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私が、公務員を続けることをやめれないのは、自分の中で自分を自分として肯定できてないからであった。①



5月に島根の上にある隠岐諸島の海士町(中ノ島)で高校生へ私の人生について、話す会開いてくれた。
本当に心から貴重な機会とお時間をありがとうございました。参加していただいた皆さま、本当にありがとうございました。お世話になりました。


私は、そこでもちょっと話したけれど、みんなに話すことによって、自分の中でまとまった“やめる“ということが難しかった話があるので共有したい。チラリと、追加公演を聞いてはくれまいか。

ここには旅の話がメイン。②からが本題なので、早く本題に行きたい方はこちらへどうぞ。

https://note.com/guuzenno_sawady/n/n3020ea397794

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5月。

“田植え“という寄り道で、海士町へ。
4月に理事の大野さんと学習センターですれ違った時に「田植え来るー?」とお誘いを受けたので、5月に島根→滋賀県へ向かう途中に、少し寄り道をして海士町へ立ち寄った。


本土から、船で片道3時間半かかると、海士町へのアクセスを初めて聞く人に説明すると、「!?」と、期待された反応を示してくれるものだが、私は何を隠そう、この立ち寄りの前に、島根県の日本海側の背中の部分?を端から端へ移動し、山口県から鳥取県へ5時間半の電車の旅を“うっかり”してしまったので(1時間半くらいかと思って、軽く友人宅に晩御飯を食べにいった。ら、5時間半。)3時間半など大したことではなくなっていた。


海士町については、他で熱く語るとして、今回書きたいのは、お世話になった高校生へのみんなへのメッセージである。お世話になった、というのも、私の拙い話を真剣に聞いてくれ、大変有り難かったという話である。


海士町は、教育による地域創生のトップランナーで有名であり、私も12年前に朝日新聞の特集で知った。島にある唯一の高校、島前高校は、15年前廃校の寸前にあった。高校がなくなると言うことは、高校生が島からいなくなるだけの話ではない。高校生は本土の学校へ通うこととなり、ひいてはその家族も島外へでて行くこととなり、世帯単位での損失は島存続の危機だった。


そこから当時の島の教育を中心とした政策により、奇跡のV字回復を遂げ、(政策の過程については、本になってます。)今では全校生徒200名弱になった。
その際、高校はあれど、島には塾がないということで、公立塾も作られ、隠岐國学習センターという、いわゆる勉強・勉強の学習塾というよりは地域社会に根差し、島全体を学習場所と捉え、生徒のやりたい事にフォーカスして大人たちが支えていくというようなスタンスの塾である。(ねえ、みなさん、私の理解合ってますか!?(笑))


そんな、楽しげなところは新聞で知ってしまった当時、高校を卒業してブラブラしていた私は、「ここで島前高校生に話を聞きたい!ここの大人と会話したい。地元の方々はどう考えていらっしゃるのだろう?」聞きたい知りたい話したい、という好奇心がむくむく湧き上がり、数年後に大学生になっても忘れられず「とにかく、好きだ。見学させてくれ。」と隠岐國学習センターへ連絡することとなる。(その時の窓口が中根さん。)(当時は、大人の島留学は制度がなく。体当たり。)


今でさえ、考えたら計画を練って半年後くらいには実行に移すものの、当時は連絡するのに何年もかかった。それは、「この何もない私が連絡して何になるのだろう。」「私は知りたい欲があるけれども、何を対価に差し出せばいいのだろうか。」「こんな国のモデルケースにもなっているところに、私は何ができるのだろうか。」と、連絡するのを何年も躊躇っていた。


やっと、大学で中高の教員免許を取得し、「私、教員免許あります!塾のアルバイトも何年もやって色んな生徒を教えてきました。島前高校生の皆さんのサポートに少しでも回れるかもしれません。見学させてください。」


結果、始めて島へ行ったのは6年くらい前になると思うのだけど、行って数週間居候させていただいて(よく言えばインターンということで!笑)私ができたことは、何もなかった。

教員免許取得見込みでも、そうでなくても、島の皆さんは優しく向かえてくれたし、塾のアルバイトの経験は活かせたかもしれないけれど、私がgiveできたのは0.01%、

あとは、みんなの日常生活や会話、在り方、想い、高校生のみんなの姿勢、島の政策と現状、役場の方々の想い、町長のお話、歴史、地元の方々の話、島からいただく方が99%を占めた。


帰りの船では、私の躊躇していた数年はなんだったのか。
自分で自分にリミットをかけ、何者でもない私が島へ何かgiveできるなどと思っていた自分のおこがましさと向き合った。
そして、同時に何者でもない私を一人の人間として受け止め、向き合い、心を開いてくださった島の全員に心から感謝した。その上、私のような謎の人間がフラット来ても、受け入れてくれるような土壌作りに心血を注いできた先人方々の歩みにも感謝し、島を遠くに見て、一人甲板で、海の上で涙が止まらなかった。



そうか。何者でなくてもいい。免許もいらない。
私は、私の興味関心があることを積み重ねていって、それを信じるだけでいい。
そうやって生きていけばいいんだ。

私は、船上で島で感じたことを腑に落とした。
が、腑に落とした気になったいただけかもしれない。
ここで、物語が綺麗に終わらないところに、自分に強いクセを感じる。



私は、東京に帰ってきて、公務員になった。

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