ほとんど100パーセントの朝に【3】

彼らは(あるいは彼女らは)生きるために咲き、鳴き、咲いて鳴くために生きているのだ。
 僕が部屋に戻ると沙羅はすっかり眠っていた。僕は今見てきた様々のことを彼女に話して伝えたかった。僕はまだ小説家じゃないから、上手に言葉で彼女の瞼の裏に朝日を描くことはできないかもしれないが、それでも僕はそう試みることを望んだ。全ては彼女が目覚めてからだ、と僕はおもった。4月にしては寒い朝だった。
 今日が日曜日だということに気づいて(もちろん、だからこそ沙羅を呼んだのだが)僕は、彼女の眠るベッドに戻った。今日は昼まで二人で眠るつもりだった。
 ベッドの中で彼女は、死んだ鳥のように静かに丸くなって目を閉じていた。僕は背中から彼女を抱えるように横になり、目を瞑った。うまく眠れるとは思わなかったが、昨夜のまずいウィスキーのせいで頭ががんがん痛んだのでしばらくこのままでいようと思った。
 僕と彼女の呼吸はゆっくりと一つになって、やがて溶けた。沙羅は、なぜか、安心して寝息を立てていた。部屋に太陽が差し込むことは決してなかった。この部屋の中だけは、いつまでも夜が続くような気がしていた。
 彼女が目を覚ましたのは、それからどれくらい後だったか僕はもう覚えていない。
 彼女はいつも通り、足の指の先から目を覚まし、確かめるように下半身から順番に世界に戻ってくる。彼女の意識が足の小指から瞼に到達した時、彼女はゆっくり目を開けた。まるで桃源郷を見る少女のような澄んだ目で、僕の濁った黒目を見つめる。
 蒼くん。
 うん。
「おはよう」
 彼女は、僕がまだそこにいたことにホッとしたように言う。もう一度二人の朝がやってきたことを、しっかりと記憶に馴染ませているようだった。
「蒼くん、今日何曜日か知ってる? 」
 日曜日。
 彼女は、僕にキスをした。それから僕が彼女にキスをした。彼女の唇は柔らかく、温かかった。彼女は僕の唇をかさかさだ、と言った。そして、僕はキスが下手だ、と彼女はいつものおどけた声と目で言った。
 
 彼女と僕との間には、聡という男がいた。沙羅は二人の男を愛した。僕と沙羅が公園でブランコに乗っていた夏、聡はたまたまやってきて、沙羅と出会った。聡と僕は中学からの同級生で、よく一緒に映画を見に行ったり、球場に野球を観戦しに行ったりした。聡と僕は互いに敵のチームのファンだったから、球場に着くと反対側の席で応援した。負けた方は悔しいから明日も付き合え、と言う。それで、結局3連戦全てを見に行くことになったりした。多分クラスの中でも、ずいぶん仲のいい2人に見えていたんじゃないかとおもう。僕は趣味が似ている友人ができて嬉しいとおもった。
 聡は賢い男で、世界のことをよく知っていた。道を歩きながら、あれは悪い金貸しだから間違っても関係してはいけない人種だとか、このお店は24時間空いているから困ったらここに行くといいだとか教えてくれた。小太りの優しい店主がいる小さな中古レコード店に連れて行ってくれた。音楽は聴くためにあるんだ、聴きながら歩いたり料理をしたりするためにあるんじゃない、というのが彼の持論だった。では、電車や飛行機で移動しながら読む本も存在しないし、喋りながら食べるランチもないのか?と僕が尋ねると、そうだと答えた。小説は読むためにあり、ディナーは食べるためにあり、人は一人の人を愛するためにあるのだと言った。彼は一貫した男で、例外を認めることを嫌った。そのことが、彼を100パーセントから遠ざけた。しかしそれを除けば、彼には望むべき全てが備わっているように僕には見えた。
 沙羅はよく布団の中で、聡くんっていい人ねと僕に言った。はじめ音が同じ「蒼」という名の僕は混乱したが、彼女の目で、それが聡のことであることがわかった。僕はそれを聞くたびごとに、そうだな、と答えた。その言葉で数度のキスが減ったかもしれないが、彼女はそれに気づかなかった。
 僕は沙羅と聡のある種特殊な関係に気づいていた。しかし、二人が僕のいないところで会い、寝ているという事実までたどり着くのに僕は1年間を要してしまった。1年という時間は、(特に恋情を抱えた二人の間では)北国の秋のようにおそろしく速く、激しく過ぎ去る。

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