私にとって、何より大事なのは、<わかること>。

壁を意識した始めの頃、私はよく、「どんなに私たちががんばっても、亡くなる患者さんは亡くなっちゃう」と思いました。その状況は今も変わりはありません。

どんなにがんばって看護をしても、命が救えない人はいる。さらにその死が穏やかでない人も少なからずいる。私は救えなかったし、穏やかに死なせてあげることもできなかったんだけれども、そうした人がいた事実や、自分たちが無力であったことは、身をもってわかった。これは、価値あることだと考えるようになりました。

看護師にとって大事なのは、できること以上にわかること。患者さんの命を救うことはできなくとも、その人の経過からわかったことは、決して奪われない。私たちはその経験を生かしていくことができるのです。

「看護婦だからできること」から、「看護師だからわかること」へ。この変化を振り返りながら、私の現在を書いていこうと思います。

2008年、看護師長時代。実習指導にみえた恩師の故関口恵子先生と。

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