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「差別の引っ越し」していませんか?

先月末の記事で、1月に観た映画11本のレビューを書いた。だけど、1本だけ書かなかったものがあった。それは、その映画についてだけは別枠で記事を書こうと思ったからだ。

これまで、さんざん映画を観てきたけれど、こんなにも悲しく、苦しい思いをした映画はなかった。特に冒頭と終盤では、思わず目を背けたくなるほどだった。よく「胸が押し潰されそうになる」という表現があるが、大げさではなく、まさしくそうした心情になった。

もちろん、読者のみなさんがこの映画を観ても同じような感想を抱くかはわからないし、私のように「胸が押し潰されそうになる」かはわからない。というのも、この映画のテーマが私の人生に大きく関わる「差別」についてだったからだ。

その映画とは、誰もが耳にしたことのある——。

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「乙武洋匡の七転び八起き」
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島崎藤村『破戒』である。誰でも耳にしたことのあるこの作品は、これまでに二度、映画化されている。一度目は1948年に木下惠介監督、池部良主演で、二度目は1962年に市川崑監督、市川雷蔵主演で。私が観たのは、この「市川崑×市川雷蔵バージョン」だ。

「なんだ、定番中の定番じゃないか……」という嘆息も聞こえてきそうだ。無理もない。『破戒』と言えば、日本において差別を扱った小説の代表作。これまで数々の評論が加えられたり、研究がなされたりしてきた。いまさら文学や映画の批評家でもない私が能書きを垂れる必要などないはずだ。

しかし、私はどうしても書かずにはいられなかった。それは、令和を迎えた今の時代だからこそ感じられることがあったからだ。2021年現在の「差別」を踏まえた上で、この作品を語ることができるからだ。

私が痛烈に感じたのは、「差別の引っ越し」ということだった。

主人公・瀬川丑松は、被差別部落の出身であることを隠して生きている。小学校で教壇に立つ彼は、子どもたちから慕われ、教師としても高く評価されている。もしも自分が部落民だと知られてしまえば、そうした幸せはすべてが崩れていく。すべてを奪われていく。丑松は、そうした薄氷の上で生活を送っている。

職場には、土屋という親友がいる。土屋は丑松のことを非常に高く評価し、信頼を寄せているが、目の前にいる相手が部落出身ということなど知る由もなく、丑松の前で差別的発言を繰り返す。丑松はそのたびに「仮面をかぶったまま」部落民を擁護するしかなかった——。

この映画を「明治後期の」「被差別部落への差別」を描いた作品という閉じた構図だけで捉えていたなら、おそらく私はここまで痛切な悲しさや絶望感を覚えることはなかっただろう。だが、私は物語が中盤まで進んだあたりで気づいてしまったのだ。これは正真正銘、「現代の話」ではないかと。こうした差別の構造は、小説で描かれた時代から100年以上がたったいまでも、そっくりそのまま引き継がれているではないかと。

そう、「部落」をそのまま「LGBTQ」に置き換えたなら、古典中の古典であるはずの島崎藤村『破戒』は、現代の物語として読み替えても、まったく差し支えがないという残酷な事実を突きつけられてしまったのだ。

昨年、私はトランジェンダーの主人公・イツキの苦悩を描いた『ヒゲとナプキン』という小説を上梓した。そのなかに、こんな場面がある。

ランチを平らげ、三人は中華料理店を後にした。渡りかけた横断歩道の信号が点滅を始めたタイミングで、イツキは「あ、僕、コーヒー買ってきます」と後ずさりして二人を見送った。三人揃ってオフィスに戻ることになれば、その流れで一緒にトイレへ行くことになる。個室しか利用できないイツキは、そうした機会はできるかぎり避けるようにしていた。自動販売機で缶コーヒーを買い、店を出たところでプルタブを引いた。毎日のように体内に流し込む液体の苦味は、もはやコーヒー本来の味わいなのかわからなくなっていた。

これは主人公・イツキが職場の同僚とランチを終え、帰社する際の場面だ。男性器がないために立ちションができず、トイレでは個室しか利用できないイツキは、トランスジェンダーであるという素性を隠すために、同僚たちと一緒にトイレに行く機会をなるべく作らないようにしているのだ。

こうしたエピソードは当事者の方々に取材を重ねて盛り込んだ。そんな作品を書き上げた私には、丑松の心情が痛いほど理解できてしまい、そして丑松の弱さを許してほしいと読者や視聴者に懇願して回りたい気持ちになった。つらいのだ、とにかく「自分」を「自分でないもの」として生きていくことは本当につらいのだ。だからと言って、「本当の自分」を開示して生きていけるほど、この世の中はやさしくないのだ。

「差別はよくない」

誰もが言う。誰もが頭ではわかっている。しかし、100年前に部落出身者に向けられていた感情が、いまではLGBTQにそのままトレースされている。ここ数年で少しずつ理解が進んできているとは言え、まだまだ地方では性的マイノリティに対する偏見は根強く残っている。そして、私が東京出身のためあまりピンと来ていないだけで、100年経ったいまだって、部落に対する差別も完全には解消されず、いまだに温存されている部分もあるのかもしれない。

「差別はよくない」

そんな当たり前のお題目を、引き続き、粘り強く叫んでいくことと同時に、「私たちは知らず知らずのうち誰かを差別してしまっているかもしれない」という自覚を持つことが大切な気がしている。

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