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千葉雅也『エレクトリック』

千葉雅也の小説作品はそのすべてが同一性と差異をめぐる書くことの試行におもえる。いや、それをいうならむしろ小説というものじたいがそもそも同一性と差異の奇怪なキメラだというべきなのかもしれない。ひとりの書き手により「ただ書かれ」、リニアにつむがれているはずの文章が、気づけばいつのまにか「べつのもの」をふくみこんでいる。小説を書き、あるいは読む体験の神髄とはこの差異を同一性のうちに、あるいは差異のうちに同一性を書き/読みこんでいくことなのではないか。そういえば町屋良平が千葉の第一作『デッドライン』に寄せた名文中の名文「ズラされつづける身体性 千葉雅也『デッドライン』論」(のち文庫版の解説として収録)でも、まさにこのことが取り沙汰されていたようにおもう。

映画と同様にライブシステムの欠如は宿命を帯びたかたちで小説に配置されている。[…]小説を書くということはどれだけ即興性や偶発性に身を委ねていても、そうした小説の時差を前提とした制度にのみこまれる。書かれる前に戻ることはできない。書かれる前にあったものをなるべくそのままのかたちで書いていく未了の感覚を維持するのは技術であり書き手それぞれの身体に応じた操作が必ず発生する。それでも書かれたあとでは事後のものと結びついてしまっている。まるで書かれる前のように書く。こうした時差を前提とすることで、書き手と読み手それぞれがそれぞれに届きえぬ部分が発生し、さらに届き得ぬ部分においてのみ交換されるものがある。そこでなされる交換を託されたものが、小説の非ライブ性が要請する外部となり、外部の見つけられない小説が良いということはありえない。

(『デッドライン』文庫版解説、P.207-208)

哲学者であり、エッセイや美術評論や啓発的文章、そうしてツイッターと、書くもののフィールドを制限しない書き手にとり、まずもって小説を書くことはそうした隣接領域との「同一性と差異」をどうかんがえるか、という問題からはじまったはずだ。自己領域から小説を差異化すること、あるいはその差異化のプロセスそのものを小説とすること。それで書き手は「わたし」そのものをふるいにかけるように私小説という領域を散策しはじめた。そこにおのずとかれのセクシュアリティも浸潤し、同一性と差異、男性性と女性性のあいだでぶれる、その性のゆらめきそのものが小説的な記述をおりなしていく。それで第一作『デッドライン』では、院生生活のモラトリアムともかさねられた、熱帯魚のような「回遊」の日々=記述から、だしぬけにそれが中断=差異化を余儀なくされる瞬間がえがかれていた。その末尾に発せられた《僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ。》(P.196)という言には、そうした書くこと=差異化の過程それじたいが、外部からのカテゴライズを逸れつづける自己存在そのものだ(そのものでしかない)という自己再帰的な肯定がおりこまれてもいた。

小説は書かれる瞬間に著者によって固められた認識の連続なので、その認識の固まる一瞬とことばが以前の文をうけてあらたな文となる流れをつくる直感がようやく小説を「いま/現在」にする。反対に書き手のなかであらかじめ固まっている認識を巧みに細工するほど読者の認識にとっては遠い事後となり、伏線の回収など記憶や感情の操作がしやすくなる。『デッドライン』の文章は徹底して流れにあらがわないようであり、書かれる前より書かれたあとのほうが認識をほぐして戻してゆくような手触りがある。文章にされることで、より認識がほぐされてゆく。こうしたブヨブヨした感覚が『デッドライン』という小説を強くしている。

(同上、P.212)

町屋のいうこの「近さ」「遠さ」という区分をかりれば、第二中編『オーバーヒート』にあったのは「近さ」の問いなおしだったのではないか。語り手が大学教授になっていて、作中の時制レベルでもっとも書き手の「現在」にちかいというのもそうだが、それ以上に発話などの「現下の(生きた)言語行為」と、「文字を書くこと」との位相差がこの小説では審問にかけられている。ほとんどツイッター中毒のていで、周囲の喧噪を避けるように「文字の壁」へとじこもる語り手の大学教授は、現下の発話行為にあまりにも似すぎているツイッター=文字の世界の論理加速(大谷能生の近著『ツイッターにとって美とはなにか』も参照――好著)のなかで、たびたび「オーバーヒート」寸前になる。《くだらない! 言語は醜い!/言語を捨て去りたいのに、言葉がブロック塀になって僕は生身の体がぶつかりあう空間から隔てられている。あの男たちが跳梁する空間から。/言語は存在のクソだ!》(『オーバーヒート』文庫版、P.52)

この近視眼的な「近さ」にたいし、しだいに「遠さ」を構築していくのが、恋人=晴人との宙吊りの日々(や、作品後半に付された地元の友人たちとの再会)。晴人の返信はおそい。そのことが語り手を煩悶させ、ときに「男を買う」急進行動へも駆りたてるのだが、こうした「遅延」がしだいしだいにツイッター的な偽の「現下」をとおざけ、最後にしぜんな発話を語り手へともたらすことにもなる(そのきっかけとなっていたのが、車の「オーバーヒート」――これが原因で新幹線での帰省=「遅延」が確定し、またその帰省を機にツイッターからもしぜんとおざけられたのだった)。さしあたり結婚というゴールもない男たちの恋愛は《共に、少し遅めに落ちて行くことだ》(同上、P.188)と作中、しめされるが、この物理的な力感をもった減速=差異化こそが小説、あるいは小説的な生だともここでは述べられているかのようだ。それはツイッター的な偽の「現下」とはちがう。だから《「じゃあ今すぐ死ねよ」》という、たとえばツイッター上で目にしたのならばそくざに憤慨を巻き起こすような「現下」への誘発も、ゆるやかにつむがれてきた小説の時間を経た、生きた言語行為のなかではどうしてかすがすがしくかんじられてしまう――これもまた小説だけに特権化された「未了の感覚」だった。

それで三部作といっていいのかはわからないが、これにつづく第三中編『エレクトリック』をこのごろようやく読んで、これは上記の区分でいえば「遠さ」の再考――「遠さ」に「近さ」を付与し、小説時間を攪拌すること――がもくろまれているのではないか、とおもった。比喩的にいいかえれば、『オーバーヒート』で谷底に落とされるあの「ガラスの小瓶」をいち作品大にまで拡大・敷衍していったものが、『エレクトリック』という小説なのではないか。

第一に「遠さ」をおもわせるのは、この作品が『デッドライン』よりさらに過去の時制、書き手/主人公が高校生だった一九九五年を舞台にしていること。想起が記述をおりなす点は記憶の刹那的なうつくしさをえがいた傑作短編「マジックミラー」と共通しているが、とうぜん地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災の直後であり、平成不況のさなかでもあるこの年――テレビで『エヴァ』がながれている場面も反復される――は、これまで信じられてきた昭和的な時代の基礎=同一性がだしぬけにゆらぎ、不気味なもの=差異がにわかに露出してきたタイミングにも該当する。この鋭敏な時代意識にはなかば「平成論」的な意匠もかんじられ、前二作とはことなる作品との距離感をおもわせる。

人称的にも「遠さ」は知覚される。今作では(ほぼ一人称的なもちいられかたとはいえ)あらたに三人称が選択されている。主人公にあたえられた名=「志賀達也」には作者名=「千葉雅也」からのスライドはむろん「志賀直哉」からの流入もみうけられる。おのずと文学史への目配せをおもってしまう。だから『デッドライン』につづき登場する親友=「K」との関係には、いまひとたび漱石『こころ』との距離も意識される。

さらに父親との関係に、明確な「オイディプス的構造」が意識されているのも新規だ。主人公=達也はおのれの父親を「英雄」にして「友達」として慕っており、みずからを「王位継承者」と自認し、その「哲学」に全幅の信頼をおいている。女性の焦点化のされかたもこれまでとはちがう。母親はこの父と息子の関係にたいし、「他者」となる。《達也の母は、この家に、血のつながっていない他人としてやってきた。達也自身はここで生まれたのだから、母がただ一人特別な存在なのだということが、ずっとわからなかった。[…]母はこの家ですべてを再開した。すべてが一度空白になった人なのだ。》(『エレクトリック』P.52)。後述する妹もまたしかり。そもそも家族をはじめとする複数人物により、作品に「複数性」がもりこまれている点もあたらしい。ここには「遠さ」が、つまり物語的「構造」への意識がつよくみられる。

小説家としてのあらたな挑戦という視点はむろんだが、それ以上にここでは、自己史をふるいにかけることで、既成の構造そのものにたいするハック――あるいはドゥルーズふうにいえば「おかまを掘る」――試みがなされているのではないか。しかもそれは町屋が懸念していたようなたんなる「カウンター」の悪弊ではない。自己の描出それじたいが時代の剔抉作業とイコールになるような「磁場」を書き手は設定している。それが一九九五年という時制だった。おぼつかない性の目覚めと、地上をおおっていたメッキがはがれ、「不気味なもの」が猖獗しはじめた時代状況とが重複しており、そのゆらぐ磁場そのものが亡霊めいて怪電気を発している――その「予兆」的な不穏を、「遠い」想起的な記述のなかから引き当てる記述を、ここで書き手は選択したということだろう。そう、それは「とおいのにちかい」。

オウム事件もテレビドラマに等しい。家も学校も、テレビの向こうとは関係ない。生まれ育った場所はそのままなのに、それ以外が急に地滑りを始めたみたいだった。それでも、かすかな揺れがどこからか伝わっているのかもしれなかった。

(同上、P.18-19)

構造がつよく意識されているといっても、連想が電流のようにエピソードをつないでいく「ズレ」の記法は変わらずすばらしい。「ところで」と話題がだしぬけに切断/接続される瞬間に、映画の編集にも似た奇妙な力感と高揚がいつもふくみこまれる。エッセイ的なゆるさもたもちつつ、訥々とした書きぶりにはハードボイルド小説のような風合いもおもわれる。他方でその記述が想起によるというとき、とりだされていく記憶の「やわらかさ」がぜんたいを浸潤している感触もある。しかも記憶精度はおそろしく精緻で、そこにおのずと驚愕も付帯する。いっけん「ただ書いている」ようにみえる小説時間に、こんどははなから「遠さ」=狡知がしのばされている――この磁力をふくんだ状況設定にまず動悸してしまう。

冒頭の「電撃的連想」のありようなどとりわけみごとだ。《夏の終わり》《なぜだか雷が多く、「雷都」と呼ばれたりする》《栃木県宇都宮市》《幼い頃、雷が来ると蚊帳の中に逃げ込んだ》《母のその思い出》《蚊帳の網》《両親がいつから二人で寝なくなったのか》《幼い頃は、両親と川の字で寝ていた》《その三本の線を真上から見ている、見たことがないはずの光景》《達也が生まれてから幼稚園のあいだ住んでいた和風の家》《その天井の真ん中にはコンセントがあった》《それはタコのようにクモのように脚を伸ばしている》……(P.4-5)。切断と接続が不分明になった記述のなかで、雷‐又聞きした母の思い出‐両親の性的関係‐「三」という数字の線‐電線‐コンセントへの「接続」――と、視覚像、他者、ひいては自己の存在以前の世界をも顕現させながら、電撃それじたいのように書きつらねられている。「生成」的記述がへいぜんともちいられているのだ。

しかもそこにはおもいだされないもの=「幽霊」も付帯する。そのさいたるものが「妹」だ。いま述べた記述の末尾では、小学校にあがるかあがらないかの時期に家を建て替え、達也の部屋ができたことで両親がふたりきりになる期間があった――だから、その時期に妹をこしらえたのではないか、と達也は推測する。だが年齢的には家を建て替えるまえに生まれたはずで、なにとなればともに越してきたはず。でも《そのはずなのに、どうもその存在がぼんやりとしている》(P.6)。妹はあたかもとつぜんあらわれたかのようにその出所がわからない。あの雷のように。じっさい電撃的な記述の切断/接続のなかで、まさにその雷と妹が「モンタージュ」される瞬間もある――

 その夜、雷が来た。
 蛍光灯に白々と照らされた和室で、チョコレートの板ほどのビリヤードの上を、すぐなくしてしまうのが明らかな球が転がって、気ままにぶつかり合っていた。そのとき外が紫色に光り、雷が鳴った。
 大して面白い遊びではなかった。だが、せっかくおばあちゃんに買ってもらったのだから大切にしなければと思った。そう思うのが重たく、うっとうしく感じられた。いつの間にかその存在は忘れた。手元からなくなっていた。
 その代わりに、妹が登場した。

(P.70)

文字どおり球の電撃的な連鎖のゲームたる「ビリヤード」が配剤されていることも偶然とはおもえない。連想=ズレの記述のただなかで、気がつくと手もとにあったものはなくなり、いなかったはずのものが存在している。スイッチをオン/オフしたかのように。それが想起記述という「遠い」磁場のなかで――記述そのものはほんらいリニア=線的な時間を形成する、アナログな営為なのにもかかわらず――なにか電気的な、デジタルな感触をひきおこしている。

作品時間のなかで発見されていくのはこうした「盲点」の刻々だともいえる。妹の出生時期。達也のセクシュアリティ。言われるまで気がつかなかった笑い方のクセ(と、それをからかう者の存在)。家からみえる線路の向こうの世界。深夜のチャットを介してみつかるゲイの世界。東京の裏地を縫うように点描された「ハッテン場」地図。あたらしく建て替えられた家に隣接した、旧家の名残=父親の「スタジオ」。その「スタジオ」で達也がコッソリみたアダルトビデオのモザイク。父親の親友=「野村さん」の出現/消失に課せられた空白の時間。同級生のセクシュアリティ。パソコンのモニタの向こうのチャット相手が送ってきた粗い顔写真……。一九九五年という移行期の喧噪が、いまみえている世界の向こうにあった、広大な潜在領域の存在をふしぶしで露岩させる。その機微を、作品は個人史とからめた記憶記述の切断/接続作業のなかでみごとに切りとっていく。アナログとデジタル、旧家と新家、田舎と都会、宇都宮と東京、母親と父親、男と女、友達と性的対象、ホモソーシャルとホモセクシュアル――そうした二項関係の「あわい」にたちあがる「幽霊」として。

だから影の世界の露出は、とうぜん死の露出ともかさなる。達也のパソコンがはじめてネットに接続される瞬間の、記憶からひきだされた「音」の描写――

 加藤がボタンをクリックすると、ポパパポパパ、とすばやく番号を叩く音が最初にした。やっぱり電話なのだ。それから、ピー、キュルキュルと、今度はラジオのチューニングに似た高い音が続く。そしてザーっというホワイトノイズになり、それはテレビの放送終了後の砂嵐のようで、それが少し続いてから途切れ、無音になった。
 大気圏を抜けて宇宙に出たみたいだった。
 ひとつの命が終わったみたいだった。

(P.37)

この《儀式として》《三段階でギアチェンジするノイズ》を表現する直喩が、《大気圏を抜けて宇宙に出たみたいだった》《ひとつの命が終わったみたいだった》と、二重=「ふたつ」あることが不気味だ。それは「超出」と「死」とを同時にふくんでおり、前進でも後退でもない、時間性そのものの流出をあらわしているからだ。同一性と差異の弁別がない――そう、ここではもはや小説的記述は詩に漸近しかけている(それは「超出」であり、同時に小説としての「死」だ)。だから「ヤバい」。このデジタルな磁場が、作品ぜんたいに敷衍されているのだった。

それだけではない。作品にはもうひとつ――というより順番は前後しているが、いちばん最初にあらわれる、最大の「電気的」アイテムが配剤されていた。それが達也の父親の趣味で、取引先との交渉材料となったり、最終的には「野村さん」とのあいだでのサスペンスをつくりあげる「オーディオ」だった。戦前アメリカの名機「ウェスタン」――それはかつて映画館の音響設備にもちいられていた――は、サウンドの生々しさにより陽炎のように、そうして幽霊のように「ないのにある/あるのにない」存在をその場にたちあげる。

「そのシンバル、そこ!」
 達也の父はよく、視聴しながら、スピーカーの間に囲まれた空間の、どこかの一点を指差した。評価の基準は、指差せる先が「見える」かどうか、なのである。幽霊が出現する。ウェスタンのすごさは、音楽を聴かせるというより、幽霊を見させることなのである。

(P.34)

このオーディオによる、「ないのにある/あるのにない」存在をたちあげる構造が、この作品ぜんたいが屹立させようとしているものとも、そっくりそのままかさなりあう点は確認するまでもない。

これをふまえ、あらためて作品冒頭の第一段落にたちかえってみよう――

 手を近づけると、紙が後ろにスッとさがった。
レシートを折って折り目を奥にし、こちらへと図書館の古びた書物が開かれているみたいに、あるいはそれがひとりでに閉じようとしている、みたいにその小さな紙きれを机に立てた。そして達也は息を呑み、指を揃えて左、右の頬をなでて前に降ろすと、レシートは後ろにスッとさがった。空気を少しも揺すぶらないように、静かにすばやく手を下ろした。なのに、紙が動いた。
「ハンドパワーです」
と、サングラスをかけたマジシャンがテレビで言った。

(P.3)

ほんとうにみごとな導入だとおもう。ここでも《こちらへと図書館の古びた書物が開かれているみたいに、あるいはそれがひとりでに閉じようとしている、みたいに》と比喩が二重=「ふたつ」になっており、左右のサウンドを振り分けるようにして「立体」=「机の上に立てられた紙切れ」がそこにありありと意識されている。《開かれている》《閉じようとしている》の並列も矛盾をふくみつつ、静止状態と運動状態の「中間」をあらわす。ここでも時間性が流出している。むろんドゥルーズを召喚するならば、折り紙は「襞」の典型でもあるだろう。潜在領域を噛み込んだ多様体――だからじつはこれじたいが、この小説作品を展開した全体図を明確に「凝縮」した構造体たりえている。

くわえてテレビを観、マジシャン(Mr.マリックだろう)の真似をして紙を折っている達也のすがたは、そのままテレビ越しにテロルや震災の情報と「接続」されたり、ネットを介して未知の世界へと「接続」される、「とおいのにちかい」その後の展開をもすでに予見している(このマジックのタネが「静電気」だという点も付言しておく)。しかも第一文、《手を近づけると、紙が後ろにスッとさがった。》がテレビの向こうのマジシャンによる手本の指摘だと判明するまでには、記述のうえで微妙なラグ=遅延があり、冒頭から小説を読みはじめた者にとっては、テレビの前にいる達也の位相が微妙にわからない。「いないのにいる/いるのにいない」――それはこの、書き手と一致するはずの達也じしんにも敷衍されており、じつは小説という構造じたいがすでに幽霊的=電撃的だという示唆が、この段階から準備されていたのではないか。

だから『デッドライン』の、あの「生成変化」を模したような移人称をも彷彿させる、「視点の脱臼」という構造的な陥没点も作中、現出する。それはタバコをみつかった妹との、数学の勉強を教える会話の微妙さのなかで、達也が《なんだか心細いような気がした。急に部屋がだだっ広い空間になり、誰かが足早に先へ行ってしまい、自分は取り残された小さな子供となり、迷子になり、ママ、ママ、と泣き叫び始めるあの感じが思いだされてきた》(P.92)直後、いきなり準一人称が破断され、達也の父視点でのエピソードが挿入されることで生じた。そこで達也の父は以下のように述懐する。

営業車の白いワゴンの横に、順子さんの黄色いポルシェ911があった。こいつが到着する音は相当でかいはずで、聞こえてもよかったはずだがと、達也の父は思った。どういうわけか、ぼんやりしていた。彼は、すべてが遮断された時間の中にいた。真空の時間だった。社長室はその間、宇都宮でも東京でもない、どこでもないところに存在していた。

(P.94)

作中、直接引用されていたアニメ作品は『エヴァ』だが、こうした不穏な細部はむしろそのすこしあとの『serial experiments lain』に似ている。小説ならば柴崎友香やドン・デリーロとの近似もおもった。こうして時代の不穏、性へのおののき、それらが露出させる世界の潜在領域の存在は、最終的に書かれたものの基盤そのものをも破壊していくにいたる(それが作品ぜんたいの「オチ」にもむすびつく)。もうひとつ、驚愕とともに爆笑をさそう、小説のシステムを自壊させてしまう強烈な細部が後半に用意されているのだが、これは直接引用はしないでおく――ただ比喩的に、その瞬間「ギアが急上昇する」とだけいっておけば、わかるひとにはわかるはずだ。

ほか、作劇上でも意表をつく陥没点が、達也の同級生=「阿久津」をめぐる挿話に配分されている。これも詳細はいわないでおく。ただし達也と阿久津と、チャット相手の高校生とのあいだに交わされる同一性=鏡像関係とそのなかでゆれる差異は、すでにそれだけでひとつの強度を達成している。じつは読みながら構造(の破壊)の出現に立ちあい、いちばん驚愕したのはこのエピソードだったかもしれない。作劇的だとわかるがゆえの強烈な悲哀――むろんこれも新機軸で、そうした細部までもが多元的に配置されていることじたいに驚愕させられた。

ながくなったが、最後に「映画」との隣接関係のみを語って終わる。冒頭に付した町屋の引用がいうように「ライブシステムの欠如」という点で小説もまた映画との共通項をもつが、それにしてもこれまでの作品にもまして本作には「映画」が印象された。それは切断/接続の不分明な「編集」的文体や「映画的演出」の妙はむろん、終盤に配置されたチェイスシーンだとか、あるいは場面のふしぶしに当時勃興しはじめていたJホラー(とりわけ黒沢清――終盤の、いきなり部屋のなかに「野村さん」が出現する場面など『ニンゲン合格』のワンシーンをおもった)の雰囲気をかぎとれた点でもそうなのだが、むしろ作品が超出しようとしていた小説の外部にあるのは映像であり、とりわけ映画へ「生成」しかけている雰囲気をかんじたのだ。幻影をたちあげるウェスタンは映画館でつかわれていた。第二オリオン通りの最果てには映画館があり、そこではスピルバーグ作品をみた、と達也はいっていた。著者の知己でもある濱口竜介とのコラボ、あるいは映画脚本領域への進出をおもわず「幻視」してしまった。

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