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初老の階段昇る ぼくはまだ壮年期さ

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初老の階段昇る ぼくはまだ壮年期さ

最近の記事

ソウル・ケーシー高峰2010

頻尿にいたるメカニズムですが これ様々な原因があるわけですね。 加齢であったり、神経性のものだったり 細菌感染によるものだったりと。 たかだかおしっこが近いといっても 例えば前立腺の癌かもしれないっていう 可能性なんかもあるんですね。 仕事してる方なんかは大変ですよね。 オフィスかなんかで― どうしても手が離せない、 トイレに行く暇がないほど忙しい、 あるいは『あいつまた小便か』なんて 思われるのが恥ずかしい、 なんて場面もあろうかと思います。 そんな時はどうしても 内股ぎ

    • ハードコアパンクと私 16

      文化祭のステージは良かった、凄かったなんて意見もありましたが ワケわかんなかった、汚い人たちだったなんてネガティブな 意見もありました。 そりゃあピラニアボーイ! (何だあいつら汚いカッコ、バッカじゃないの、  ガチャガチャうるさいうるさい!) 1986年 兄はハードコアパンクバンドを解散し、新たなバンドを組みました。 そのバンドのデモを聴かせてもらったんですけど バニーメン風・・・ってゆうかモロに"DIS"期のROOSTERSでした。 "DIS"~"PHY"あたりのRO

      • ハードコアパンクと私 15

        バンドのメンバーとハヤシ君を交えてミーティングをしました。 「おれ最前列でガンガン盛り上がるからさ!ハヤシとやってくれよ!」 とシゲオ君。 こうしてシゲオ君は脱退し、二代目のドラマーはハヤシ君になりました。 もう文化祭まで2週間を切っています。 放課後は毎日練習です。 ところでステージ衣装。 制服でもいいんですけどやっぱりパンクバンドなので それっぽくしたいところです。 僕は黒スリとラモスカ製のTとスタッズベルトにマジモンの長い安全靴。 (当時はミチロウ氏も長い安全

        • ハードコアパンクと私 14

          1985年夏休み明け。 先生に許可を貰って音楽室で合同練習を始めました。 休みの日はシゲオ君がドラムを習ってたヤマハの教室へ 行って合わせたりしてました。 まあ全員ズブズブのド素人なのでそんな簡単に まとまるわけありません。 あの溜まり場の主、吹奏楽部のハヤシ君はそんな僕らを 気にしてて練習を見に来て、ここはもっとこうした方がいいとか 助言してくれてました。 特にドラムは多少経験があったようでシゲオ君には 熱心なアドバイスをしていました。 その頃ハヤシ君に僕が 「ハヤシ

        ソウル・ケーシー高峰2010

          小山卓治”YELLOW WASP ” 2001

          盗んだバイクにまたがって 女をケツに乗せて走りだした 浦安のボーリング場の 駐車場で決闘が始まる 夜の9時コンビニの前 集まったバイクと車の群れ 急げばまだ間に合うはず 5月28日のこと 俺や仲間達は いつでもこう呼ばれる 残留孤児2世 黄色いワスプの住んでるこの国じゃ 暗闇の駐車場の隅 俺達は族に囲まれた ナイフや曲がった鉄パイプ キラリと光って襲いかかる 殴られて必死に逃げて 迷いこんだ袋小路 金網にへばりつきながら 盗んだナイフ握ってた 殺される この国へ来てから い

          小山卓治”YELLOW WASP ” 2001

          ソウル・ケーシー高峰2009

          「低迷中の日本、終わらない不況。 先の見えない将来への不安。 そんな景気と反比例して、ついつい酒量が増え アルコール依存症になってしまう方も 少なくないと聞いております。 アルコール依存症も症状が進行していくと もうところかまわず飲みたくなるわけですね。 しかし会社に行けば上司や同僚、 家に帰れば家族や恋人に飲酒をたしなめられる なんて状況の方もいるんですよね。 ま、ま、それで断酒が出来ればこれ幸いなんですけど 体がどうしてもアルコールを欲してしまうんですね。 そういう人は

          ソウル・ケーシー高峰2009

          ハードコアパンクと私 13

          1985年の夏。 バンドは夏休み中は課題曲を練習して 夏休み明けに全員で合わせるみたいな予定でした。 竹中出身のシゲオ君にTHE STALINを教えた張本人ヨージ君(別の高校)と シゲオ君の紹介で出会い、意気投合して同じ海の家で バイトすることになりました。 「バンドの曲、何演んの?」 「オリジナルが2曲位であとは白(KURO)の"絶望"、  ラフィンの"I CAN'T TRUST A WOMAN"と  GAIの"LITTLE STAR"のカバー」 「お、何か白(KUR

          ハードコアパンクと私 13

          ハードコアパンクと私 12

          1985年。 東京でひとり暮らしを始めた兄はハードコアパンクバンドを結成し、 髪を金色に染め上げました。 今でこそ金髪の若者なんて珍しくないですけど 1985年に金髪にするのはまだまだ気合が必要な頃です。 街宣車で演説する右翼から「こら!そこの金髪!この非国民!」なんて 罵声を浴びせられる時代です。(このエピソードはアナーキーのマリ氏) 詳しく聞いたことないんですけど仕事とかどうしてたんでしょうか。 兄が組んだバンドは女性ボーカルでカムズタイプのバンドでした。 スタジオ

          ハードコアパンクと私 12

          リップ・ヴァン・ウィンクルの話って知ってます?

          寝ますか?寝る前にお話しひとつしてあげますよ。 リップ・ヴァン・ウィンクルの話って知ってます? いい名前でしょ、リップ・ヴァン・ウィンクル。 彼がね、山へ狩りに行ったんですよ。 山へ狩りに。 そこでね、小人に会ったんです。 何ていう名前の小人だったか忘れましたけどね。 随分昔の話だから。 とにかくその小人に会ってウィンクルはお酒をご馳走になったんですよ。 そのお酒があまりにも美味しくて、どんどん酔ってしまったんです。 そして、夢を見たんです。 眠りに落ちて、夢を見たんです。

          リップ・ヴァン・ウィンクルの話って知ってます?

          ハードコアパンクと私 11

          1984年。 部活をやってなかった僕は放課後にアルバイトを始めます。 毎月のように欲しい新譜は出るし、 ラモスカ(ってパンクショップ)で通販したいし、 買い食いとかもしなきゃいけないしで 薄い小遣いじゃ話にならなかったからです。 スーパーとかディスカウントショップとか 平日の夕方3時間くらいだったんですけど あんなに時間が経つのが遅いって思った経験は なかったですね。 大人になって8時間とか働けんのかな?って考えてましたが 大人の8時間って結構あっという間なんですよね。

          ハードコアパンクと私 11

          鶯谷陰獣派

          鶯谷っていう山手線の駅はご存知でしょうか。 南口を出て右側、山手線の内側には 博物館や美術館などが密集するアカデミックな地区、 南口左側、北口、山手線外側にはひしめき合うラブホテル、 店舗の無いディープな風俗店、チープな飲み屋、 今は無いけど豪華な作りのグランドキャバレー、 吉原ソープの送迎車。 表もあれば裏もあるを体現したような駅です。 僕は二十歳前後の頃、4~5年鶯谷で過ごしていました。 今はもう無い専門学校が鶯谷にあって、 バイト先がやっぱり鶯谷のグランドキャバ

          鶯谷陰獣派

          ハードコアパンクと私 10

          新入生歓迎会が終わり、教室へと向かう渡り廊下で シゲオ君に「スターリン好きなんだ?」って話しかけ それ以来つるむようになりました。 よく話を聞いてみるとシゲオ君はパンクバンドは スターリン位しか知らなかったようでした。 近所にパンク界隈に詳しいヨージ君っていう同級生がいて、 教えてもらったそうです。 この頃、シゲオ君はTHE STALINの"アレルギー"っていう シングルレコードを買って(A面の曲が52秒しかないから) 「何か損した気分なんだよなあ」って言ってました。 「

          ハードコアパンクと私 10

          ソウル・ケーシー高峰2007

          よく大工さんが口に釘をくわえてから叩いてますよね。 あれは釘に唾液を付着させることによって 腐食の進行を早め、抜けにくくしてるんですね。 それよりももっと強力で確実な方法があるんですよ。 今日はそれをお教えしましょう。 まず釘を温めます。 そんなに熱くなく、手で持てる位。 温めたら釘とミンチを絡めます。 牛豚鶏なんでもいいです。 絡めたらすかさず打ち込みます! これだけの事でもう木材と釘が一体化したのかと思うほど 釘が抜けなくなります! これを業界用語で"挽き肉ぬくい釘

          ソウル・ケーシー高峰2007

          ハードコアパンクと私 9

          はー、こんなシーサイド田舎シティでもスターリンのカバーとか する人いるんだーって観てたら、僕の隣の隣に座ってた同級生が 座ったまま頭を振り、バンドと一緒に歌い始めました。 僕の隣の同級生が「え、なに、(このバンドの)知りあい?」と 僕の隣の隣の同級生に問いかけました。 「知らない!この曲好きだからバックアップ!」って 隣の隣の同級生は頭を振りながら歌い続けます。 隣の隣の同級生は入学当時からスパイキーヘアーで、 なんかあいつ髪立ってんなって気付いてはいたんです。 だけどどう

          ハードコアパンクと私 9

          ハードコアパンクと私 8

          1984年。 受験に対してふざけた心構えで挑んでいたのですが なんとか地元の高校に滑り込むことが出来ました。 (そもそもそんなにレベル高いとこじゃないから) 入学し何日かして新入生歓迎会ってイベントが開催されました。 2年生、3年生の先輩が新入生のために余興をするっていう いかにもだるそうな会です。 昼休みが終わった後、新入生は体育館に集められました。 4組くらいの演者が出てたと記憶しているのですが予想どおり、 当時流行ってた歌謡ポップを歌って踊ったり、 フォークソン

          ハードコアパンクと私 8

          ハードコアパンクと私 7

          1983年。 "OUTSIDER"V.A.はカセットテープに録音されたもので初めて聴きました。 都心で暮らしていた兄は日本のハードコアパンク第一世代の波を モロに受け、ライブハウスで今はもう伝説になっている人たちの ライブを目撃し、日本の自主盤や海外のハードコアパンクのバンドの 輸入盤を買いあさりはじめました。 弟思いの優しい兄は買った音源でいいものがあるとカセットに ダビングして送ってくれるようになりました。 その中の一本に”OUTSIDER"V.A.があったのです。

          ハードコアパンクと私 7