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大学院に入学したこと

 大阪に帰省して小学校の同級生たちと飲んでいたら口をそろえて「羨ましい」と言われた。大学院を受験して仕事を辞めて東京に引っ越したことを言っているのだが、強調されたのは「それほどまでにしたいことがあるというのが羨ましい」ということだった。
 たいして高給取りでもなかったが、大阪に住んでずっと仕事をしていれば生活は安泰でいれたはずである。東京の人には失礼かもしれないが、異動や転職であればともかく貯金を叩いてまで二十代の後半に住むようなことろでもない。学部生時代から大学院への進学を希望していたが、学費を賄えるだけの財力が自分や実家になかったり、戸籍の名前が前の日本の名前のままだったというのが足かせになって進学を断念した。

 足かせはまず名前のほうから外れた。2020年の夏、帰化したときに家族で名乗っていた日本語の名前から「李」という姓への改名。名前を取り戻した。裁判や改名にあたって弁護士費用だけでも20万円以上が飛んでいったが、ひとつの足かせが取れて片方だけでも自由に動けるようになって学費を賄えそうなほどの貯金が貯まった。

 学部四回生のときの一回生の後輩たちが卒業し、大学院への進学を勧められた。休む間もないような会社を辞めて時間に融通の利く職場に転職し、ベトナム語やマリンバなどの習い事も楽しんでいた頃である。

 初めてマレーシアを訪れたのは高校二年生の夏、自分の持つ知識のひとつでしかなかったイスラームを実践する人々が目の前に現れたと思ったら、街中には中国語や南インドのタミル語が飛び交っていた。
 韓国学校で使用する「李」という名前と戸籍上の日本語の名前との違いに違和感を感じ、自分のなかで折り合いをつけるような答えをさがしているときに、それぞれの民族が自分たちの文化を自由に謳歌している(ように見えた)マレーシアに惹かれた。大学ではマレーシアのことがしたいと進学先を選んだが選択肢が少なく、マレー語とことばがおなじインドネシア語を専攻した。マレーシアが決して自分が思っていたような理想郷でないことを大学での学びや留学を通じてわかっていたが、だからこそ僕が惹かれたマレーシアとはいったい何なのか、インドネシアはなぜインドネシアなのか、といった疑問は卒業してからも絶えなかった。理想郷でなかったかもしれないが、マレー世界が好きになった僕は常に頭のどこかで思い浮かべていた。

 年に1、2回くらいマレーシアやインドネシアを訪れ現地の空気に触れる。それだけでは満足しない自分がいた。「東南アジアが好き」というだけでなく、そこに住む人々の営みを深く知りたいという自分がずっといた。初めてマレーシアを訪れたときのあの感動や昂りのなかにあるものが何なのかを問いたいのかもしれない。

 「あなたたちは神に導かれて上智大学に入学してきました」
 進学先として選んだ上智大学の入学式での神父様のことばである。大阪の大学院にも合格していたのに、京都の大学院にも出願しようとしていたのに(これは自分のヘマで飛んでしまった)、神は僕を東京に導いた。きっとカトリックの大学でなければ発せられなかったこのことばを聞いたとき、職を辞して入学資金と引っ越しで貯金も殆ど失いこれでよかったのだろうかと思っていたことに納得をしたものである。

 親の老いが気になりはじめ、いつまでも親だけに重度のダウン症候群の弟を任せるわけにはいかなかった。名前も取り戻し、懐が潤ったタイミングで、またいつ大きな出費があるかもわからないし、この機会を逃すとまたいつ海外に自由に行けなくなるかもわからない。久しぶりに腰を据えて学術書を引っ張り出したとき、もう東京に導かれることになっていたのかもしれない。

 もっともらしいことを言っているが、一年目の春学期は忙しすぎてただ振り返る機会がなかっただけだったのかもしれないなと思う。現にこれを書いているいま大阪で、友人らに言われてやっととんでもないことをしてしまったのだと実感してきたところだ。将来への不安は募るばかりだし、東京にいるとときどき自分がなぜここにいるのかわけがわからなくなることがある。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」

新約聖書ルカによる福音書5章38節

 いつかは整理するべきだと思った感情についての記事を、入学式で読まれた聖句を引用して締める。
 忙しさと不安のなかでも、6年ぶりにがっつり学問ができてマレー世界のことを考えられる環境は楽しい。こうするためには大阪を投げ捨て「新しい皮袋」の東京で、背水の陣で大学院に入るしかなかったのかもしれない。

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