火星人と花の色【10】

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 そうして僕は浴室で顔を洗って、歯を磨いた。それから髪を直して、彼女の部屋を出た。踏切で遮断機が降りる音が、聞こえた。もう二度と、彼女の部屋に行くことも、彼女と出会うこともないだろうと考えていた。途中、鳩が僕の足元にやってきたから、僕は小声で話しかけてみた。君は何を考えているの? 鳩は少し首を傾げてから、向こうへ行ってしまった。
 彼女は僕が部屋を出る瞬間、おやすみ、と言った。いや、それを言ったのはあるいは沙羅だったのかもしれない。どちらでもいいことだ。ゆっくりと眠るのだろう。沙羅は彼女の妹で、僕と離れてすぐに死んだ。彼女の過去を知ったことで、もう二度と僕は彼女と会えないかもしれない。僕は彼女に、ここが地球だということを思い出させてしまった。時間が進むのが急速に早まった気がして、遠くで犬が吠えるのが聞こえた。空には縮緬みたいな雲がいくつも浮かんでいたが、太陽は冷ややかに僕を見据えていた。
 自宅に程近い公園ではバザーが開催されていた。どうしてか見覚えがあるように感じられた。どうしてだろう? 僕は古本を売っていたメガネの男に呼び止められてテントに入った。僕がテントを出るタイミングを探しながら本を眺めていると、レコードのコレクションが置かれているのに気がついた。僕はレコードなんて聞いたこともなかったけれども、一枚のレコードのジャケットに魅かれた。テントの奥にLPが置かれているのが見えたので、男に、ここで一度聞かせてくれないか、と頼んでみると、快く受け入れてくれた。僕の知っている音の流れだった。僕は、この音を知っている。僕は、この音楽が好きだ、と僕は思った。
 いつのまにかライオンが立ちはだかって、僕の方を向いて座っていた。
 「どうだい? 時間の流れを感じているだろう? 君は昔この音楽とともに生き、だから今ここに君がいるのだ。あるのは、時間の流れを受け入れるか、抗うか、それだけなんだよ。わかるかい? 一本の線の上に音楽や物語や君が乗っている。時にそれとともに時間の流れを思い出すことが大事なのさ。そこに流れがあるということを忘れてはならない」
 僕はライオンの目を見た。ビー玉の目が僕を反射していた。
 曲は終わって針が止まっていた。僕は男に、そのレコードを買うよ、と言った。商業用の笑顔で彼は丁寧にそのレコードを袋に包んでくれた。
 家に着いてから、僕は一度眠った。火星人の時間になったら起きて、それからこれからのことについて考えてみようと思った。
 目が覚めたのは、鳥の時間だった。火星に鳥はいないだろう。それは平和な夏の爽やかな朝だった。僕はむしろ快活としていた。大学に戻ろうかなと思った。
 一週間が経って、夏が来ようとしていた。僕は彼女に手紙を書いた。ライオンのことや、沙羅のことを書いた手紙だ。それから最後に、小説を書くのも面白そうだ、と書いた。
 その手紙をポストに入れてしまうと、僕と彼女と沙羅、それからライオンの火星人を巡る物語は終わってしまう。何も起きず、何も変わらない、元の日常。僕には泣くことさえできなかった。彼女と会えないこと、沙羅の死、ライオンの消失、それぞれが僕に重くのしかかっていた。ここは地球なのだと思った。火星に比べて重力は三倍だ。全てはいつも通りだ。
 重力も時間のスピードも、いつも通りだ。ライオンや鳩は何も語らない。僕が大きな死を背負っていたとして、電車はいつも通り運転し、踏切は同じ時間に同じようにおり、地球人はいつもと同じように眠る。
 手紙を左手に持ち、汗ばみながら赤いポストに向かって歩いて行く途中、遮断機が悪意を持って降りてくる音がまた、聞こえた。

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