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写真を撮っています。 撮っているときは何かを考えていたり 何かの音楽が頭の中で流れて…

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写真を撮っています。 撮っているときは何かを考えていたり 何かの音楽が頭の中で流れていたりします。 そんな撮った時の気持ちや考えていたことを ちょこっと文章に書き留めてみます。 https://graywhiteblue.tumblr.com

最近の記事

薄味な日常。

料理を作るときに自分の中で気をつけているのは先に味付けの濃いものを食べてしまうこと。 休日の楽しみで作るときなどは、ついビールなんか呑みながら作ってしまう。 うっかりしてスナックなんかをつまんでしまうこともあって。 ポテトチップスみたいなスナックは塩味も強くて美味しいのだけど、その塩分で舌の感覚は少し麻痺してしまいその後の料理はやや味付けが濃くなる。 そして強めの塩味に若干の罪悪感も感じながらも美味しくてついつい食べすぎる。。 こうして休日のカロリー摂取が増えていく。。 味

    • 朝の湯気。

      カフェに朝早く行く。 そういう経験はあまり多くない。 早朝にオートバイで出掛けて、そのさきで冷えたカラダを温めようとカフェに入ることはある。 でも徒歩で出かけた際にはほとんど経験がない。 朝の空気はとても気持ちがいい。 どの季節でもいいのだけど、とりわけ秋から冬にかけてのピンと張り詰めた空気が満ちている季節が格別に気持ちがいい。 旧くからの街の景観を大切に守っている、その街に着いたのはすっかり暗くなってからだった。 夕食を摂ろうと街の中心地に行ってひとしきり食べて、呑んで

      • コーヒーの傍に。

        彼女の笑顔が見たいから、自分は一緒にいるのだ。 そんなことを話している俳優を見たことがある。 人が人と一緒にいる理由はそれぞれだと思うのだけど、この考え方はなかなか意を得ているなと思った。 確かに、一緒にいる時に笑顔を見られるのは嬉しい。 そしてその笑顔が自分にとってとびきりの好みだったら、生きててよかったと思えるくらいに嬉しいことだろう。 同じように。 笑い声も自分の耳に心地いい声というものがあるのだと思う。 自分の好きな声、好きな笑い方。 それは、つまりその相手を想う

        • 見知らぬ、誰か。

          32−3年ほど前。 秋から晩秋にかけて。 北米の東海岸の旅の途中で僕はシカゴからボストンに向かった。 ボストンはもうかなり寒くて学生街でパーカーを買った。 ボストン美術館に行きたかったので数日滞在したのだけど、街歩きも楽しかった。知らない街を歩くのは苦にならず大学もあるので食事も楽だった。 マサチューセッツ工科大学だったかそれともハーヴァード大学だったのか。 よく覚えていないけれど大学の建物のあたりを適当に歩き回って学生の多くいる食堂のようなところで勝手に座ってコーヒーな

        薄味な日常。

          マイクロコスモス。

          観光客で溢れかえるメインストリートを横目に、ひと気のない路地に入る。 路地を入った少し先に”cafe”と手書きの看板が見えた。 築年数の経った2階建ての住宅を店舗にしたその店の1階。 店主らしき小柄な女性は視線を合わせずに小さく”いらっしゃいませ”と呟いた。 客席は2階らしい。1階にはお手製と思われる真空管アンプがいくつも置いてある。 2階に上がると先客の年配の夫婦がランチをどうしようかあれこれ相談する声が静かに聞こえてくる。オペラの楽曲だろうか、割と大きなボリュームでお

          マイクロコスモス。

          コーラとサンドウィッチ。

          ある日、海辺のカフェから外を眺めていた。 窓の外にはおしゃれなお爺さんがコーヒーを飲みながら英字新聞をのんびり読んでいた。 見るともなしに眺めていると、はるか昔の幼少の頃。 母方の祖父に連れられてサンドイッチを食べたことを思い出した。 . どこかの駅のスタンドだったと思う。 背が到底届きそうにない高いスツールに乗せてもらってこぼさないように真っ白なパンでできたサンドイッチを食べた。 祖父はそんな僕の姿を見て微笑みながらコーラを飲んでいた。 すらりとして白髪で、カッコい

          コーラとサンドウィッチ。

          solitude

          写真を撮っているときに。 ふと気がつくと頭の中に曲が流れていることがある。 時には口ずさみ、時には好きな歌手の声が広がる。 想うに、独りで撮り歩く写真なんてものは自分の気持ちと向き合うことなのかもしれなくて。 ひと気のない山道をオートバイで静かに流している時や全く釣れる気配のない渓流でロッドを振っている時にも似ている。 少し大袈裟に言えば、独りでこの地球に対峙しているようなそんな時間と同じものなのかもしれない。 solitude 英語の特にできない自分でも曲の歌い出しか

          夕暮れとドレス。

          久しぶりに丸の内をカメラを持って散歩してきた。 いっときに比べて人出もかなり多くなり、自粛ムードが蔓延していた頃を忘れてしまいそうなくらいの人の多さだった。 カメラを持っての散歩は陽が傾いてからがいいと思ってる。 夕方から夜へと向かう夕暮れ時は気持ちがいいだけでなくて写真そのものにもプラスアルファの効果をもたらしてくれる。 そんな夕暮れ時。 人混みの中にひらひらと白いドレスが舞っている。 向かいにはタキシードを着込んだ男性もセットだ。 ウェディングの前撮りってやつかな。

          夕暮れとドレス。

          街中の社。

          社は神様の住む家。 そんなふうに母に教えてもらったことが記憶に残る。 旧い街にはずっと長い間そこに鎮座している社がある。 小さな片田舎の農村にも、かつて片田舎だった農村にも。 そしてその農村は時代とともに街になり、今では大都会の一角。 そんなポッカリと時空が切り抜きされているような 街中の社に足を運ぶのが好きだ。 小さな宝物殿なんかを覗いてみると長い時間を遡って その土地の不安を取り除いてきた歴史が見えたりする。 もしかしたら当時から変わらない境内の中に 根をおろしてき

          街中の社。

          焼き魚。

          まだ小学校に上がる前、海辺の町に引っ越した。 海辺のといっても半島の先っぽ。 鄙びた漁師町と小さな商店が数軒並ぶだけ。 本屋に行くにも車に乗って行くような町だった。 でも海だけは身近にあって、家からすぐ行ける堤防には、漁から帰ったポンポン船が長閑に家路を進んでいた。 小学校に上がる少し前から補助輪を外した自転車で海岸まで走った。 春も秋も夏の日も。 ひとりで、友達と。 でもなぜなのか、家族で行った記憶はない。 子供には遠い距離だったように覚えている。 ひたすら漕いで漕い

          焼き魚。

          素直に。

          茅ヶ崎の海が少々荒れていた日。 波がいいのだろうか。 サーファーたちはホクホクした顔をして海に向かう。 たくさんの彼、彼女たちが波に合わせて上下している。 僕はそれを岸から見ている。 人間ってなんてちっぽけな存在なんだろうって急に思う。 水の上の小さな点々が波の上下に合わせて動いている。 それぞれの腕力だとか脚力だとか全く無効な世界。 波のひと捻りでいとも簡単に飲み込まれてしまいそうだ。 こういう風景を見ていると、自然に遊んでもらっているという感覚になる。 思えば大きな

          素直に。

          ふと思いついて。

          朝食を食べながら、ふと思いついた。 いつもは部屋で書いているnoteを 外から書いてみよう。 今渓流にいる。 気温は普段よりも高めだけど 心地いい風が吹いている。 蝉の鳴き声と 渓流の涼やかな音と さっきから僕を見つけて吠える 小さな番犬の音だけが 僕の周りにある。 釣り人が無心に竿を振っている。 このポイントはあまり釣れないから 結構苦労するだろうなぁ。 番犬くんは諦めたのか 吠えるのをやめた。 蝉の鳴き声と 渓流の音だけが響く。 .

          ふと思いついて。

          頬に風を。

          少し前、といっても3年ほど前の街中の写真。 この頃はまだ夏にマスクをする習慣は無かった。 今だって習慣になったわけじゃなくて、必要に迫られているからだけれど。 でも一度体験してしまったこの状態が、一体いつまで世の中に影響を及ぼすのかよくわからない。 インフルエンザのように経口薬で治療ができる目処が立てばまた昔のように戻るのだろうか。 案外このまま数年は時が過ぎるような気もしている。 窮屈なモノは嫌い。 僕はマスクをしなくていい場所を探しに行くのだろうか。 歩きながら雨の

          頬に風を。

          偶然の塊。

          カメラを構えながら。 目の前を過ぎていく人たちを ファインダーから見ている。 タイミングを見計らってシャッターを押す。 その繰り返し。 自分の思うタイミングとは すべての顔が僕の思う方向を向く瞬間。 そんな偶然の塊がたまに出現する。 シャッターチャンスという言葉。 あまりに使い古された言葉だけど やはりその瞬間は存在している。 なかなかに出会うことは 叶わないのだけど。 .

          偶然の塊。