珊瑚のない海

泳げもしないのに、海に行きたいと、そう彼にねだった。
本当のところ、(なんて気障な物言いだと自分でも恥ずかしくなるけれど、)もうこの世界のどこにもいたくなかった。辛うじて、陸と海の境目になら居場所のようなものがあるような気がして、やっとのことでここまで逃げてきたのだ。

夏になったって海水浴場になることもない、地味でさびれた砂浜は、なんだかすごく私にお似合いな気がした。
もっとも、潮はすっかり満ちてしまって、浜辺なんてもうどこにも見えなかったけれど。
なにもかも、どうだってよかった。
知り合いのひとりもいない町で、誰かに恥じなければならないことなんて何もなかったみたいな顔をして、私は、この人と手を繋いで歩いてみたかったのだ。

出会ったころは色白だと思っていた彼は、この夏ずいぶん日焼けしたようだった。残暑にうっすら汗を滲ませて、少しのことでも大げさなくらいにはしゃいで、あどけない表情で笑って、まるで十代のころに戻ったみたいだった。

「久々に見ると、いいね。海」

焼けた腕には、仕事のときつけているんだろう、腕時計の跡がくっきりしている。夏の匂いの香水。あの頃、香水なんて一生しそうにない男の子だったのに。こんなのいつ覚えたんだろう。
きっと、きっかけは奥さんなんだと思う。彼には年下の、背の高い、うつくしい奥さんがいる。
この人は、どうして今、彼女の選んだ匂いをさせながら、わたしと一緒にここにいてくれるんだろう。

「あ、かもめ、いっぱいいるね」
「かもめとうみねこって、どう違うの」
「鳴き声じゃない?にゃあにゃあ鳴くのが、うみねこ」
「かもめは?」
「知らない」
「無責任だね、いつもそうだ」

そう笑ってみて、いいや、無責任なのはいつだって私だな、と思う。
十代のころ、私はきっと、この人に見せたくない姿ばかり見せてきたんだと思う。どうにもならない姿ばかりをさらして。
たとえば図書館で私がどんな顔をしていたか、多分この人は知らない。
たとえば、隅の机で、あの絵を何度も何度も眺めていたことだとか、その理由だとか。
たとえば、あのころ恋人と、どんな会話をして、どんなにいやらしいことをして、どんな風に傷つけあって、どう葛藤して、――。
どんなに卑怯に、どうしようもない何かにじりじり焼かれるように、恋人ではないこの人を思って泣いていたか。

たとえばもう少し若い間に一度ぐらい、一緒にお酒を飲んで、そのままなんとか悪いことを言って――今よりまだもう少しだけかわいげのあったころなら、もしかしたら、そういうたくらみで、もっといい形で、失うことができていたのかもしれないと思う。
たぶん、そうすれば、こんなことにはならなかった。たぶん、こんなことには。

「奥さん、元気?」
「うん、元気元気」
「女と二人で海、とか。心配するでしょ」
「相手、おまえだよ?心配する余地ないよ」
「それはそうかもしれないけど」
「咲子となら安心だから楽しんでおいでって、なんなら泊まりでもいいよって」
「それはまずいでしょ」

うまく笑えているか、わからない。
手なんて繋げるわけないって分かっていた。
この人はもう二度と、ぜったいに私のことを、都合よくなんて扱ってはくれないのだと思う。
私はこの人にとって、自分の暮らしを侵害してこない安全な人間で、抱くことなんて考えもしない女。気の置けない、ごく親しい友人。
たぶんこれまでもずっと、これから先もずっと、もうそれだけは、壊してしまう以外に変化のしようがないのだと思った。

いつの間に涙がこぼれていたのか分からない。つうと頬に冷たい感触が伝って嗚咽が漏れてしまう。
驚いた顔で彼がこちらを見て、口を開きかけるのを、手のひらで塞ぐ。しゃくりあげながら、彼の顔を見られないまま、何かとりとめのない話をしようと思った。思い出したことを、そのまま。

「昔、よく、家族で、一緒に遊びに行ってた男の人がいて。今思えば、ママと付き合ってたのかもしれないな、と思うんだけど。」
「……うん」
「私から見るとだいぶ大人だったんだけど、まるでぜんぜんだめな人だったの。」
「どんなふうに?」
「なにも隠し事ができなさそうな顔をして。なのに隠し事をたくさんたくさん抱えて、多分、はちきれそうになってたと思う。今思うと、まだ若くってさ。なんだったら、今の私より若いかもしれない。そんな男の子がさ。」

時々しゃくりあげる私をからかいも突き放しもせず、彼はじっと私の眼を見ている。海が静かに鳴っている。

「でさあ、私、一時期、その人の眼、珊瑚の海だと思ってた」
「珊瑚?」
「眼玉って地球と海みたいでしょ。表面だけが涙にうっすら濡れて。地球とかそういう規模で見ると、海だってそうでしょ。表面を、うっすらと濡らしているだけで。だからどんな人と会っても、わたし、この人の眼はどんな海だろう、って想像するの。
それで私、その人の眼はたぶん、浅い浅い珊瑚礁の海だなって思った。きれいで、でも迂闊に飛び込んで好き勝手に泳いだら、珊瑚ぐしゃぐしゃになって、元には戻らなくちゃうんだろうなって。
……きれいな目、なんて、してたことないけど。わたしも、同じだったのかもしれないと思った。すぐぐしゃぐしゃになる眼の、だめなおとな。」

直視はできない。横目で、彼の顔を盗み見る。
壊すのってこんなに簡単だったんだな、と思う。もう少し若かったら、友だちに戻ることもできたんだろうか。

「……何もしてあげられないよ、もう。僕からは。」
「いいんだよ、それで。それでいい。」

海に足を浸すか、ほんの少しだけ迷ってやめにした。
涙が止まったら、何事もなかったみたいに、食事をして、潮くさい服で電車に乗って帰って、それから、私はこの人に、二度と会わない方がいいんだと思う。

(2019/9/24)

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