見出し画像

ぼやき

ようこそでございます。今週は木山です。


先日からのウクライナの報道を見るたびに涙が出そうになる。シリアの時もそうだった。確かに、恐ろしい人がおるもんやと思う心もあるけれど、権力者を生むのは民衆でしょう。選ぶ経緯が歪であったとしても、権力者はその時代の民衆によって生みだされる。やがて国防の名のもとに、民衆は権力者に利用され、殺される。そういう歴史を持つ国で、核武装を議論すべきと平気で発言する元首相がおること、それが許されていることに大変な危機感を覚えます。身の回りの人が、このブログをともに書いておる仲間が、どう考えておるかは分からないけれど、私はそう思います。実際私に何ができるのか、こういうことがあるたびに自分の無力さを痛く知らされますが。非常に重たい毎日です。


私たちは浄土を掲げておる宗教です。西の太陽が沈んでいくずっとずっと先の方に、極楽浄土があるのだとお釈迦さまは説いて下さいます。そこに今現に法を説いていてくださる阿弥陀さまがおられる。そこに私の大切な方々がおってくださるんですって。

しかし今や人工衛星が地球を包囲する時代ですから、地球が丸いことを何となく知っておって、日本の西とブラジルの西は全く真逆じゃないか、そんなことを考えてしまいます。

よく「現代人に宗教が受け入れられないのは、科学が発達した世の中だからだ」とおっしゃる人がいます。僧侶にもおります。そう分析する僧侶は、ご自身が宗教を受け入れておられないんじゃないかと思ったりします。というか現代人とは、一体どこからどこまでの人を言うんでしょうね。江戸~明治時代の方でも、西にずっと歩いていったらやがてここに帰ってくると言うた人がおったそうですよ。宗教はどの時代においても聞く人は聞く、聞かん人は聞かんかったんじゃなかろうか、と個人的に思います。


まあ確かに、時代とともに科学が発達するにつれ、色んなものが体系化され、論理でもって説明されるようになりました。心理学というように、ものだけでなくて、人の心まで論理的に説明しようとする。

実際それが生活の中まで浸透しておって、最近、最近と言うても恐らく私が生まれるずっと前からそんな感じだったろうとも思いますが、論理的思考とやらをやたらと求められる。なぜそうなるのか、それがどうなるのか、順を追って説明する能力がないと、社会的に認められない気すらします。

3、4歳になる私の甥っ子ですら論理的思考を私に要求してくるんです。

「残さず食べなさい」
「なんで」
「何でて、母ちゃんが作ってくれたとじゃろうもん」
「なんで」
「そらあんたのためたい。あんたが大きくなって欲しいと思ってたい」
「なんで」
「ずっと小さいまんまやったら、困るたい」
「なんで」

とこの調子。

終いにはこっちが腹立って「ああ!やかましか!はよ食え!」とこうなる訳です。私の7分の1程度しか生きておらんくせに、既に論理的な思考を身につけようとして、私にまでそれを求めてくる。

また、論理的思考が求められる社会では矛盾は許されませんね。矛盾があると、我が論理は破綻しておるとみなされ、相手がおってはそこをネチネチとしつこく追求される。ああ面倒だなと思います。


しかしね、矛盾を抱えねば生きていけんのが私じゃなかったか。

「明日は早起きをする」
「今日は1缶まで」
「あの子が好き」
「無駄遣いはしない」

…結果は燦々たるものです。数分前の自分とすら矛盾してしまう私です。そういうことに一々葛藤を抱えて如何ともし難い自分がおる訳です。


著名な心理学者に河合隼雄さんと言う方がおられます。最近母から河合さんの短い文章を集めた本をもらって、ちまちま読んでおると、水戸黄門の講談が紹介されていました。

あるところに幽霊が現れる。その幽霊は

「今宵の月は中天にあり、ハテナハテナ」

と尋ねてくるそうです。
確かにあの月はどうして空に浮かんでいるんだろう。今や万有引力とか、宇宙とか、私程度のものでもそれくらいは何となく知っておるから、苦しいながらも答えることができるだろうけども、時は水戸黄門の時代ですからね。失礼ながら、江戸時代にそんなことは恐らく知らんかっただろうと思います。納得のいく答えができないとその人はたちまちに命を落としてしまうそう。恐ろしい話です。

さて水戸黄門はどのように答えたんでしょう。幽霊から問いを出されるとすぐさま

「宿るべき水も氷に閉ざされて」

とピシャリ。幽霊は三拝九拝して、大喜びのうちに消えていったそうです。つまり「今宵の月は中天にあり」を下に、「宿るべき水も氷に閉ざされて」を上に置いて、三十一文字の短歌とした訳です。

全く論理的な解決ではないけれど、なるほど確かに収まっているなと思います。美的感覚、芸術的感覚でもってその場を収めたのが水戸黄門でした。


この話を読んだ時に思ったのは、ひとりひとりが自分の揺れ動く感情に収まりをつけるのに、論理とか芸術とか、一つのものを限定するのは相当に無理があるのだということ。それぞれに色んな収まりようがあるんでしょうね。そして収まりを定めるのは多分自分です。とか言いながら、定めるのは自分じゃないんだという話をいつかすると思います。


如来さまは「そのままこいよ」とおっしゃいますよ。自分の葛藤、矛盾を「そのまま」包み込んで、「そのまま」認めてくださる。「そのまま」抱いて抱えて、一方的にお救いくださいます。その中にあって、勿論、自分の矛盾を認めないという厳しさを貫くのもいい。ここまで、と見切るのもいい。「そのまま」でいいんですって。全く論理とはかけ離れている。離れているけど、嬉しいなあ。

「それは無秩序だ」そんなことも思ったりもします。ですが、「そのままこいよ」のお慈悲のお喚び声を聞いて、それが個人の生活に、人生にどう影響を及ぼすか、またどう生きていくかは知ったことではない。それぞれが考えていくべきことです。
ですからねえ、あんまり僧侶が生き方とか聞く人の理解度とか確認せんでも、「お浄土」とか「如来さま」とかピシっと言っていいんだと思うんですけどね。大体手前27歳の人間が、70歳とか、80歳の大先輩方に生き方なんて説けませんよ。戦争を生き抜いてこられた方々も沢山おられる訳ですよ。

でもひとつ言うなれば、恩徳讃だと教えてもらいました。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

身を粉に、骨を砕いてはかまぼこや。そんなことを考えてしまいますが、「私に出来ることは精一杯させてもらう。できたら如来さまにお礼を言う」と教えて下さった先生がおります。誠にありがたいお味わいやなと、常々思います。

「それを聞いて私の人生がどうなる」という論理とは全く別です。浄土真宗のお同行方が大切になさってこられた朝のお勤めは全く身に返ってこん行いですよ。全く身に返ってこんことを、大真面目にやり通してこられたお同行方の大層な人格を有難く思います。

偉そうに人にこう生きろと言うのではない。ナンマンダブのお慈悲の中に、ただ一人自分のお念仏と向き合っていくんでしょう。


最初の話ですが、極楽浄土は西にあるそうです。論理的思考は他所において、「ふうん」と聞いておけばいい。ぼんやり聞いて忘れて、1日の終わりに沈む太陽を見たときにね、私は祖母を思い出すんです。

「親を思えば夕日を拝め」

そう言うて、夕日に赤く染まった我がばあちゃんを懐かしく思います。
思い出しては「ばあちゃんお浄土におって下さっとるとばいな」と涙が出ます。


地球が丸かろうが四角かろうが、日本におろうがブラジルにおろうが、どこにおっても夕陽の見える場所におっては、私は祖母を思い、浄土を大切に思う。

論理的な思考とは別の、私の心の収まりです。

称名

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?