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シェアハウス・ムラヤ 第5話

「ゆりえさん、ママが起きないんだよ」
朝、鉄平てっぺいがランドセルを持って、2階から降りてきた。いつもの登校時間が近づいている。
ゆりえは、慌てて立ち上がった。用意していた自分の朝食を食べるように鉄平に言い、代わって2階へ上がった。

彩香あやかちゃん。起きてる?入ってもいい?」
少し乱暴にドアをノックしながら、ゆりえは彩香を呼んだ。返事はない。
ゆりえは、少し逡巡してドアのノブに手をかけた。「ごめんね。入るわよ」
普段は、居室に入ることなどまずない。

彩香はベッドの上でタオルケットにくるまって、壁向きに横たわっていた。
「彩香ちゃん」
ゆりえが肩をたたくと、彩香は初めて声を出した。
「今日会社休む。ていうか、多分もう行けない」
抑揚のない早口で、彩香は言った。

その時、リビングから鉄平の声がした。「行ってきまーす!学校遅れちゃう」
彩香は動かない。ゆりえは、ちょっと待ってね、と彩香に告げ、一度部屋を出て玄関へ向かった。
「ゆりえさん、朝ごはん食べたよ」
鉄平はランドセルを背負って、靴を履いている。
「そう。よかったわ。いってらっしゃい。ママなら大丈夫だからね」
「うん。ゆりえさん、お願いね。早く元気にしてあげてね」

ゆりえが彩香の部屋に戻ると、彩香はさっきの恰好のまま泣いていた。
「彩香ちゃん」ゆりえはベッドの脇に座って彩香の肩をさすった。「どうしたの」
「ゆりえさん、ごめんなさい」彩香は泣きじゃくって言った。「起きられなくて、鉄平の朝ごはんも作れなくて。最近もずっと、鉄平をほったらかしで」
「そんなの、いいの。てっちゃんは皆で見守るんだから。困ったとき助けられなかったら、何のために一緒に暮らしてるのよ」
彩香はそれでも、泣きじゃくっていた。

部屋の外から、弥生やよい拓磨たくまが身支度をしたり、何か言葉をかわすのが聞こえた。まもなく玄関ドアの音がして、2人は出勤して行ったようだった。ゆりえはただ彩香の、肩と背中をさすっていた。

しばらくして落ち着いた彩香はタオルケットにくるまったまま、口を開いた。
「鉄平のパパも、こんな風に壊れちゃったんだ」
ゆりえは驚いて、彩香の方を見た。彩香がゆりえに、鉄平の父のことを話すのは初めてだ。彩香は、新卒で勤めた飲食チェーンの名前を言った。
「私は鉄平を産んでやめたけど、パパはずっとそこの店長をしていたの。私が入った頃からずっと。すごく頼れる人だった」

「でもある時急に、動けなくなっちゃった。4年前。まだ、ちゃんと仕事に戻れてないみたい。支えられたらよかったけど、鉄平と両方は、私には無理だった」
彩香は腕を出して、自分の肩をさするゆりえの手を握った。
「私は、まだ大丈夫。パパみたいになる前に、辞めるの」
ゆりえは頷いた。
「仕事も全然覚えられなくて、職場もめちゃくちゃなままで、本当に情けないけど」
彩香は体を起こして、また泣きじゃくり始めた。ゆりえは彩香を抱きしめた。
「でも」彩香はゆりえの肩を涙でぬらしながら言った。「私まで壊れるわけには、いかないんだよ」


しばらくして、落ち着いて眠り込んだ彩香に薄い毛布をかけ、ゆりえは部屋を出た。午前10時になっていた。食べそこねた朝食を簡単にすませ、キッチンを片付けていると、玄関チャイムが鳴った。

モニターを表示すると、ジャケットを着た、ゆりえくらいの年齢の女性が写っていた。
「お忙しい所恐縮です。私、EGイージースタッフのナカタニと申します。こちら、永井ながい彩香さんがお住まいのシェアハウスでしょうか?」
EGスタッフは、彩香の登録する派遣会社だ。ゆりえは、はい、そうです、と答えると、ナカタニという女性はモニターの向こうで微かに表情を曇らせて言った。
「永井さん、今日お仕事お休みされていて。今職場でいろいろ大変な状況をお聞きしていたものですから、様子が心配で」汗を拭き、さらに続ける。「通常、派遣担当者がこうやってお宅を訪問することはないのですが。今朝連絡くださった時のご様子が、心配だったもので…」

「そうだったんですね」少々お待ちください、とゆりえは玄関に赴いてドアを開けた。「お暑い中、お疲れ様です。彩香さん今は寝ているんですよ。よかったら中で冷たいお茶でも」
でも、と遠慮するナカタニを、ゆりえは迎え入れた。
「私も心配で。いろいろお話し伺えれば」

中谷なかたに 公代きみよ」と書かれた名刺を受け取り、ゆりえはダイニングテーブルで中谷公代と向かい合った。
「大家 兼 管理人の、降木ふるきです」
「永井さんから聞いております。親身になってくれる優しい管理人さんだって」
中谷は笑顔で頷いた。
「降木さんみたいな方がいらっしゃるから、大丈夫とは思ったんですが…永井さん、異動されてからかなり苦戦されていて。ご相談もいただいたんですけど、結局解決できずで」

「中谷さんにご相談されてたんですね」
中谷は、そうですね、と微笑んで言った。「永井さん、お子さん抱えて1人で頑張ってらっしゃるから、やはり気になって、お声がけはしていたので」

「私も、責任を感じているんです」
中谷は、異動の経緯を話し始めた。
彩香は3年間今の会社で派遣社員として勤めてきたが、「派遣社員の3年ルール」により、前の部署との契約は、先々月で終了だったこと。
「3年ルール」とは本来、3年を派遣社員として雇用した者を直接雇用しないといけないという、企業側の義務を定めたルールだが、それを逆手に取って3年で契約を終了する企業がほとんどということ。しかし部署を異動した場合、また新たに契約を結べるので、空きがあった今の部署に異動し、新たに契約をしたということ。

「でも、新しい部署の環境まで、もう少し気を配るべきでした。繁忙で、処理能力もより高いものが求められると聞いてはいたのですが、前の部署の永井さんの頑張りからすれば、大丈夫だと思っていたんです」
中谷は微かにため息交じりに言って、下を向いた。
「指導役の方との相性まで、もう少し気を配っていれば…元々その方以外は非常に出入りの激しい部署だということも、知らずに異動させてしまったんです」

「その方がかなり辛辣なことを言う方で、ちょっと耐え難い、と永井さんからご相談をいただいたのが先週末で。1か月我慢して頑張っておられたんですよね。もう少し的確な判断ができていれば、今の会社にこだわらずに、別な派遣先を検討しましたのに…」
中谷はそこまで話して、すみません、頂戴します、と麦茶を一口飲んだ。

「中谷さんにお伝えしたかわからないんですが…彩香さんは、もう会社には行けない、って言っていたんです」
「私も今朝、伺いました」
「契約途中で、そういうことはできるんですか?」
「基本的には難しいです」
でも、と中谷公代は言った。「やむを得ない理由があれば、可能なんです。事前にご相談いただいていたし、これまでお仕事を頑張ってこられた信頼関係がありますからね。ここで私が対応できなかったら、何のための担当者かわかりません」中谷は、頼もしい笑顔を見せた。「派遣社員は立場が弱いですから、担当者がこういう時にお守りできないと、いけませんよね」


昼過ぎ、ゆりえは彩香の部屋をノックした。「彩香ちゃん。大丈夫?」
うん、とくぐもった声が聞こえ、ゆりえはそっとドアを開けた。
「誰か来ていた?さっき」
彩香は朝と同じようにタオルケットにくるまって、ゆりえに聞いた。
「うん。EGスタッフの中谷さん」
そっか、来てくれたんだ中谷さん、と彩香はつぶやいた。
「辞められるよう、取り計らってくださるそうよ。何も心配せずに休んで、って言っていたわ」
彩香は情けなさそうに、でもそれ以上に安堵したように、ため息をついて頷いた。

「すごくお世話になったの、中谷さんには。私がシングルマザーだって聞いて、うんと心配して、親身になってくれて。なのに最後の最後、こんな迷惑をかけちゃった」
「彩香ちゃんに合った職場を紹介できなくて申し訳なかった、って言っていたのよ。まずは元気になるために、寝るか食べること。食欲は?」
彩香は首を振って、思い出したように言った。「今日の夕ご飯、どうしよう…」
「そんなの、気にしなくていいの。鉄ちゃんの好きな具沢山カレーを買いだめしてるんだから。皆でそれを食べるから大丈夫よ」

2日後、中谷から彩香に荷物が送られてきた。職場に残した彩香の私物をまとめて、送ってくれたのだ。こうして彩香は、3年と1か月勤めた派遣先を辞めることになった。


木曜日の朝、拓磨がゆりえに聞いた。
「彩香さん、少しは食べられるようになったかな」
「2,3日前よりはましになったけどね。でもまだ、お茶漬けくらいかな」
「そうなんだ。今日、夕飯の準備俺だからさ、彩香さんの食べられそうなもの頑張って作るよ」
あら、とゆりえは微笑んだ。拓磨はいつも「クッキング・ドゥ」など市販のご飯の素を使うことが多い。どんな料理を作るつもりなのだろう。

夕方、拓磨が帰宅した。だいぶ疲れているようだった。
「おかえりなさい。今日は暑くて、物流センターも大変だったでしょ」
「あぁ、やばかったよ。なんとか誰も倒れずに過ごせたって感じ」

拓磨は、駅前スーパーで既に食材を買ってきたようだ。
「何を作るの?」
これ、と拓磨はスマホのレシピを見せた。

ザーサイと鶏肉のスープ(2人分)
【材料】
ザーサイ 50g
鶏むね肉 150g
しらたき 1/2袋
長ねぎ 1/4本
A[酒大さじ1・塩少々]
B[水400ml・鶏がらスープの素小さじ2・醤油小さじ1]

【作り方】
鶏むね肉にAをふりかけ耐熱皿などに乗せラップをかけて、電子レンジで5-6分加熱する。
長ねぎは細切りにする。
しらたきに熱湯をかけ食べやすい長さに切る。ザーサイは細切りにする。
 ①は食べやすい太さに割く。
にんにくとしょうがをみじん切りにする
鍋にごま油小さじ1を熱し、④を中火で2分炒める
⑤に③を加えて軽く炒め、Aを加えて中火で2-3分煮る
②を加え、味をととのえる

「ザーサイと鶏肉のスープ」レシピ

「彩香さん、前ザーサイ好きだって言ってたからさ」
うん、とゆりえは相槌を打ちながらレシピを眺めた。今の彩香には少し重そうだが、好きな味なら食べられるかもしれない。それに、レシピに載っている写真がとても美味しそうだ。

しかし、キッチンに立って1分も経たないうちに、拓磨は頭を抱えはじめた。
「ヤバい。このレシピ、全っ然頭に入ってこねぇ」
「えっ、大丈夫?」
ゆりえはレシピをもう一度覗き込んだ。確かに、いつも拓磨が作っている「クッキング・ドゥ」を使ったレシピに比べると、格段に工程が多い。

「作り方の①で、鶏肉を生から蒸すじゃない。これをやめたら楽よ。ちょうど冷蔵庫にサラダチキンがあるから、それを代わりに使えばいいわよ」
ゆりえが提案したが、拓磨は生返事をした。相当、仕事で疲れているようだ。今日は代わりに作った方がいいのかな、と考えていると、ちょうど弥生が帰宅した。

あっ弥生ちゃん、とゆりえが声をかけると、会話が聞こえていたようで、弥生はまっすぐキッチンに歩み寄ってレシピを覗き込んだ。
「けっこう複雑だね」そして、拓磨の肩をたたいて言った。「拓磨、10分だけ休んでいてよ。その間に私が、レシピをわかりやすく書きなおすから」

弥生はぽかんとしている拓磨に、ソファで休むよう促した。そして通勤バッグからタブレットPCを取り出し、何か打ち込み始めた。

10分ほど経ち、弥生は拓磨を起こしてタブレットPCの画面を見せた。
「これで、どうよ」
ゆりえも一緒に画面を覗き込んだ。そこにはこんな図が書かれていた。

「ザーサイと鶏肉のスープ」レシピ(弥生の書き直したもの)

「拓磨、これならわかるんじゃない?学生の時使ったでしょ」
「わかるわかる、フローチャート。懐かしい」拓磨は笑った。「一応、情報工学科だったからね。今は8割肉体労働だけど。すっげぇわかりやすい」
いけそう、と力強くつぶやいて、拓磨は起き上がってキッチンに立った。

ゆりえは呆気に取られていた。
「弥生ちゃん、なんだかすごい図だけど、私にはよくわからないわ」
うん、と弥生は頷いた。
「ゆりえさんは長年の料理の経験もあるから、普通のレシピの方がわかりやすいよね。私や拓磨はそうじゃないし、理系脳っていうのかわからないけど…こうやって、曖昧さをなくしたり、順を追ってみられるものがいいんだ」
「⑤に③をいれて…とか、戻って見ないといけないし。あと『味をととのえる』が曲者くせもの
拓磨がザーサイを刻みながら、笑って応じた。
「『味をととのえる』嫌だよね」弥生も笑って頷いた。「そこは徹底的に、曖昧さ回避しておいたから」

人が変わったようにてきぱきと動き出した拓磨を見て、ゆりえは感心した。
「レシピをこんな風にするなんて考えたこともなかったけど、随分違うものなのね」
そして30分も経たないうちに、「ザーサイと鶏肉のスープ」は出来上がった。

「いいにおいがする」
彩香が自室から出てきた。
「拓磨くんが、美味しそうなスープを作ってくれたのよ。ザーサイ入り。食べられるかな」
ゆりえが聞くと、ザーサイ!と目を輝かせて、彩香はキッチンにある鍋を覗き込んだ。
「すっごく、美味しそう。食べられると思う」

そのとき学童から、鉄平が帰ってきた。
「鉄平!おかえり!」
鉄平は、笑顔の戻った彩香をみて、うれしそうに笑った。
久しぶりに、全員の笑顔が揃った食卓になりそうだ。

【第5話 了】

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