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シェアハウス・ムラヤ 第4話

土曜日の朝。ゆりえが玄関を掃除していると、隣の山村やまむらが家から出てきた。
「おはよう山村さん。いいお天気ね」
「来週どっかの晩、弥生やよいちゃん借りていいかい。週末な」
山村は、唐突に聞いてきた。
「借りる?弥生ちゃんがいいなら、全然かまわないわよ」
「スナック行こうって言ってんだ。弥生ちゃん連れてな」
「スナック?」
ゆりえは笑って聞き返すと、山村は、いや、ちょっとな、とモゴモゴ言った。

駅へ向かう大通りから、拓磨たくま鉄平てっぺいが戻ってきた。
2人は土曜日の朝に、村家むらやから豪川たけかわの土手へ行こう、と約束していたのだ。豪川の河川敷へは、村家から徒歩30分弱で行くことができる。豪川の土手は拓磨のランニングコースで、鉄平は自転車でそれについて行く。マイペースに自転車を走らせるくらいなら、鉄平の喘息も問題ないようだ。

拓磨はトレーニングウェア姿で、鉄平の自転車を追いかけてきた。
「お帰り。豪川まで無事行けたの?」ゆりえは2人に声をかけた。
「うん行けたよ。鉄平自転車早いよ。キツいんだよ」
拓磨はそう言って、自転車を降りた鉄平の頭をこづいた。
「拓磨くんと男同士の話、してきた!」
鉄平がうれしそうに言って、拓磨の手を引き家の中へ入っていった。

「坊主と仲いいんだな、あの兄ちゃん」山村が微笑ましそうに言った。「母ちゃんも、助かるだろうよ」
ゆりえは、そうね、と笑って彩香あやかを思い浮かべた。今朝も、自室にこもって姿をみせない。朝食は夜のうちに冷蔵庫に用意していたらしく、鉄平はそれを食べて出かけた。

「あいつ、いい男だよなぁ」
「拓磨くん?」
山村は頷いて、にやっとした。「さぞかし、女にもてるんだろうな」
ゆりえは曖昧に笑い返した。山村はまた何かモゴモゴと言って、家の中に戻っていった。
あの一言だけの告白について、あれから拓磨とは何も話していない。


家の中に戻ると弥生が、おはよう、と声をかけてきた。カウンターキッチンで朝食の支度をしている。
「弥生ちゃんおはよう。今山村さんから聞いたよ。スナックに行くんだって?」
あぁ、と弥生は笑って、トーストにバターを塗りながら答えた。
「この間、お誘いを受けてね。何かあっちの、私鉄の駅の方にあるらしいのよ。『やすらぎ』って言うんだって…」
「やすらぎ」
ゆりえは、ふっと吹き出した。
「やすらぎてぇじゃん、とか言ってさ。山さん。でもスナックって一度行ってみたかったし。ちょっとお供してくるよ」
弥生もおかしそうに笑って言った。カウンターキッチンに立ったまま、トーストをかじっている。

「座って食べたら?」
「そうだよね」弥生はばつが悪そうに笑った。「慌ただしい平日の癖でね。お行儀が悪い」
弥生はトーストとコーヒーをダイニングテーブルに運んで、椅子に座った。
「彩香は?またお部屋にこもってるの?」
「そうなの」ゆりえは眉をひそめて言った。「さっきてっちゃんは、拓磨くんと一緒に豪川の土手まで行ってきたんだけどね」
「心配だよね」
弥生も眉をひそめて、コーヒーをすすった。彩香は異動で、にわかに仕事に手いっぱいになった。もう1か月以上が経つ。


ゆりえは、今日も生協のカタログをチェックし始めた。
火曜日に担当している当番の夕食、「フリー」である金・土・日曜日の自分の夕食。スーパーやコンビニで、その日その日で調達してもいいのだが、半分くらいは生協で調達しておくと、献立を考えるときも余裕が出る。シェアハウスを始めてから、自分だけの食事も前より丁寧に用意するようになった。

カタログをさらに眺めていくと、「手羽先の炭火焼き」という冷凍食品に、赤ペンで丸がついている。
「弥生ちゃん、『手羽先の炭火焼き』に丸つけた?」
「つけたつけた」弥生はにっこりして答えた。「『牛田類うしだるい的夕ご飯』にいいんだよねぇ」
以前ゆりえも1つもらったが、電子レンジでチンするだけで調理が完了する安価なものなのに、なかなかの絶品だった。
「フリーの日に、これで晩酌するのね」
ゆりえが言うと、弥生は、そうそう、1人酒場漫遊記さかばまんゆうき、と笑って頷いた。
ゆりえは「手羽先の炭火焼き」を自分のものと一緒に、スマホの注文アプリに入力した。

彩香のつけた赤丸は、ない。以前は鉄平の好きなものなど、あれこれ赤丸をつけていたのだが、今は生協のカタログを見る時間もないらしい。
ゆりえは、「具の大きいレトルトカレー4パックセット」と「解凍してご飯にのせるだけ!まぐろのづけ丼」も一緒に注文した。彩香に、「これ、買いすぎちゃったんだけどどう?」と勧めよう。きっと、夕食の準備をする心の余裕などないだろうから。


「降りてこないね。彩香」
朝食の食器を洗いながら、弥生が言った。
そうね、ゆりえも心配でつぶやいた。

ちょうどその時、彩香の居室のドアが開いた。ゆりえと弥生はいっせいに振り向いたが、出てきたのは彩香ではなく、鉄平だった。
「つまんない。ママは疲れて寝ているし、拓磨くんも出かけちゃって、つまんない」

拓磨は、ランニングから帰ってすぐに出かけた。きっと「はる」の所に行ったのだろう。ゆりえは、こっちにおいで、と鉄平を呼び寄せた。

「鉄ちゃん、さっき拓磨くんと男同士の話をしたって、何を話していたの」
「ポケモン」
鉄平は即答した。ゆりえと弥生はいきなり当てが外れ、苦笑した。
すると鉄平は、あぁその次にね、児童館でマヒロくんがナギくんをたたいてけんかになった話をした、と続けて、
「その後にね、ママから聞いたけど、拓磨くんには、はるちゃんって彼女さんがいるんでしょ?って話をした」
ゆりえと弥生は、途端に乗り出した。

「…拓磨、なんて言っていた?」
弥生が、おそるおそる聞いた。
「えーとね。なんだっけ」鉄平はダイニングテーブルの椅子に座り、足をぶらぶらさせた。「『はるちゃん』は正しいけど、『彼女さん』じゃなくて、ちがう呼び方の方がいいかもしれない、って」
ゆりえと弥生は、息をのむように頷いた。

「はるちゃんは、拓磨くんの1番会いたい人なんだって。拓磨くん、『鉄平は、1番会いたい人はいる?』っていうから、おれは、『学校行って帰りに児童館で待ってるときは、早くママに会いたいし、休みの時はカイトくんとナギくんとリリナちゃんと、2年2組のナカムラ先生に会いたい』って言ったら、拓磨くんは、『1番会いたい人は1人なんだ』って。会ってない時も、その人に会って顔を見て、何を話そうかって考えるのが楽しみなんだって。はるちゃんは、そういう人なんだって。彼女さん、じゃなくて、1番会いたい人、なんだって」
ゆりえと弥生は、黙って何度も頷いた。
こんなに素直に、鉄平に気持ちを話したのだ。少し驚きながら。

「あ、でもおれね」鉄平は思い出したように言った。「弥生さんがお仕事で遅くなっていないとき、弥生さんにも会いたいって思うよ」
ほんとに?弥生が明るい声で答えた。
「弥生さんってさ、49歳なんでしょ?」
ふいをつかれた弥生は、軽く吹き出した。「そうだよ」
「ママから聞いたんだ。ママが34歳だから、15歳上なんだね」
弥生は、あはは、そうだね、と苦笑まじりに答えた。

「鉄ちゃん、大人の人には、あまり歳の話をしない方がいいのよ」
ゆりえはつられて笑いながらも、軽くたしなめた。
「いや、おれが言いたいのはね」鉄平は口をとがらせて言った。「弥生さんは49歳だけど、49歳にしてはすごく若く見えるってこと」

そこまで言って鉄平は1人で勝手に照れてリビングに駆けて行き、ソファにダイブした。
「ありがとう」弥生もリビングに行き、鉄平の隣に座った。「それにしても鉄平は、数字に強いね。算数得意でしょ」
「うん、おれ算数得意。1年生の時は、クラスで算数キングだったし」
鉄平は得意げに言った。算数キング、というものが何なのかよくわからないが、ゆりえも弥生も、すごいねぇ、と感心してみせた。
「私も算数得意だからさ、わからないことがあったらいつでも聞きなよ」
弥生がそう言うと、鉄平はニコニコして頷いて、何かを思い出したように、あっ、と言った。

「弥生さん、ママにも算数教えられる?」
えっ、と弥生は鉄平を見た。「ママに、算数?」
「最近いつも部屋で、紙に数字をいっぱい書いてるんだ」
ゆりえと弥生は、顔を見合わせた。
「紙に小さい数字をいっぱい書いてて、おれが夜中に起きるとまだ何か勉強してるんだ。ママ、算数は嫌いなんだよ。もしかしたら、会社で算数の問題を出されて、解けないから毎日寝られないのかもしれない」
紙見せてあげる、と鉄平は、止めるのも聞かずに居室に走った。

鉄平はすぐに、1枚の紙を持ってリビングに戻って来た。印刷物の裏紙を切って作られた、A5ほどのメモ用紙だった。
「これだけ机の下に落ちていたんだ。本当はもっとたくさんあったんだけど」
ゆりえと弥生はメモを見た。

「0900-0910 MT (他」
数字や文字が並び、傍らに「0.2」と丸をつけた数字がある。
「作業記録だよね…」弥生が言った。「0900-0910 MTは、9時から9時10分までミーティング。他、は何かの区分で、0.2は…時間かな」
弥生は、メモを上から下に指でたどった。「それが、14時50分の分まで書かれてる。これを多分、後で日報にまとめるんじゃないかな」

「随分、細かいのね。分刻みじゃないの。弥生ちゃんもお仕事で、こんなことするの?」
弥生は首を振った。
「作業工数の管理はするよ。作業をお願いする人に対して、この日数でって。でも、こんな分刻みではやらない。日単位よ。それどころか、月単位。事務のお仕事は、また違うのかもしれないけど…」
「大変よね。息つく暇もないじゃない。こんなの」
「しかもさ。右下の日付の横に、1/3って書かれているのよ。3枚中1枚目。これがあと2枚あるってことじゃない。1日で」弥生は禍々しいものを見るように、メモを見つめた。「あぁ、件数も書いてある。1件あたり何分、とか後で出さなきゃいけないのかもしれない…」

「問題、解けそう?」
鉄平が心配そうに、弥生の顔を覗き込んだ。弥生は我に返ったように鉄平を見て、その頭に手をのせた。
「うん、きっと大丈夫。ママがもっと楽になるように、お手伝いするからね」


彩香は結局、土曜日と日曜日に1回ずつ食事に降りてきただけで、あとは自室にこもりきりだった。食事の時も、生気のないぼんやりした表情だった。

日曜日の夜、拓磨がシェアハウスに帰ってきた。
「彩香さん、大丈夫かな」
リビングで顔を合わせたゆりえに、拓磨は開口一番聞いた。
「どうかしら。ずっと部屋にこもりきりでね。詳しいことはわからないけど、随分大変みたい」
「鉄平、ママが仕事が大変で、全然笑わなくなったって。土曜日豪川土手に行ったとき、話してた」
「今ね、弥生ちゃんと相談しているの。何とかして力になれないかってね」
拓磨は頷いた。「そうだね。なんとかしたいよね。とにかくキツそうだから」

「あとさ」拓磨は、ためらうように言った。「だいぶ経つけど…覚えてる?はるは男だって言ったこと」
ゆりえは頷いて、拓磨の顔を見た。何か話したいが、言葉が見つからない。すると拓磨が先に口を開いた。
「…大丈夫なのかな」
「…え?」
「そういう」拓磨は、言葉を探すように、別の方向を向いた。「そういう人間が、ここに住んでいることが、大丈夫かってこと」

「大丈夫に決まってるじゃない」
「ほんと?」少し、拓磨の表情が緩んだ。「でも、弥生さんや彩香さんにも聞いておいてよ」
拓磨の言いたいことを図りかねて、ゆりえはまた拓磨の顔を見た。
「身近にいるだけで嫌だって人も、いるらしいじゃん。そういう人間が」

ゆりえは胸が痛くなった。拓磨はこのことで、どれだけ世の中を恐れてきたんだろう。

「でも、ありがとう。ちょっと安心した」拓磨は微笑んで、リビングを出ようとゆりえに背を向けた。「今は彩香さん、それどころじゃないもんね。そっち優先でね」
おやすみ、と、拓磨は自室に戻っていった。


月曜日の朝、いつもの起床時刻になっても、彩香は降りて来なかった。

【第4話 了】

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