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お釈迦さまは脇から生まれたの?

春です。

野辺へ出てみれば、鶯が鳴きヒバリが囀り、足元には蓮華、タンポポの花盛り。
心地よい季節がやってきたと思えば、いつの間にか日中は暑いと思わず口にするほど、季節が進んでしまいました。九州の人間が縁あって4日間ほど関西におりましたが、例年より遅く咲いてくれた桜は、例年の倍、私の目を喜ばせ、心を踊らせてくれました。


無数のいのちが誕生するこの豊かな季節に、今から2500年前にご誕生くださったお釈迦さまのお誕生日をお祝いします。先日4月8日ははなまつりでした。


お釈迦さまはルンビニーという場所で、お母様、麻耶夫人の右脇からご誕生され、すぐに立ち上がり、七歩歩いた後、

「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安之」

とおっしゃった、と言われています。


私は大学時代は福岡におりましたが、大学の友人に浄土真宗の宗門校である高校出身の人がいます。授業でこのお釈迦さまのご誕生の話を聞いたことがあったそうです。

友人は私に
「何で嘘つくん?嘘つくから誰も聞かんのやない?」
と言いました。


なかなか痛いことを言いますね。私も小さい頃からこの話を聞くにつれ、「まあ伝説だから」と聞き流していましたが、いざ僧侶という立場になって、改めて考えるきっかけをくれた友人の言葉として忘れないようにしています。


仏教は約2500年の歴史を持ちます。2500年間という人間から考えれば途方もない時間を超えて、その教えがこの私に至り届いています。


確かにその長い時間の中で、表面的に見ればあり得ない話に変貌した部分があるのは否めません。ごく一般に考えて、生まれたすぐの赤子が立ち上がって、歩いて、喋った…そんなことは有り得ない話です。ご誕生以外でも、現代にお経として残されているものを読めば、そんなあり得ん話、誰が聞くんやという思われることも理解できます。


しかし「嘘だ」とか「伝説だから」と現代的常識、感覚によって切り捨ててしまえば、そのエピソードに込められた先輩方の意図に目が向くことは決してありません。


「天上天下 唯我独尊…」の詳しい話は次回以降に譲ろうと思いますが、先輩たちは仏教という本質を変えずに、お釈迦さまとはどのような方であったのかをこのエピソードに込められたのだと窺います。

お釈迦さまは人類600万年という歴史の中、たったひとりおさとりという境地に立たれた方です。お釈迦さまがおかくれになった後、のちに残された仏教徒たちは、お釈迦さまとは、悩みや苦しみ、怒り、悲しみを抱えてでしか生きていくことの出来ないこの私とはかけ離れた偉大な方であった、そんなお方がこの地上にご誕生くださったんだ。これは並大抵のことではないんだ、全ての生き物が尊敬すべき方が生まれてくださったんだ、という思いが通常では考えられないご誕生のエピソードに込められているんですね。


無数に伝わる仏教の説話は、時代を超えていく中でその土地の文化を取り込み、その時代の人間に大切にされながら、この私の生きる時代まで教えが届いてくださいました。


考えてみれば普通誕生日は生きた人を祝うものです。ごく親しい間柄ならば、お亡くなりになった後も誕生日を祝うこともあるけれども、私はひいひいばあさんの誕生日や、ひいひいひいじいさんの誕生日なんて知りもしないし、まして2500年前の方のお誕生日をお祝いするなんて、ちょっとただごとではありませんね。


仏教徒たちにとってはお釈迦さまは亡くなっていないんだ、ということでしょう。確かにその肉体は滅び、私に認識できるような生き物としてのお釈迦様を見ることはできないけれども、お釈迦さまは法となって生き続けておられます。教えとなってこの私を導き続け、本当に豊かな世界とはいったい何であるかを、お示しくださっています。


これだって、馬鹿げた話だと切り捨ててしまうのは簡単です。でもそこまでして先輩方が残してくださったんだという思いに目が向いた時、お釈迦様ってどんなお方だったんだろう、と思ってみようじゃありませんか。


そのお釈迦さまが教えてくださった仏様が、阿弥陀様という仏様です。

今日はこのあたりで…


なんまんだ

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