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祖父のソウル賛歌

 1950年6月25日、北朝鮮が北緯38度線を越えて南側に侵攻してきた。日本では朝鮮戦争と呼ばれるこの米ソの代理戦争は、韓国では「韓国戦争」やその開戦日を取って「6・25戦争」と呼ばれることが多い。朝鮮半島に大きな爪痕を残したこの戦争はもちろん民間人も巻き込み、人々の人生を大きく変えた。
 勢いをつけた北韓国の人民軍は南部の洛東江(川)まで一気に攻め込んだ。大韓民国政府ごと玄界灘に飛び込み「アカ」による祖国統一か、というときに国連軍が仁川上陸作戦を敢行。戦況は一気に韓国優勢へと変化する。韓国にとっては南の大都市釜山が最後の砦だった。
 この仁川上陸作戦に前、夜の暗い釜山を漁船で抜け出した21歳の青年がいた。若き日の僕の祖父は人知れず夜の玄界灘を渡り、身寄りのいない日本へと向かった。僕は密入国者の子孫だ。
 男きょうだいは祖父ひとりだけだったが「男ひとりの家庭は兵役免除」なんて悠長なことを言ってられるような戦況ではなく、健康な成人男性というだけで軍隊に取られるようになったし、人民軍が釜山まで来て朝鮮労働党による支配が始まればキリスト教一族であるために真っ先に反動分子と認定されるだろう。いちど日本にでも避難してほとぼりが冷めたころに戻ればいいとでも判断したのかもしれない。

 日本について祖父が向かった先は教会である。神戸灘の韓国人教会、いまはその教会は合併だかでなくなっている。どのようなツテがあったのかわからないが、そこを頼って来てから親族訪問以外で釜山に戻ることはなかった。
 16歳まで日本の植民地下で教育を受けた。最終学歴は釜山商業学校。机を並べた日本人がたくさんいたからか、あの世代の在日韓国人にしては韓国人訛りのないきれいな日本語を話した。
 在日韓国人が多いことで有名な大阪生野にも一時期住んでいたそうだが、同胞とはいえ済州島出身の人たちと折り合いがつかず、同郷出身者が多い吹田に移って落ち着いた。
 密入国者だった祖父がどのように在留許可を得たのかは知らない。あの時代なのでなにかしらの方法があったのだろう。祖父はいろいろな商売に手を出したがどれも上手くいかなかった。きょうだいも親戚も日本国内にいないので頼れる先はなく、経済的には恵まれない在日韓国人の生活そのものだったようだ。

 韓国に残った家族は日本に渡った祖父よりもいい生活をしていたようだ。朝鮮戦争が休戦してしばらくすると一部は釜山からソウルへと居を移し、韓国の経済成長の波に乗ることができた。祖父の姉が経営していた大きな雑貨店は、僕の父親の記憶に残っている初めての韓国らしい。店のなかを走り回れるほど大きな店に入ると「貧しい韓国」とは思えなかったようだ。
 「在日は韓国の故郷になけなしの銭を送金していた」という物語が在日社会では涙を交えた美談としてよく受け継がれているが、祖父に限れば立場は逆だった。きょうだいや親戚が韓国で商売に成功し、その子どもたちは財閥と呼ばれる企業に就職した。富裕層にのしあがった祖父の家族は、たったひとりで日本に渡り困窮した祖父を支援していた。日韓のあいだで物価が何倍も違う時代に。
 いまでもソウルの親戚の家に行くと、大きな家と恵まれた環境に目を張る。子どもたちはいい教育を受け、夜の玄界灘を漁船ではなく堂々とパスポートを持ち大韓航空機に乗り、ロサンゼルスへ留学移民として渡った。

 祖父の十八番だった歌に「서울의 찬가(ソウル賛歌)」がある。経済成長の波のなかでいけいけだった韓国で、恋愛に喩えながらソウルの街の華やかさを歌った、70年代を代表する韓国歌謡の一曲である。

 종이 울리네 꽃이피네
 새들의 노래 웃는 그 얼굴

 鐘がなり、花が咲き、鳥が歌い、微笑むその顔
 그리워라 내 사랑아
 내 곁을 떠나지마오

 思い出す私の愛する人
 私から離れないで
 처음 만나고 사랑을 맺은
 정다운 거리 마음의 거리

 初めて会って愛し合った、懐かしい街、心の街
 아름다운 서울에서
 서울에서 살으렵니다

 麗しいソウルに、ソウルに住むのです。

(ペティ・キム「ソウル賛歌」私訳)

 「麗しいソウルに、ソウルに住むのです」という部分は、韓国人の誰もが知っているといってもいいほど有名なフレーズだ。
 暗い玄界灘を渡り、ソウルとはま逆の方向に出てきてしまったとき、なにかの歯車が狂ってしまった。
 あのときもし従軍することになっていても、生きて帰ることができていれば、身寄りもいない異国で韓国人というだけで辛酸を舐めることなく、家族とソウルに移り華やかな生活を謳歌していたのかもしれない。

 「麗しいソウルに、ソウルに住むのです」。そう歌った祖父はなにを考えていたのだろうか。祖父はただ軽快なリズムの韓国語歌謡曲をじょうずに歌っただけだったのかもしれない。故郷釜山を描いた「釜山港に帰れ」でも「釜山カモメ」でもなく「ソウル賛歌」を好んだのに理由があるのかもしれないと思うのは考えすぎているだけだろうか。
 辿り着いた大阪で不器用に生きてきた祖父は、80歳でその生涯を終えた。認知症であったが機嫌がよくなると「ソウル賛歌」を歌っていた。神を信じていた祖父はのちに韓国人教会の納骨堂に入った。初めて日本に辿り着いたときに頼った、神戸の教会とおなじ教団の納骨堂である。

 祖父に「玄界灘を越えたときの気持ち」を尋ねると、大ぼら吹きで冗談を好んだ祖父は、大げさにそのときのことを語ってくれただろうと思う。
 許永中と飲み友達だったとか、金大中の誘拐現場を見たとか、大村収容所にいたとか、ほんとうにどうでもいいホラ話はよく語ったが、海を越えたときのことは最後まで話さなかった。暗くて波の激しい玄界灘を越えてきてから、きっと多くのものを失ってきたのだ。命を守ることと引き換えに、手にすることができたはずのものでさえなにも手に入らなかった。北大阪のボロ屋ではなく、きょうだいたちとの麗しいソウルでの生活は、終ぞ夢としておわった。

 僕も最近よく「ソウル賛歌」を口ずさむようになった。歌っていると父親や家族に「じいさんにそっくりやな」と言われる。いい歌なので韓国語がわからなくてもいちどは聴いてみてほしい。この曲は、華やかなソウルの街を闊歩している、クリスチャンで大ぼら吹きの在日一世のおっさんが主役だ。


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