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ドキュメンタリーは真実を映さない~【映画】FAKE

佐村河内守を覚えているだろろうか。

全聾の作曲家として注目を浴びながら、実はゴーストライターが作曲をしていたことが暴露され、一時期、ワイドショーの話題を独占して人物である。

あれから2年、「私がゴーストライターでした」と告白した新垣隆はその特異なキャラからか、バラエティーに引っ張りだこになり、インタビュー記事を書いた神山典士は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。佐村河内だけが社会から抹殺されたままだ。

この映画は、その佐村河内の現在を追ったドキュメンタリーである。監督は森達也。オウム信者たちを被写体にした伝説のドキュメンタリー映画『A』・『A2』を撮った監督である。

映画を観ているうちに、世間で流布している情報の多くが嘘だとわかってくる。新垣・神山ラインがすべて本当のことを話しているなどということはありえない、と気づくはずだ。両者に取材を申し込むも、神山は多忙を理由に断る。新垣は森に面と向かって「是非お話ししたいです」と言いながら、実際に申し込むと事務所から拒否される。裏がある。取材を受けると都合が悪いことがあるのだろうと思えてくる。

もしかするとこの映画は、佐村河内サイドに立って、彼を公開処刑したメディアを糾弾する作品なのではないか。そんな気にさせれる時間帯もあった。

だが、時間が進むにつれ、佐村河内の胡散臭さも際立ってくる。
「これ以上、嘘は言わない」
という佐村河内の言葉に嘘はないのか。もっとほかに隠していることはないのか。

どこまでが嘘で、どこまでが真実なのか。誰が嘘を言い、誰が真実を語っているのか、きっとわからなくなる。虚々実々の世界に誘われていくことだろう。

昨今の白黒をはっきりつけないと気が済まない風潮、その間の領域に興味を示そうとしない社会的雰囲気を、僕は苦々しく感じてきた。たいていの真実はグレーゾーンに隠される。100%の善人も100%の悪人も滅多にいるものではない。そうした曖昧さの中で生きているのが現実だと僕は思ってきた。しかし現代は、一方を正義に見立て、もう一方を悪と決めつけて糾弾し、カタルシスを得るような社会になっている。

この映画はそうした風潮に抗う。視点は提示しても結論は示さない。ラストまで、エンドロールが終わったそのあとまで観て、何を感じるか。それは観た人一人ひとりが自分なりに解釈し、考えるしかない。

ドキュメンタリーは調査報道・客観報道ではなく表現である。そうである以上、主観であり作為であるのだ。そして「ドキュメンタリーは嘘をつく」。もしかしたらこの映画は、すべて台本に則ったフィクションなのかもしれない。そんな解釈だってあり得るのだ。


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