ほとんど100パーセントの朝に【完結】

 その日を最後に、僕と沙羅とはもう10年会っていない。道ですれ違うこともなかったと僕はほとんど断言できるとおもう。あの日、僕と沙羅は別れに関してほとんど何も語らなかった。
 
 ベランダで小説を聞き終わって、沙羅はグラスにウィスキーを注いでから、地元で看護師の資格をとるのだと言った。
「酒はほどほどにね」と僕は小さく言った。
「また飲みに来るね、蒼くんの微妙なお話を読みに来るね。」
 次に僕と一緒に飲む時まで一人でお酒は飲まないと彼女は言った。もちろんそんなのは嘘だ。涙は一滴もこぼれなかったがウィスキーを入れたグラスからは結露による大粒の水滴が絶えず流れていた。
 彼女が今どこで何をしているか、一つとして僕にはわからない。あの頃の沙羅が僕にわからなかったのと同じように。あるいは、生きていないということだってあり得る話だ。
 当時、時の流れに逆い続けることができるほど僕たちは子供ではなかった。しかし、無表情に仮面をかぶり、三人で愛し合う方を選べるほど大人でもなかった。それは微妙な時期であり、微妙な事柄だった。全てが、論理を超えたところにあるような気がしていたし、僕たちにできない何事もないと思っていた。もしかしたら、あの4月の土曜の夜、あるいは日曜の何時かもわからない時間帯に、僕は沙羅と寝るべきだったのかもしれない。この手で彼女の乳房を感じ、彼女の肌を感じ、彼女のくるぶしを愛でるべきだったのかもしれない。聡がしたように。
 もしそうしていれば、と僕は夜の暗闇を眺めながらおもう。結局、僕と沙羅は3年の間、一度もセックスをすることはなかった。 
 僕たちにとって、氷が溶けるのと、時の流れは速すぎた。僕たちにとって、世界には明るいところが多すぎた。ウィスキーのグラスの中の小さな氷が、まず迅速にその飴色の液体を冷やし、それから大きな氷がゆっくりと時間をかけて美味しい温度を保ち、飲みやすい濃さに薄めていくのだと沙羅は教えてくれた。沙羅は、ウィスキーを飲むのが好きな18歳の、少女の目をした女だった。
 グラスの中で氷がこすれ、ことりと音をたてた。僕はベランダで酒を飲みながら、空のどこかにある遠い星のことを考えていた。
 多分聡が隣にいたら、酒は、こんな風に曇天の上に隠れている星でも想像しながら飲むためにあるんだ、などと言うだろうと僕はおもった。
 部屋の中から電話のベルが聞こえる気がした。あるいはそれも、気のせいだったのかもしれない。

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