中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第4話 エス(3)

 リビングのソファーに横になった途端、全身の力が一気に抜けるのを感じた。このまま化粧も落とさずに眠りに就きたいほどだった。幸い、両親はまだ仕事から帰って来ていない。

 たまに活動的になると、必ずどこかで反動が来た。まるでバネのように、ある方向に力を加えると、それとは逆方向に弾性のような力が発生した。押す力が強ければ強いほど、反発する力は大きくなった。あるいは、高台から海に飛び込むような感覚と言った方が近いかもしれない。その勢いに比例して、深度も増す。地上からの光が一切届かないと思うほどの深さまで到達することもある。地上へはもう二度と戻れないと感じるほどの、濃紺と漆黒のグラデーションで彩られた深海の奥深くまで——。

 けだるい身体をソファーに横たえたままスマートフォンの画面を確認した。先ほど送ったメッセージに既読マークが付いているのを見て、わたしははっとした。返信はまだない。それでも、わたしからの不躾なメッセージはひとまずSの目に入ったようだった。そう思うと、嬉しい反面、後悔の念も蘇った。横隔膜いっぱいに息を吸い、ゆっくりと時間をかけて息を吐き出す。この作業を何度か繰り返した。胸の奥にざわめきを覚えると、いつもこのようにして平静を取り戻すのだった。

 Sの投稿リストを開いて、再び《青木ヶ原樹海》の写真を探した。目当ての投稿はやはり見つからない。それともわたしの見間違いだったのだろうか。昨日見たのはSの投稿ではなく、別の誰かの投稿だったという可能性もゼロではない。しかし……。

 昨晩は酔っていたとはいえ、その程度の冷静な判断ができないほどではなかった。どちらかというと、意識は明瞭な方だったと記憶している。昨晩、Sのアカウントで例の写真が投稿されていることを、わたしは確かにこの目で見たのだ。見間違いなどでは決してない。それともあれは夢だったのだろうか? だけど、その投稿が消えてしまった今となっては確かめようもないことだった。

 気を取り直して、わたしはこれまでにSが投稿した内容をはじめの方から遡ることにした。返信が来たときに備えて、彼についての情報をできる限り集めておくに越したことはないからだ。

 幸か不幸か、彼の投稿はそれほど多くはなかった。SNSは比較的最近になってから始めたようだった。これなら途中で力尽きて寝てしまうこともなさそうだ。

 彼が残した記録を文字一つ読み落とすまいと、わたしは慎重に読み進めていった。


 3月31日——
〈今朝、砂漠の夢を見た。この夢は以前に一度だけ見たことがあった。それは幼い頃、三歳か四歳の頃に一度だけ見た夢とまったく同じだった。何かを示唆しているような、不吉な予言のような夢。だから僕は、今日この夢を見たことを記録しておくために、インストールしたまま寝かせていたこのSNSを本格的に使い始めることにする。それにしても、目が覚めてしばらく時間が経つのに、頭にこびりついてなかなか忘れられない。それに思い出す度に耳鳴りが伴う。しかしどうして突然こんな夢を見たのだろう。ここ最近、夢らしい夢なんて見ることはなかったのに……〉

 4月6日——
〈あの夢を見た日から、何をしてもうまくいかなくなった気がする。それに、なんだか体調もすぐれない。頭痛はするし、胃のあたりのムカつきが激しい〉

 4月10日——
〈会社の上司や同僚たちは『何かあったらすぐに相談しろ』などと偉そうなことを言う。だけどその割には、相談しても何か実際に手を打ってくれたりはしない。報告や相談に時間を使うだけで、なんにも前に進まない。助けてくれない。それどころか、貴重な時間が奪われるだけで、ますます仕事は遅れていく一方。
 だけど当の本人たちはどうやら人助けをした気になって、気分は良いようだ。まさに自己満足とはこのようなことを言うのだろう。僕に偉そうな助言をした後、彼らは喫煙室に行って僕の無能さを嘆き、自分たちの有能さに酔いしれていたことは知っている。そりゃ、助言してくれたこと自体には感謝している。『苦手な顧客でも、ちゃんと話せばわかってもらえる。だから辛抱強く対話していけ』と。でもそれくらいのこと、僕だってわかっている。話せばわかる。そんなこと小学生だって知っていることだ。それは十分わかっていて、自分としては出来る限り対話しようと努力しているのに、それでもうまくいかないから苦しんでいるんだ。頭でわかっているのと、実際にやるのとでは全く異なる。まるで雲泥の差だ。なぜそんなこともわからないのか? 報連相? そのあとのフィードバックがクソならば、そんなもの、クソ喰らえとしか言いようがない。『働き方改革』で真っ先に見直すべきなのは、上司たちの自尊心を満たすために強要される報連相の時間からである〉

 4月20日——
〈夜、なかなか眠れない日が続いている。やっと眠れても、疲れが取れないことが多い。それに毎日、身体がだるい。僕のやせ細った体はこんなにも重たかったのか……〉

 4月23日——
〈もう会社に行きたくない。みんな、僕を追い詰めるだけだ。助けようともしてくれない。みんな口ばっかりだ。仕事を休みたい。だけど仕事に行かないと、ますます状況は逼迫していく。それであれば這ってでも職場に行って、少しでも仕事を片付けた方がいい。
 僕は泥水をすすり、周りのやつらは美味しいところばかり持っていく。奴らは僕の成果を横取りし、僕を踏み台にして出世していくのだ。奪った手柄をまるで自分のもののように、上司にアピールして、上へ上へと昇進していくのだ。
 僕は哀れなハイエナだ。そして彼らは勇猛なライオン。世間一般的には、ライオンが獲った獲物をハイエナが横取りしていると認識されているらしいが、実際には逆なんだ。ハイエナが獲った獲物をライオンが奪う。いかにも悪者らしい薄汚れたハイエナは、そのワンカットを映しただけで、まるで最初から悪者かのように盗人扱いされる。
 今思うと、昔から僕はそうだった。そういう損な役回りだった。
 もう、逃げられるものなら逃げ出したい。でもどこに逃げればいいのだろうか……〉

 4月24日——
〈明日からは待ちに待った大型連休。まあ僕も一応、お休みということになっている。あくまで体裁上の話だけど……。実際には、ずっと家に籠って作業することになるだろう。当然、勤務時間としてカウントはされない。ということは当然、無給ということになる。
 正直、ここで吐き出したいことは山ほどあるけれど、誰かに言って分かってもらえるとは思えないし、悲しくなって自分のやる気が失われるだけだから、何も言わないでおく〉

 4月25日——
〈もうここ数週間まともに眠っていない。せっかくの連休が始まったというのに、どうしてこうも眠りが浅いのか。
 最近僕はよく幻覚を見る。会社の皆が僕を殺そうとしている幻だ。彼らは僕のことを社会的に抹殺しようと陰で企んでいるのか? 何も悪いことはしていないのに。でも別に、それならそれでもいい気がしてきた。ご要望通り死んでみせたら、一体みんなどんな表情で連休明けを迎えるのだろうか? 想像してみるとなかなか愉快だ。そう考えると、今ごろ有意義な長期休暇を楽しんでいる彼らの姿を想像しても、まったく苦痛にならない〉

 4月26日——
〈やっぱり眠い。眠すぎる。それなのに、眠ろうとすると眠れない。頭も体も、こんなに眠りたがっているのに、仕事のことが頭から離れない。たかが仕事のことで、どうしてこれほどまでに追い詰められないといけないのか。多分、このままだと連休明けに痛い目に合うのは目に見えているからだ。約束した成果を出せなかったことに対して、顧客から怒鳴られ、理由を追及され、上司からはさらに詳細の報告を求められ、そして現状は何も変わらない。だからこの連休中にどうにかしてやりきって、一旦ここでリセットしなければならないのだ。
 大丈夫、僕ならできる。なんだかんだ言って、今までの人生の難局も、何度となく困難を乗り越えてきた。これは僕に与えられた新たな試練なのだ。あと少しだけでいい。あと少しだけでも、頑張ろう。スーパーポジティブシンキングで乗り切ろう!〉

 4月30日——
〈僕は、一体、何をしているのだろうか〉

 5月1日——
〈消えたい。そして早く楽になりたい〉

 5月2日——
〈だれか僕を跡形もなく消してくれ〉

 5月3日——
〈もう頑張るのはやめた。僕が一人で頑張ったって、長期的に見たら誰の得にもならない。僕はもうこの仕事から降りることにする。僕みたいに一人で抱え込む人間がいても、他人に迷惑をかけるだけなのだ。その方が絶対にみんな幸せになれるはずなのだ。僕は、間違ったことを言っているだろうか?〉


 日が経つにつれて、次第に彼が壊れていくのが目に見えてわかった。そして次が昨晩の投稿。彼が投稿したはずの消えた樹海の写真を、わたしが確認したのとほぼ同時刻に投稿されたものだった。その悲痛な叫びが綴られた長い文章は、まるでわたし自身の心の叫びを代弁しているかのように思えた。

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