中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第1話 左右対称の顔の女(1)

「もうこの世に充分満足されたのではないですか?」

 二名掛けのテーブル席の向かい側に座ってきた女は、何の前置きもなく突然僕に話しかけてきた。

 買ったばかりの小説に夢中になっていた僕は、話しかけてきた人の姿を確認するよりも、その声から先に聞くことになった。濁りがなく、よく響く透き通った声だ。それでいて自信と気品を兼ね備えている。その感じから、年齢は僕と同じ三十代前半だろうと察した。だがその声には聞き覚えがなかった。すかさず顔を上げて女の姿を確かめたが、どんなに古い記憶を遡っても、その顔にはまったく見覚えがなかった。

 女は就職活動中の大学生を彷彿とさせる黒いスーツに襟付きの白いシャツを身に付けていた。つい先ほどおろしたばかりのように皺一つなく、くたびれた様子も感じられない。胸にはマネキンのように大きくも小さくもない無機質な膨らみを均等に備え、その新品同様のスーツになだらかな丘を作っていた。テーブルの下からベージュ色のストッキングと黒いパンプスが覗いている。上から下まで模範的な就職活動生の格好をした彼女は、まるで自分の存在を必死に抑えつけようとしているかのようだった。

 だがそのような自己主張のない服装は、彼女自身が備えている存在感をむしろ助長させているように感じた。心の中を見通すような大きく透き通った瞳、小ぶりだがしっかりと筋の通った鼻、意思の強さを示すかのように固く結ばれた口——彼女の顔を構成するパーツの一つ一つが輪郭を強く持っている。それに加え、女の艶やかな黒髪は、まるで日本人形のように肩の上で綺麗に切り揃えられ、彼女の神秘性をさらに際立たせていた。

 彼女のあまりにも端正な顔立ちに、僕はぼんやりとした不安を感じざるを得なかった。この感覚は、見たことのない異形の生物が夢の中に現れたときのような落ち着かない気持ちに似ていた。しかし、僕が最も目を引かれたのは彼女の美しさに対してではない。

 人の顔というのは程度こそあるにせよ、完全な左右対称ではないという話をどこかで聞いたことがある。だが今、僕の目の前に座っている女は、細部まで観察すればするほど完全なる左右対称の顔を持っているように見えた。先ほど得体の知れない不安を感じたのは、この世界には決して存在するはずのない完璧な存在が実際に目の前に現れたことに対して、生存本能が異変を察知したからなのかもしれない。

 この不思議な女をおおかた観察し終えてようやく、「この人は何の用件で僕に話しかけてきたのだろうか?」というごく当然の疑問が頭の中に浮かんできた。ゆっくりと深呼吸し、女が言っていたことを思い出す。確か、「この世に充分満足したか」といった趣旨のことを言っていたように思う。だけどもしこれが僕の聞き間違いではないとすると、この質問の真意は何なのだろう?

 お世辞にも決して性質の良い質問とは言えない。少なくとも初対面の相手に対して第一声で話しかけるような内容ではないのは確かだ。だけど僕はこの種の質問をする連中に今まで何度か遭遇したことがある。悪徳セミナーの勧誘と、企業や研究機関が実施する街頭調査だ。が、悪徳セミナーの勧誘にしてはあからさまに怪しすぎるし、企業や研究機関の街頭調査にしては質問の意図が不明確すぎる。あるいは彼女はただの一般人で、純粋な好奇心から僕に質問しただけなのかもしれない。だがこの世界のどこに、赤の他人に対して「この世に満足したか」などという馬鹿げた質問をする人がいるのだろうか。

 僕はどう答えるべきか迷った。このまま聞こえないふりをしてやり過ごそうかとも考えた。しかし、一片の曇りもないまっすぐな視線を向けられていたら、さすがに無視するのも憚られる。

 思い切って、何でもいいからひとまず返答しようと心を決めた時、女は再びその口を開いた。

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